眠れぬ夜にぼくらが選ぶいくつかのやり方 1

1.(新開)


 アスファルトの路面から伝わる熱でふきだす汗が、顎の下から喉へとろりとつたう。
 いくらスピードを上げても風はなまぬるい。汗ばんだ肌にもったりと絡みついて不快なばかりだったが、走りきったあとの爽快感はそれとは別だ。
 太陽は深い紫の中に沈みつつあった。晩夏とはいえ、まだまだ夕暮れの時間は長い。
 自転車競技部で学校周辺にいくつか設定している練習コースのうち、この小山のゴールがもっとも景観が良いので、自主練習と称して晴れの日の夕刻に好んで訪れる者は、クライマーに限らず多い。
 新開は夕闇のせまる空を眺めつつ最後のパワーバーを齧り、少し前に似たような景色の中で東堂と交わした会話を思い出していた。
 インターハイが終わってからずっと巻島に連絡出来ずにいるという、東堂にはきわめて珍しい悩み事めいた告白だった。あの話はその後どうなっただろうか。
 東堂と、他校のエースクライマー。単なるライバルとくくれるような簡単な関係でないのは傍で見ていてもよくわかる。自分と東堂のような気軽な友人と呼べる親密さがそこにどの程度存在するのかは不明だが、正直なところ、新開は多少羨ましさを感じている。
 同じレベルで競える存在だからといって誰もがあれほどに互いを意識しあえるものじゃない。相手の存在がレースそのものにまでなってしまうような、そういった相手を得られた東堂は幸運だし、その相手とライバル以上の関係を築けたのだから、可能ならばずっと続いてほしいと思う。そういう関係が身近にあるというのは幸せな感じがしていい。
 夕焼けの色は次第に濃さを増し、あたりに見えるものの輪郭が少しずつ闇の中に溶けこんでいく。
 静かに色を移ろわせる空はなんとなく感傷を呼ぶ。まだ早いと知りながらそれを眺めて、過ぎたものと残るものの数をかぞえてみたりする、そういう季節だからなのだろうか。一年の頃から何度も登った山であれば夕焼け空など珍しくもないのに、なぜだか去りがたい思いがするのは、その色が消えるのを惜しむ気持ちを何かと重ねているからだ。
 部活を引退した三年生達はみな多かれ少なかれ、この夏の終わりを、いくばくかの焦燥とともに諦め心地で過ごしているのだろう。夏休みもあと三日と思えば多少の感傷は仕方がない。新開はひとり声を出さずに笑った。
 感傷の出所が夏のインターハイなのはわかっている。三年間培ってきたものや、過ごしてきた時間のすべてを賭けて走りきった三日間を、まだ思い出にしたくないという気持ちは、新開にもあった。
 無性に去りがたい。まだあそこにいたい。土と緑の匂いにむせ返るような、切り裂く風の音が支配する、あの空間にいたい。ずっとずっと走っていたい。あの日あの道を走った誰もがきっと、そう思っている。
 頭の中からずっと遠くまで伸びていく道を走っている。何度も。目を閉じれば、流れるアスファルトの色と頬を弄る熱風、汗の滴る感触や荒い息遣いが、歓声をともなった音と光になってよみがえってくる。
 東堂の悩みも根本は同じだった。電話をすればレースのことを話さないわけがない。話して確認しあっていくうちに、それはどんどん過去のことになる。
 そのことを、怖がっている。新開にはそう思えた。
 それは東堂という男にはひどく不似合いなことだった。新開は冷えた鉄の色のように反応を鈍らせた東堂の様子を思い出し、ふと口許に手を当てて下唇を摘んだ。
 東堂はあのあと千葉へ行ったんだろうか。あれからあまり顔を見ていない。少し気になったが、自分から訊ねようとは思わなかった。何かあれば勝手に話してくるのが東堂という男だ。
 気づくと夕日はほとんど山影に隠れて見えなくなっていた。校舎裏までは下りでスピードに乗れば十分ほどでたどり着けるが、そろそろ戻らなければ暗くなる。新開は最後のひとかけを口の中に放り込んで愛車に跨り、山を駆け下った。


 日の名残りが西の空を照らす時刻、夏休みの校舎に人影は当然少ない。
 学校に戻った新開が自転車競技部の部室を覗くと、一、二年の寮生が何人か居残り練習をしていた。
「適当に上がれよ。まだ暑いし、やりすぎはよくないからな」
「新開先輩!」
「お疲れ様です!」
 入り口に顔を見せた先輩の姿を確認し、何人かがローラー台から下りようとするのを手を上げて止める。室内の顔ぶれを見渡した。部員たちはぱらぱらと散り、水分を補給したり、タオルで顔を拭いたりしはじめた。
「新開」
 そうやって人垣の開けた部室の奥から声がした。見ると、ボトルを手に椅子に座っている福富の姿があった。
「寿一、いたのか」
 壁際にひとつだけ置かれた椅子に、胸の前で腕を組んで座っている。仁王立ちしているみたいな雰囲気で、あんなふうに後ろから前主将に睨まれていたらきついよなあ、と後輩たちの心情を想像するが、実際のところ後輩たちは知らないだけだった。福富のあれはただ、ローラーの回る音を聞きながらぼんやりしているだけなのだ。
「走ってきたのか」
 新開が近づいていくと、後輩たちから視線を移して福富は言った。
「ああ、少しな。もう帰るけど」
「そうか。ならオレも行こう」
 福富が立ち上がる。一瞬しんとなって、それからがたがたっとそれぞれが一斉に動き、部室内の声がひとつにまとまった、お疲れさまっした!という声が怒号じみて響いた。
「おつかれな」
 ひとつ頷いただけでローラー台の脇を無言で進む福富の横で、新開が振り返って言うと、後輩達はそれぞれに頭を下げて、再び元の位置に戻った。
「寿一おまえ、もしかして午後からずっといたのか?」
「まさか。オレも走ってきて戻っただけだ」
「そうか」
 部室を出て裏庭に向かう石畳のアプローチを並んで歩く。金網沿いに植えられた木々の影が長く延びて、黒々と地面を覆っている。空を仰ぐと、かすかに揺れる枝のあちこちから螺旋を描くように蝉の声が降る。空が音に埋め尽くされているみたいだった。
 スニーカーがざらりざらりと地面を擦る音がふたつ、不規則に響く。
 箱根学園は山の中にある高校だ。夏休み中は車の往来もそこそこあるが、基本的に周辺には人が少ない。その分、それ以外のものの息遣いが近い気がする。鳥も虫も、木々も、人のすぐそばで呼吸をしている。
 こうして福富と二人で夕闇の中を歩く機会も、ゆっくりと減っていくのだろう。夕焼けを見ながら自覚した感傷を引きずっているらしい自分がおかしくもあったが、胸に芽生えた感謝とわずかな寂寥感は、きっと自分ひとりだけのものではないだろうとも思う。
 ウサギ小屋の前で足を止めて、手に提げてきたビニル袋から野菜くずを取り出した。福富にも少し分ける。網の隙間からキャベツの芯を差し入れて鼻先をくすぐると、ウサ吉は鼻をひくつかせ小さく反応を返した。
「でかくなったな」
「あっという間だよな……ところで寿一、お前そろそろ毎日部室に顔出すのやめてやったら?」
「なぜだ」
「二年とか、もう出来ればさっさといなくなれって思ってるかも知んないぜ?せめて一日おきとか、まあ週三日くらいとか」
「そういうものか?」
「そんなもんだろ。まったく見てもらえねえのも寂しいだろうが、自分のときを思い出してみろよ」
 言いながら、こいつにはわからないだろうな、とも思う。二年のときからレギュラーとしてチームを背負う立場にあった男は、自分がどれだけ後輩に対してプレッシャーを与える存在なのか、まるで自覚していない。
 か細い咀嚼音とともに、指先に小さな振動がつたわってくる。
「あいつら、お前がいたから練習上がれなかったんだ」
「まだ、明るい」
「まあそうだけど。自主錬だし」
 自分たちが部室から引き上げたタイミングで、あの中の半分以上は練習を切り上げているだろう。疲れきった体を惰性で動かし続けても上積みは少ない、と新開自身は思っている。
「限界だと思ってからもう一段階頑張って漸く身につくものだってある」
「お前はそう言うと思った」
 新開は笑ってその話を終わらせ、一呼吸おいたあと、別の話を切り出した。
「尽八、ここんとこ来てないよな」
「来てないな」
「夏休みくらい毎日乗るって言ってたのにな」
「そうなのか?まあ、三年はそれこそ自主錬以外の何ものでもないからな。一昨日千葉に行ったらしいし、総北の巻島と相当走りこんできたんだろう」
「あいつが?そう言ってたか?」
「いや、荒北に聞いた。小田原で、帰ってきたところに偶然出くわしたらしい」
「……へえ、そうか」
 では、きっとなにか話をしてきたのだ。
 前に進みたくない、というのは、あまりに東堂らしくない理由だった。そう長くは続くまいと思っていたけれど、やはりな、と新開は納得した。会って顔を見て山に登って、それで終わる話だったなら、むしろこれより簡単な方法を探すほうが難しい。
「もう暗いな」
 声に顔を上げると、福富の顔がほとんど影に覆われていた。
「腹減ったな」
「食べていくか」
「いいね」
 新開は立ち上がり、膝に両手をあてて、くっと一度裏筋を伸ばすと、そのまま両手を挙げて伸びをした。空には星が瞬き始めている。
「冷やし中華食べてえな、坂の下のラーメン屋」
「ああ」
 並んで、部室へと戻る道を再び歩き出す。部室の窓には灯りがともり、何人かの影が、先ほどと同じように動いているのが見えた。
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