夏が終わる前にぼくらにできるいくつかのこと 1

 頭の中に何度も何度も再生する景色がある。
 飛ぶように後方へ流れてゆく緑、そこへ混ざりこむ沿道の人々の鮮やかな色彩。真夏の空。熱せられた路面のゆらめきに踊る真っ黒な影。ぶつかっては離れ、寄せ合い、前後に縺れ合いながら加速し続ける、二つきりの影。
 ペダルを回し、三年の間に馴染みきった山を駆け上がりながら、東堂は頭の中でその映像を、繰り返し繰り返し、再生し続けている。無意識のうちに。周囲の音は自然と遠のき、あの日あの場所で一番近くにいた男の息遣いばかりが耳の内側をざわめかせ、鼓膜を擽りつづけている。
(巻、ちゃん……)
 こめかみから汗が流れ落ちた。トップチューブを叩くポッという小さな音を聞いたような気がした。それが呼び水となって、東堂の周囲に現実の音が戻ってきた。山を登る自らのうみだす音。まわりには、誰もいない。
 夕方近くという時間帯もあるだろうが、頂上に人影はほとんど見えなかった。頂上は小さな公園になっていて、春ならば桜目当てに地元の住人がそこそこ集まるが、今の時期では暇を持て余した学生がうろつくくらいがせいぜいだ。箱根学園自転車競技部の者ならば部活や個人練習などで毎日のように登っている高台だが、徒歩で登るとなるとそれなりの時間と労力をようする。
 東堂は自転車をコンクリート塀にたてかけ、ボトルを手に駐車場脇のベンチに腰をおろすと、息を整えながら残っていたドリンクを飲み干した。
 沈み始めた夕日が雲を薄桃色に染め上げ、西の空は穏やかな光に華やいでいる。
 気温の下がる気配はなかったが、少しだけ強まった風が火照った肌をかすめて冷やし、東堂の体から四方へ拡散するように吹き渡っていく。背後の頭上ではひぐらしの鳴き声がカナカナカナと物悲しげに響いていて、極力考えまいと思うのに、そうしたひとつひとつに、わけもなくも夏の終わりを意識させられた。
 インターハイを終え、三年生は全員部活を引退した。とはいえ進学して競技を続ける予定の三年レギュラー陣はそのままペースを緩めることなく、引き続き自転車に乗り続けている。
 だが全員同じ方をむいてともにペダルを回す季節は終わっていた。そうなってみると、意外と話すことがないことに気がついた。
 今まではチームを強くするために何をすべきかということだけを考えていればよかったのだと、インターハイ後、すこしばかり口数の減った友人達を見ていて思う。
 話すことがないわけではない。だが共通の目的はすでになく、その先の現実的な問題について話すこともなくはなかったが、どういうふうに自転車でやっていくかなんていうことは誰にとっても今はまだ、漠然とした遠い夢だ。
 ただ、未来の事はともかく、過去のこともあまり話題にはのぼらなかった。おそらく終わったという事実を体が飲み込みきれていないせいだろうと、東堂は思っている。終わったレースについて話したがらないのはそういうことだ。だから顔を合わせても、誰もが自然と無口になっているのだ、と。
(本当に、終わったのだな)
 座ったまま前に屈み、膝の上に肘をついて内側にだらりと下げる。
 手にしたままのボトルをきゅっと握り、どこを見るともなく視線を揺らした。背後のポケットからのろのろと携帯電話を取り出し目当てのアドレスを呼び出す。しばらく眺め、バックライトが消えてしまった暗い液晶画面に、深々とため息をつく。
 インターハイ後、東堂は一度も巻島に連絡をしていなかった。巻島からも同様に、連絡はない。
 終わって以降、ずっと頭の中で再生され続けている巻島とのラストクライムが、東堂を今この場所に縛りつけていた。
 どうしているだろうと、話がしたい声が聞きたいと思うのに、まだ東堂は、あの日のことについて巻島と話す気持ちになれないでいる。まだ、あの場にいるような、思い出せばすぐに戻っていけるようなこの感覚を失いたくない、と思っているのだった。
 話してしまったら、巻島とあの日のことを確認しあったら、この記憶が幻のように透明になって、二度と掴めなくなるような気がするのだ。
(巻ちゃんはどうなんだろう)
 インターハイ前は週に三回も四回も電話をかけていた。巻島はそのたびため息交じりで東堂を皮肉ったが、それでも同じ気持ちで約束の日を待ちわびていることは痛いほど伝わってきた。
 だが、今はわからない。巻島の考えていることが、何ひとつ。
 ボトルの中身はすっかり空になっていた。西の空の一端とたなびく雲の端々にほんのり散った桃色を残して、空は濃紺に染まっている。
 結局電話はできないまま、東堂は携帯を閉じた。
 かしゃん、と聞き慣れた金属音が耳をかすめた。振り返ると、親しいチームメイトの顔がそこにあった。
「新開」
「よう、まだいたのか」
 東堂が軽く手を上げて右側を空けてやると、新開はゆっくり近づいてきて、そこへ腰を下ろした。左手にボトル、右手にはパワーバーだ。かりりと剥いて、もぐもぐと齧り始める。
「まだって、……いつから見ていたのだ」
「いや、見ちゃいないけど、毎日登ってるって聞いてたからな」
「誰に」
「靖友。あいつ、けっこう部活に顔出してるだろ」
 東堂は頷きで答える。荒北が面倒見のいいことなど、ハコガク自転車部のものならば誰もが知っている。
「短時間だが、一応毎日来ているぞ。夏休みの間くらいやっておかんとな」
「そうか」
 会話が途切れる。足元から左へ長く伸びた影を目で追いながら、東堂は小さくため息をついた。
「お前は?」
「うん、今日は後輩達と登ってきたんだがお前が見えたんでな、一足先に帰らせた」
「ふーん……」
「電話中だったのか?」
 パワーバーを食べ終わった新開が、ドリンクを口に含みながら問いかける。東堂は手元の携帯に目を落とし、きゅっと唇を尖らせる。
「いや、電話はしていない」
「そうか」
「ああ……なあ新開」
「ん」
「話したいのに話したくないという場合はどうしたもんだろうな」
「……いつも以上に話が見えないぞ」
 東堂は諦め、ふん、と鼻から強く息を吐き出した。
「巻ちゃんに電話したいと思うのに、どうしても出来ん。どうしたらいいのかわからん」
「そうか」
「そうかじゃない。まじめに聞け」
「聞いてるさ。巻ちゃんから電話はないのか?」
「お前が巻ちゃんと呼ぶな……ないよ」
「じゃあお前が電話するしかないんじゃないか?深刻そうな顔してるから何かと思えば……ファンクラブの女達のあしらいはうまいくせに、巻島相手じゃそんななんだな、お前」
「巻ちゃんは女じゃないからな」
「だったら尚更簡単じゃないのか。野郎相手のほうが、普通は」
「普通じゃないんだよ巻ちゃんは。だから、お前ならどうするかと訊いているんじゃないか、……参考までに」
 あくまで参考だ、とさらにつけ加える東堂にああそう、と言って、新開は空を見上げた。宙を見つめて弛緩したその横顔を、墨をのばしたような薄闇が覆っている。東堂は携帯の液晶を見て時間を確認した。そろそろ下りなければ暗くなる。
「俺ならまあ、会いに行くだろうなあ」
 東堂が顔を上げると、新開はにやりと笑って、敵を置き去りにして直線を走りぬける時のように、東堂の眉間を打ち抜く仕草を見せた。
「電話できないなら会うしかねえよ。顔見て話すのが一番じゃないのか?」
「やはりそう思うか?」
 新開は頷き、はははと笑いながら立ち上がった。東堂もそれに合わせて腰を上げる。
「巻島のことはよくわからないけど、お前がらしくないことにウダウダしてるってことはよくわかるぜ」
 それぞれの愛車に近づいて跨り、どちらからともなく公園の出口に向けて漕ぎ出す。このあたりは街灯が少なく、太陽はすでに山の向こうだ。急いだほうがいい。東堂は、新開の後ろについた。
(らしくないな、確かに)
 その気になれば時間などいくらでもある。なにしろ夏休みだ。部活も引退して、どこへ行くにもまったく不自由がない。
 口数が少ないというのはつまり、言葉にするまでもないということなのかもしれないな、と前を行く新開の背中を見ながら思い、東堂はかすかに口許を綻ばせた。
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