電話をするよ 1

 巻ちゃんがおらんなあ。
 周囲に広く散らばった人々をぐるりと眺めて、東堂は思った。カレンダーを眺めながら、ワクワクと待ちわびた大会当日の朝のことだ。
 開催地は巻島の地元である千葉だ。地元自転車店主催の小さなレースだったが練習にはちょうど良く、なにより巻島が絶対に参加してくるはずだと思ってエントリーした大会だった。
 先輩や同学年のチームメイト達は、ほとんど二県を跨いでまで参加する意義があるのかと呆れ顔だったが、東堂にとっては些細なことだ。ここまで出かけてくる労力を考慮しても十分おつりが来る。
 東堂は最近、巻島と競うことが楽しくてしかたがなかった。可能であれば何度だって一緒に走りたい。その瞬間の高揚を思うだけで体の中心がぴりっと痺れるような感じがする。山でこんなふうに競い合える相手は、自転車に乗り始めてからいままでに一度も、ひとりも、現れたことがなかった。
 山であれば同世代に負けた経験がほとんどない東堂にとって、巻島は調和のとれた世界を歪める異物のような存在だった。本音を言えば、最初のうちは目障りでどうしようもなかった。この自分を負かしたというのに喜びもせず、淡々と伏し目がちの視線を流して寄こすその姿には苛立ちを覚えこそすれ、好感など持てるはずもなかった。
 そんな、笑えと言えば作り笑いは苦手だと唇を引き攣らせていたような巻島も、何度か顔をあわせて声を掛け合ううちに、表情が和らいできたような気がする。それはしかし、ほんの僅かな加減のことなので、傍目にはそうとはわからないはずだ。それをわかるとはさすがオレ、と東堂は思っている。そして、巻ちゃんもきっとこんなふうにオレと戦うことをわくわくして待ちわびているのだろうと、すっかり打ち解けたような気になっていた。
 東堂はそんな感じに巻島を友達だと思っていたのだが、実際はそう言い切れるほど親しいわけじゃない。巻島のことは、クライマーだということ以外ほとんど何も知らない。友達といえばチームメイト達が真っ先に思い浮かぶ東堂だったが、巻島はそれとはまったく違う意味で、一番近い場所にいるような気がするのだった。
 おらん、なあ。
 人々のざわめきを掠め、隙間を縫うように歩き回りながらきょろきょろと周囲を見渡すが、巻島の姿はやはり見あたらない。いないのだろうか。いれば、あの特徴的な髪色が視界に入らないはずはないのに。
 何かあったのだろうか。いや、そもそもこのレースに参加する予定がなかったのか。だがそれでは、いるだろうと思い込んで参加してきた自分が馬鹿みたいだ。それは許せん、と思った。謂れのない怒りがこみ上げてきたが、巻島に責任があるわけじゃない。東堂は気持ちを落ち着かせるべく、大きく息を吸って、吐いた。
 だがひどいじゃないか巻ちゃん。地元の大会にいないなんて、巻ちゃんらしくもない。がっかりだ。
 来れば会えると、戦える思っていたここ数日の自分の高揚感がまるきりひとりよがりな空回りだったなんて思いたくはない。それでは自分があまりに能天気すぎる。いずれにしても、姿がないことの理由が何一つ浮かばないというこの状況は問題だった。何に対してかはわからないが、とにかく、何かに対して腹がたった。
 そんなふうに煮え切らないモヤモヤを抱えながら、東堂は出場したクラスで優勝した。ぶっちぎりだった。自転車店のオヤジたちの代表がから「勘弁してよ」と苦笑いで表彰された。
 巻島には結局会えずじまいだった。あとになってスタッフに確認してみると、欠場したらしいということがわかった。エントリー表に名前があったと知って幾分気持ちが浮上したが、同時に、こんなことは今後あってはならないと思った。とある決意を胸に試合会場を後にした、先月の東堂なのだった。

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