no title

 睡眠不足のためばかりでなく腫れぼったい瞼を強く擦る。霞む意識で視界のうち先ず認識できたのは隣のベッド。シーツは激しく寝乱れたきり、だがそこには誰も横たわっていない。サンジはゾロのすぐ背後で眠っている。触れた肌は暖かく乾いていて気持ちがいい。ゾロは目を閉じて固い毛布の端を握った。まだ夜は明けたばかりだ。雨が降っているようだが何故か明るい。青白い光が薄いカーテンに染み込んで、しんと冷えた室内の空気を少しばかり浄化している。
 もう一度寝よう。そう思いながらゾロは伏せた睫を慄くよう震わせた。逃げようもない身体の違和感はただやみくもに不安を煽る。こんなはずではなかった。だったらどんなつもりだったのだ。サンジは言外に何度もゾロに伺いを立てていた。いいの、本当に、後悔しないの。逃がそうとする素振りにうっかり腹を立ててしまったのがいけなかったのだ。あいつが、と隣の男の存在をわざと突き放す。俺にまるで情がねえように諦めているから。
 悔しかったのだ。
 だがそれだけでこんなことをするんじゃなかった。もっと。筋張った長い指先に改めて優しく触れられ宥められて、背を抱かれ挿し込まれてそこで漸く誤りに気がついた。もっと、ちゃんと。好きだとか。言っておけばよかった。馬鹿だ馬鹿だと毎日のように罵られるわけだ。あんな状況下で俺はきっと妙な顔をした。サンジが哀しげに微笑んでいたのが夜に透けてみえた。焦ってくちづけて誤魔化した。いや、サンジが誤魔化されただけだ。
 別にセックスを神聖化などしていない。だがこんなのはあんまりだ。サンジを傷つけたいわけではない。笑っていればいいと思う。それが好きだということだと思う。好きだ。言いたかった。言うべきだった。饒舌なくせに、どうしようもない戯れ事を言ってゾロを呆れさせるくせに、船の上、ふとした日陰でたまらなく幸せそうに笑ってみせるのに。なんで昨夜は黙っていた。もっとおめえがくだらないことを喋っていたらそれに紛れ込ませて告げることもできたのに。あんなに静かで、変な水っぽい音だとか、俺の情けない声だとか、ずっと耳を塞いでいたくて、でもそんなことをすればサンジがどう思うかなどそれこそ想像もつかなくて、ただ、シーツを握っていた。自分の指先が凶暴なだけだと知っているから、縋りつくことも我慢した。問い掛けるようにサンジがゾロの手の甲を幾度が撫でて、泣きたくなったというのが本当だ。罵声には悪態で、蹴りかかられれば刀を抜けばいい。だが、これが愛されるということならどうしていいのかわからない。
 俺は失敗した。確実にだ。頼りない心持になる。サンジはかわらず眠っているようだ。呼吸は穏やかだ。船ではこんなに深く眠ることのない男だ。疲れているのだろうか。俺が疲れさせているんだ、いつも、うまくかわせないから、多分何度も失望させた。オールブルー以外、何かを強く期待するなんていう素振りを見せないから、せめて俺ができることくらい意に添うような振る舞いをしてやりてえのに、しているつもりなのに間違っているのは何故だろう。いいんだよ、別におまえはと何度呪いのように囁かれたか。嫌だった。吐き気がするほど嫌だった。
 ベッドから腕を伸ばす。軋むスプリング。昨夜脱ぎ散らかしたはずであった服はそれなりに丁寧にたたまれてサイドテーブルの上に置いてあった。ただの習慣でそうしただろうに、そうして示される気遣いにゾロは心底打ちのめされる。そっとベッドから抜け出してシャツを着込む。振り返りはしないまま部屋を出た。サンジはずっと寝ているようだった。だが寝た振りをされたところでこの男に関してだけ自分は騙されてしまうとわかってもいた。




 酒場ももう喧騒をひそめている。固く閉ざされたドアにもたれて鼾をかいている酔客がいる。鶏鳴。ふと顔を上げる。激しくなった雨のせいでまた夜に戻ったかのように道行は昏い。瓦斯灯のけぶった光が滲む。寒い、ような気がした。もう夏だ。熱でも出しているのかと思う。
 昨夜は長々と湯にうたれた。シャワーの調子はあまりよくなくて時々水が出たが、普段皆で泊まる宿ならまっさきにフロントに怒鳴り込むサンジが舌打ちのひとつもしなかった。ただ抱き合っただけなのに、知らぬ男のような顔をした。唇だけは優しげで、ゾロのこめかみや頬のあたりを幾度も彷徨っていたが、色の薄い眸は得体の知れぬ海のようであった。電球は最低限の灯りで浴室を照らしていた。排水溝に流されていく情後の痕跡は二人の身体の陰になって惨めさを少しばかり曖昧にしていた。
 結局のところゾロは自分の至らなさにうんざりしていたのだが、サンジはそうは取らなかっただろう。あんな納得のいかない気持ちのまま明かりの下に出るべきではなかったのだ。ゆっくりと掌でゾロの身体を洗うサンジはそれでもまだ沈黙を守っていた。抱かれてそのことに不満はないのに、教えてやることもできなくて、もう二度とサンジに触れられることはないのではないか、それがまるでとてつもなく恐ろしい喪失のように感じられてゾロは怯えた。それでまた険しい顔つきになっていただろう。こんな、情けないのじゃあなくて。雨に濡れる額を拭った。ハンカチくらい持てと世話をやかれたこともあるのを思い出して本当に哀しくなった。こんな、胸の奥底から溢れるみたいな、なんでだろうと、ゾロは思う。なんか、まるで、もうサンジとは駄目になっちまったみてえで、俺は。
「ゾロ」
 前に走りこんだサンジは、控えめに笑っていた。しょうがねえなあと、そんな笑みでいつもゾロを許してしまう。その度ゾロは正体も掴めぬ自信を無くす。足元の感覚が薄れる。痺れるみたいな、俺は笑えねえ、笑うもんかと意地になれば目の奥がいっそう熱くなる。
「独り行かせたほうがいいかとも思ったんだけど」
 やっぱ迷子になってやんのと屈託がない。わざとか。気を使われているのか。それすらゾロには判別がつかない。俯いて横をすり抜けた。あっち、と腕を取られて振り払う。サンジは笑っている。全然わけがわからなかった。いっそ怒ればいいとゾロは思うのだがこんな時に限って厭味のひとつも思いつかない。鼻をすすった。雨は酷くなる一方だ。匂いがつく。あの航海士は陸の雨を嗅ぎ分ける。こんな海に近い港であっても。朝食には出られない。探るような眼をされたらきっとやつあたりしてしまう。どうして、こんなと肌に張り付いていたシャツの胸元を握り、サンジを睨む。こんなのは虚勢だ。弱い犬ほど吼えるってやつだ。わかっている。だから一人で来たのに、どうして追いかけてきたのだと自分の勝手でサンジを恨んだ。 「……もう無理だ」
「何が」
 サンジはゾロが漸くのことで搾り出した一言に軽く惚け、上着を脱ぐ。そしてゾロの頭に乱暴に被せると、強引に指の腹でゾロの眦に溜まった雨を拭った。そうして女には絶対にしないだろう感情が勝った扱いをされほんの少しゾロの心は凪ぐ。俺だから、というのがあるのは嬉しい。喜んではいけないのか。女々しいのか。考えればまた混乱する。そして雨を遮ってくちづける。ちろりと下先で唇の表面を舐められゾロは肩をすくめる。容易く濡れる。どうにかなりそうだ。いつだってその権利をサンジに与えていた。こんな舌でさえ入ってこられてすごく興奮する。だから昨夜俺があんなになったのは。薄目を開いてサンジを探す。好きだと言いたい。でももう言えないだろう。それは今くちづけているからではないのだが。
「船帰ったら風呂入ろうな」
「……ああ」
「今度は酷いことをするよ」
 情欲にまみれた声はさらりと耳朶をくすぐった。ゾロは堪らず吐息を震わせた。サンジの手が従順なそこを触って確かめていった。あのな、いいんだよ、とサンジは優しい。知っているから。往来にはまだ雨の音だけ。そう眠りから覚めるのは億劫なほどの土砂降りだ。立ったままでは辛いくちづけの最中ゾロはまた目を開ける。サンジの眉間に少し皺が寄っているのがぼんやり見えた。知っている。おまえがそうしてキスん時行儀悪く目を開けることだって。そんなサンジの声が聞こえた
江藤様(POB)より。カオルコリクエスト「雨の中でキス」
(2004.6.2)
※アパートシリーズの初夜を書いたら、「なんでもいってください」といってくれたので、
リクエストさせていただきました。
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