まほろば

 いい天気だった。
 昼寝を妨げられたゾロが腕を引くサンジを怒鳴りつけなかったのはそのせいだ。眠い。だが殴りあうのも億劫だ。コックの体から甘い香が流れてくる。瞼を殆ど閉ざしたままゾロはその匂いに鼻をひくつかせた。おやつの時間か。そういえば昼飯喰った記憶もねえ。
「あら、可愛い」
 大人しくサンジに手をひかれてきたゾロをナミが朗らかな声で揶揄った。繋いだままの指先をサンジは離そうともしないで、まだ寝てるんですよと笑っている。穏やかな光景はどこか現実味を帯びていない。
 ナミは珍しく柔らかなデザインのワンピースを身に纏っていた。朝食時にはいつものように動きやすさに重点をおいた格好をしていたのにわざわざ着替えたのだろうか。繊細なレースが重なった裾をふわふわとなびかせながら、少し場所を移動した。そうすると背後のテーブルに置かれたケーキが現れた。いつになく豪勢だな、とゾロは眼を擦った。濃い緑の瓶が空と海からの光の洪水をきらびやかにはね返している。シャンパンか。
「もう喰ってもいいか」
 ロビンのしなやかな手によって甲板に押さえ込まれたままの船長が我慢ならないと言った声を張り上げた。
「駄目よ。物事には順番があるんですから」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
 だあめ、と邪険におあずけをくらわすナミはいたって楽しそうだ。ウソップは何故か心配そうな顔をしている。目があえば苦笑してみせた。胸元にはブーケ。視界からうっかり外れてしまいそうな大きさのチョッパーも角に小さな花をあしらっている。皆がそうだ。
「なんかあるのか」
「ん、結婚式よ」
「誰の?」
 大真面目にゾロは聞き返した。「まあ」とわざとらしく驚いたナミは悪戯っぽい目付きで傍らのロビンを伺う。堪えかねたようにロビンはふきだし、それこそ珍しく声をあげて笑った。
「あんたたち以外は寂しい独り身なんですけど」
尋常ではない展開にまだ夢見てんのかとゾロは目を瞑り首を傾げた。
「ゾロ」
 サンジの声も優しい。こんな人前であからさまな。そんな男じゃなかったとゾロはとろんと意識を手放そうとする。が、きつく握られた掌の熱にそれは敢え無く阻まれた。ぽんとコルクの抜ける音にゾロはしっかり覚醒する。吝嗇なナミは泡ひとつ無駄にしないでグラスに手ずから酒を注いでいく。
「あんたが言ったんじゃない」
 たちの悪い微笑を口元に浮かべたナミは往々にして遠回しな言い方を好む。
「なにを」
「一生モンだって」
 サンジとの関係が目敏いこの女にばれたとき、性欲処理かと言い寄られた。誤魔化すことも下手な自分に詰め寄ってくるナミはどうにも知恵が回りすぎる。億劫ではあったが、そうではないとゾロは正直に答えた。意志の疎通はある。サンジの真剣さを貶めるような軽々しい嘘は躊躇われたからだ。しかしこれでは拡大解釈もいいところだ。
「そこまでは言ってねえ」
「サンジくんはそう言ったわ」
素っ気無いほど淡々と告げられゾロは驚く。こいつがナミに。妙に口数の少ないサンジを見れば、あ、ちゃんと起きたの、と暢気な言葉が返ってきた。
「あんたは違うの」
 さらりと切り込まれゾロは咄嗟に息を殺した。傍らのサンジがそれを宥めるよう笑った。優しいその笑顔は本音を隠した作り物めいていてゾロはあまり好きではない。ふと胸が塞がれる。
「……お遊びだから気にすんなよ」
「遊びじゃねえ」
 こちらは即座に否定した。サンジが顔を赤らめて俯いた。おめえは、と苦々しく呟きながら、空いている手で喜色を隠し切れていない唇に煙草を運んだ。ナミがお手上げというように短い袖から美しく伸びた腕を曲げ、意地悪くゾロを睨みつけた。
「ちなみにサンジくんはこのパーティのことを言ったのでした」




 こんなもん船に乗ってたのか。ゾロは頭にかぶせられた透き通った薄布の端を指先で弄った。つるつるとしていて掴みにくい。すぐにも風に吹き飛ばされそうだ。
 せっかくだからとナミは強引に話をすすめ、ゾロは久しぶりにアラバスタで貰った黒い衣装を箪笥の底から引っ張り出すはめに陥った。ルフィが船長命令でもって早くしろと煩いので仕方ない。わけがわからないままゾロは流される。ナミは着替えているゾロに背を向けて腹巻は駄目、絶対駄目と注文が多い。腹がすかすかすると文句を言えば、後でぱんぱんになるまでお酒飲めばいいじゃないと、反論のしようもない台詞が返って来る。その挙句、こんな変なもの被せやがって。
 複雑な心境らしいウソップと好奇心溢れるチョッパー。ロビンはルフィの傍らに座り込んで、暴れ出さないよう糖衣でくるんだアーモンドを小出しに与えている。
「いつもの格好よりはましかしら」
 ちょっとゾロそのベール次の島で売るんだから丁寧に扱ってよね、ときちんと紅をはいた唇はさかんに動く。そうして心許無く腹部を押えているゾロを改めて検分する。
「黒か。ねえ、ロビンどう思う」
「遊びじゃなかったの」
 心得た笑みで軽くかわされて、ナミは頬を膨らませた。
「お金がかかっている以上手を抜かないわ」
 子供のように拗ねられてロビンは満更でもなさそうだ。甲板に頬擦りしているルフィを深い眼差しで見下ろした。
「色の解釈は地域によって違うのだけど……どうかしら船長さん?」
「いいんじゃねえか。俺は好きだ」
「この船の流儀に従ったらいいんじゃないかしら」
「それはルフィってことかしら!」
 ナミは呆れたふうを装い、床に膝をつく。あんた素敵ね、と麦藁帽子をはだけ、むきだしになった額に軽くくちづける。いつもなら悲鳴をあげてみせるサンジがその様子を寛容に見守っている。だからゾロはどうにも調子が出ない。
「誓いの言葉なんて」
そこでナミはちらりとゾロに意味深な視線を投げかけた。
「あ、ナミさん絶対無理ですってば」
 慌てるサンジに「そうかしら。そうでもないと思うけど」とナミは首を捻る。はしょるのかと、チョッパーは残念そうだ。結婚式なんて初めてなのに。これから幾らだって見れるさ、とウソップが励ます。しっかし、最初がこ、とそこで狼狽えて口を抑える。いやあ、仲間のめでてえ席に立ち会えるなんて運が良いぜとどうにかその場を繕った。
「じゃあ、指輪の交換ね」
 ぽかんとしたままのルフィの頭をぽんと叩いてナミは立ち上がる。テーブルの上に無雑作に置かれていたケースを放られ、それを慌ててサンジが受け取った。左手を取られ薬指にシンプルなデザインのシルバーの指輪をはめられた。節くれ立った指にするりとおさまった指輪を不思議に思う。まじまじと眺めていたら、祝儀なんだからなくさないでよとナミが言う。おめえが用意したのかと他意もなく尋ねれば、選んだのはサンジくんよとこの船の金庫番はつんと顎をしゃくってみせた。
「俺にもして」
 ね、と慎ましく請われて、ゾロは言われるままサンジの指にも指輪をはめる。長い指だ。関節にあたらないよう慎重な手つきでゾロは行う。緊張は傍観者たちにも伝染したようで、ルフィまでがケーキの一言を飲み込んで凝とサンジの手元を見つめていた。無事、神聖なる行為が完了すれば誰からともなく拍手が沸き起こった。
「ありがと」
 それはたいそう秘めやかな声だった。え、とゾロが顔をあげた時はサンジは皆に向かって調子の良く謝辞をのたまわっていた最中だった。ナミに今さりげなくキスすっとばしたでしょ、嘘、ケーキ入刀まで一人でやっちゃうわけと罵られながら、笑っている。その笑顔は紛いものでもないのだけど、ゾロは心底腹を立てた。サンジは時々まったく勝手だ。俺を一番みくびっているのはてめえじゃねえかとぎゅうと拳を握りこむ。指輪をはめた薬指が鈍く痛んだ。

「結婚ってこんなんじゃねえだろ」

 とうとう怒っちゃったかという顔つきをケーキにかぶりついている連中は浮かべた。
「だからお遊びよ」
 とりなすよう努めて明るくナミが笑った。
「遊びでするこっちゃねえ」
 そう強く言い切った剣幕に誰もが気圧された。ゾロはメインマストに丁寧に凭れ掛けてあった和道一文字を手にした。その白い刀を抜いてグラスを手にして談笑していたサンジの胸元に突きつける。
「誓いってやつは紙切れや指輪なんぞにするもんじゃないだろう」
「……ゾロ」
「おめえは俺に何を誓わせたい」
 サンジはそこで少し迷いをみせた。きっと心は決まっている。ただそれをゾロに晒すまいと、言葉にして望むまいとしたのはゾロの野望に対する遠慮か。おめえの想いひとつ背負えねえで世界一になれるかと啖呵を切った。それを信じきらないサンジはまるで未熟な自分の裏返しのようで、手前勝手だと知りつつゾロは憤りを押えきれない。険を帯びるゾロの双眸をサンジは眩しげに目を細めて眺めやった。
「俺が誓いたい」
「何を」
「一生モンだってさ」
 困り果てたように眦に皺を寄せ、サンジはこの日の為に容易されたシャンパンを上品なしぐさで口にした。
「それでいいのか」
「つきまとうよ」
「……だったら俺より先に死なねえこったな」
 険しい眼差しのままゾロは場に相応しからぬ物騒な得物を鞘に収めた。テーブルに寄り、ゾロもグラスを取り、微かに息を震わせた。
「俺みてえなのより、てめえが生きていたほうが世の中のためだ」
 人殺しとコック。ただの事実としてそう言うゾロに、サンジは今はまだ曖昧な笑みしか与えずグラスの縁を軽くあわせた。
「あんたの言い方っていつも辛気くさいんだから」
 ナミは暴力でもってゾロの発言を窘める。今更こんなゾロの物言いに哀しく気落ちしたりなぞしない。その程度には仲間になった。恭しくサンジの給仕を受けながらこの船の誰よりも物分りの悪い男に懇切丁寧に正しい愛の言葉を教授する。
「愛してる。長生きしてくれって言えばいいの」
 そうしたら今夜もご馳走だとルフィが頬を赤らめ目を輝かせる。ロビンは腕組をしたまま腰をかがめそうっとチョッパーに耳打ちした。ウソップがそりゃいいとにやにやして天高く舞い上がるような口笛を吹いた。こんな罪ない企みごとならいつだって大歓迎だ。
「ゾロ……俺、誓いのキスって見たことないんだ……」
 ケーキは食べちゃったけど、とチョッパーはもじもじしながら口元のクリームをぺろりと舐めた。






 変な、夢だ。
 いまだ脱ぐことを赦されぬベールを通し、霞んだ光景はどこまでも幸福に満ちる。蜃気楼か。血に沈んだ足では辿り着けないそれは異郷であったはずなのに。
 サンジが耳元で夢にしないで、とまたひっそりと囁いた。
 わかったとゾロは答えた。これが幻と消えぬよう互いの指を絡めた。皆がはやしたてるので二人はもう一度くちづけた。
江藤様(POB)より。(2003.6.7)

[TOP]