静寂の嵐

 その夜ゾロが言った言葉は死ぬまで忘れられそうに無い。
 だけど俺はそれをすっかり捕まえ損ねて、だから、……尚更。
 
 後片付けを終えたキッチンでぼんやりと天井のランプがゆれるのを眺めていた。
 目の前にゾロがいた。お前、寝ないの?と聞いたら、まだ、と答えが返ってきた。
 外は嵐だった。やり過ごすために小さな入り江で船は錨を落としていて、時折大きくうねる波にあわせて上下した。そしてそのリズムにあわせて、小さく大きく、ランプはゆれた。
 お前は?とゾロが聞いてきた。うん、とだけ、答えた。答えになってねえよとゾロは言ったが、その言葉はなぜだか遠くに聞こえて、俺は返事をしなかった。
 船室の丸い窓のガラスを、思い出したようにぱらららと雨が叩いていく。
 そんなひどい嵐にはならねえな、と、ゾロがつぶやいた。俺はまた、うん、とだけ答えた。右手に持った煙草は火をつけられないままもてあそばれて、すこしくたりとなっている。
 どうにも前に進めやしない。小さい嵐でも十分この船には脅威だし、長い夜を過ごすにはこんな夜はうってつけだ。でも、この奇妙な静寂がなぜか空気の中で清冽な隔たりとなって横たわっていて、時間ばかりがただ徒に流れていた。
 いつも俺から伸ばされる手を待っているゾロが、なぜだか疎ましかった。そんなことに構わず、その気の無いそぶりを見せるゾロのその気持ちの裏を想像して、鵜呑みにして、俺のほうから求めればいいんだ。いつもそうしているみたいに。
 でも、その晩はなぜかそうすることに疲労感を覚えた。俺はただ、億劫だったんだ、多分。
 
「俺の顔を見てみろよ」
 顔を上げると、目線の先にゾロの泣き顔があった。
「お前が目の前にいるのに、こんなに遠くて俺はどうしていいかわからない」
 俺は呼吸するのも忘れて見入った。その言葉を聞いていた。
「いつもお前が俺が考えないでいいようにしてくれるから」
 流れる涙をぬぐうこともせずに。
「サンジ」
 立ち上がって、テーブル越しに手を伸ばした。
「好きなんだよ」
 最後の言葉はささやくように唇の上にのり、消えないうちに俺はその言葉ごと俺の唇で掬い取った。ゾロがかみつくように深く口付けてきて、俺は背筋が粟立つのを感じた。ゾロがいとおしくてたまらなかった。ランプと一緒に揺れる影がかすかにゾロの目元の陰影の位置を変えていき、あわせて表情も変えていく。濃い影の下で、ゾロは俺だけのゾロだった。
 
 床に倒れこんだゾロの上に重なって、首筋に口付けると、ゾロがああ、声を漏らした。
「……ん…?」
「お前が好きだよ」
「……」
「……っは…でも、それが嫌だ……あ、あ…」
 気ばかり急いて適当な言葉が出てこなかったので仕方なく行為に集中して誤魔化した。いつだって余裕はなく、本当は俺のほうが翻弄されているのに。いつだっててめえの方が優位にたっているのに。……なんだってこうなんだろう?
 好きだと言えば、それだけで自由になるのか。それとも縛られるのか。答えなんか無いままうねりのリズムだけが体の中で一体化していく。少なくとも、今、自由でも有り、縛られてもいる。その窮屈な感じがどうしようもなく好きだということなんだろう。違うか?
 そんなことをわざわざ言うつもりも無い俺は、ただゾロの中をひたすらにかき回していた。そうしてゾロのあげる吐息のような声が、好きだ、好きだと聞こえて、俺が突き上げるその律動がゾロには好きだという言葉になって聞こえているんだろうと思った。
 その夜のことは本当に忘れられそうに無い。
 結局俺たちは変わることなんかできねえさ。
 ゾロが終わった後そういった。俺も、そうだと思った。
 多分、ゾロはもう俺に好きだという言葉を言わないだろうと思った。
 俺も多分、言わない。
(2001/2/12)
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