ずっと前から知っている

 廊下の、教室ひとつ分むこうあたりで、ひょこりと、緑色が動くのが見えた。
「サンジお前、2組の女子に呼び出されたって?」
 声がかかって、サンジはその緑を目で追っていたことに気付き、ゆっくりと声のほうに視線を動かす。
「あ、ああー、うん」
「こくられたの?おめー、またかよー」
 授業間の短い休み時間だ。同じクラスの友人は、引きつった笑いを浮かべてサンジの首に片腕を回してひきつけ、このこの、と言いながら、戯れに力を込める。
「うるせえな。しょうがねえだろ、レディがほっとかねえんだからよ」
 ぽんぽん、と回された腕をたたきながら、視線はまた、左側奥の窓辺にあるはずの緑を探して彷徨った。ちらりと見て、またそらす。瞬いてごまかす。それを繰り返す。ああして時折、廊下にいる姿を目にする。何を見ているのだろうかと思うが、とくに目当てがあるわけでもないような気もし、ただ外を眺めるのがすきなのだろうと、サンジは勝手に思っていた。
 クラスメイトが教室から顔だけ出して、誰かを呼んだ。左側にむかって手招きをしている。それにつられるようにして、また左奥に、盗むように視線を走らせる。
 サンジは窓を背にして廊下側をむいて立っていた。右に左に、ひっきりなしに動く人の流れを眺める。さまざまな雑音のなかにふとあがる歓声や、走り回る足音にガラガラと乱雑に扱われる引き戸の音、拾おうという意図もないまま、耳に届くそれらに身を浸している。空気につかまって溺れていくような、まるきり無抵抗の感覚だ。
「サンジくん、おめでとー」
 隣のクラスは移動教室らしい。通りすがりにひらひらと振られた手に、サンジは右手を上げて答えた。隣に立つ友人が、その後姿を目で追っている。
「おめでとう?」
 首をそちらにむけたまま、語尾に疑問符をつけた口調で問いかけてきたので、サンジは面倒に思いながらも、ああ、と返事をした。
「なにが?」
 昨日から下駄箱で知らない下級生に呼び止められたり、教室の入り口で他クラスの女子に呼びだされたり、普段に比べて少々身辺が騒がしい、それが理由だ。
 サンジはまた、ちらりと視線を動かした。そして、ふいに視界に飛び込んできた緑の意外な近さに胸を波立たせ、耳の上辺りの髪が逆立つような、ひやりとした不快感を味わった。
 目の前を、左から右へ、緑の頭が横切っていく。水の中を進むような、ゆったりと滑らかな歩調につられ、サンジは、一旦胸を塞いだ空気を吐き出すのに合わせて、無理やり声を絞り出した。
「たんじょうび、っだから!」
 今日が。今日、が、おれの。とせわしなく付け加える。
 歩き去る緑の頭は、ちらりとも動く様子がない。それを見て取り、サンジは顔がかあっと熱くなるのを自覚した。
「誕生日かあ!そっかそっか」
 友人は納得した、というようにこくこくと頷き、だからかあーそうかそうか、としつこく言った。
 そうだよ、誕生日だ。誰かにとってはもしかしたら重要な、でも、誰かにとってはまったく意味のない。
 自分のことを知るはずもない、緑の頭にむかって投げかけることの徒労を知りながら、それでもサンジは、彼がそのときかすかにでも振り返るのではないかと、淡い期待を抱いたのだ。だから、まるで千載一遇のチャンスを逸したかのように、そのあとは少し落ち込んだ。そして、彼が自分を知らないということをつまらないと感じる自分の気持ちがわからず、そのことはさらにサンジを落ち込ませたのだった。



 そういうこともあったなあ、と、サンジはすこし前の自分を思い起こして、静かに笑った。
 ほんのわずか、すれ違うだけ。その視線の先のものを想像するだけ。それが、学生のときのサンジとゾロの関係だった。お互いにそうだったと知ったのは最近のことだ。
 自分がゾロを遠くから見ていたのと同じように、ゾロも自分を見ていた。その時間を無為に過ごしてしまったのだと思えばやはり後悔はあったが、それがあったから、今があるのだと思うことも出来る。
 サンジの目の前に、ゾロの顔がある。
 サンジの家のリビングだった。キッチンから出たすぐのところに置いたダイニングテーブルのあちらとこちらでむかい合って座っている。
 ゾロはとても眠そうだ。夜食とともにふるまった酒のせいだろうか。グラスは空になっているが、大した量ではない。ゾロは酒には滅法強いし、同じペースで飲めばサンジのほうが先につぶれてしまう。だから、眠そうなのは、酒のせいではない。今ではそういうこともよく知っている。なぜなら友人だからだ。
「なんだ」
 目を伏せたままゾロが言う。サンジが先からずっと見ているのに気付いている。
「なんでもねえよ。眠いのか?」
 ゾロは無言で頷き、姿勢をかえて椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いた。このまま眠るつもりだろうか。
 外で大学の友人達から祝ってもらったあと、連絡をくれたゾロと落ちあってサンジの家にやってきた。友人達は夜はこれからだと言ってひきとめたが、ゾロの方から連絡がくることなどめったにない。どちらを優先するかなどサンジにとっては自明のことだ。
 ゾロのことがすきだった。
 ゾロが同じように自分を想っているとは思えなかったが、それでもよかった。見ているだけでよかった。見ていることすら、あの頃はろくに出来もしなかったのだから。
「たんじょうび」
「ん?」
 突然の言葉にどきどきしながら、平然をよそおってサンジは答えた。そもそも、ゾロがなぜ連絡をくれたのか聞いていなかった。期待するなというほうが無理だ。だがゾロに誕生日について告げた記憶はない。ゆえに、過度の期待は禁物だと自分に言い聞かせることも怠らないサンジだった。
「だったのか?」
「あ、まあ、あいつら飲み会のネタになれば何でもいいってんで」
 ゾロが薄目を開け、眩しげに瞬く。やはりとても眠そうだ。
「寝ちまっていいぜ。なんなら泊まってっても……」
 ゾロは口をへの字に曲げ、ぎゅっと眉根を寄せる。なんとか目を開けようとしているのがわかって、サンジは声を立てずに笑う。
「きょう、なのか」
 サンジはゆっくりと息を吸い、静かに吐き出した。ではゾロは、正確な日付は知らないのだ。そして、知らないから、教えろと、言っているのだと思った。サンジは胸を震わせた。鼻の奥がつんと痛んだ。遠い記憶がよみがえったのは、それがたんなる過去ではなく、今と連続した時間の一部だからなのだとふいに気付いたからだ。
「なんで……」
 サンジの言葉に、ゾロはゆっくり光に慣らしながら、じわじわと目を開いた。
「知ってるような気がしたんだが、なんでかわからねえ。だから聞こうと思って連絡したんだが……」
 それもおかしいような気がして、口には出来なかったのだろう。ゾロが途中で切った言葉のその先を想像で補いながら、サンジにはそれが真実に近いことがわかっていた。
「明日な」
 ゾロが目を、もうすこしはっきりと開いた。瞳はたしかな理解を宿し、かすかに輝きをましていた。
「明日か」
 サンジがうなずくと、そうかといって、ほのかに笑った。サンジが好きな、はにかんだような控えめな笑顔だった。
「おれの誕生日が知りたかったの?」
 聞くと、ゾロはさあ、といったように首をかしげた。そうじゃないことが、そのときのサンジにはもうわかっていた。ゾロはあのとき、聞いていたのだ。そしてそれを、記憶のふちにとどめたのだ。どこで聞いたかも誰に聞いたかも覚えてはいなくとも、たしかに。
 サンジの前を通り過ぎながら、サンジの存在を感じ、熱を意識し、お互いを取り巻く空気がかすかに触れ合うのに、ゾロは気付いていた。そのことはサンジの胸を熱くさせるのに十分だった。
 テーブルの上に無造作に投げ出された、その手に触れたいと強く思った。けれども、テーブル板一枚分の距離は、今のサンジにはひどく遠いものだった。触れさせるのは簡単だった。けれどもそうして触れた手を離せないであろう自分が恐ろしくて、それほどまでに自分の気持ちを昂ぶらせるたった一言をあっけなく吐き出すゾロの存在が憎いように思えて、気持ちを混乱させたまま、サンジは唇をかんでただ俯くことしか出来なかった。
「おめでとう」
 時計の針は気付かぬうちに0時を回っていた。
 ゾロが笑っているのを見ていられればそれでいいと思っていた。いったいいつまで、そう思っていられるだろう。
 夜はひそやかな静けさで、サンジの20回目の誕生日を迎え入れていた。そこにゾロがいてくれたことにいくばくかの感動を覚えつつも、サンジはありがとうの一言をいつまでも返せずにいた。俯いたまま、今このときにゾロをとりまく空気にかすかに触れていられる、この幸せが、いつまでもいつまでも続きますようにと、ひたすらに願うばかりだった。
(2010年サン誕/2009年冬発行「19歳の純情」スピンオフ)
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