月のほとりで

 もう何度だってキスはした。この目も、指も、ゾロの体の隅々まで全部知ってる。だのに、直接目にすれば鼓動は激しく上下する。未だにこんなにも。サンジは体中の熱が駆け上って眩む視界を瞬きで取り返し、頭を左右に振った。ゾロの顔が目の前でふわふわと揺れる。
 笑っているのかどうか定かではない曖昧な表情の下、その気持ちまで見通すことはいつだって困難だった。
 無理強いした記憶は無い。
 けれど、どうしたい、と問う優しげな声色で気づかっているように思わせて、お前もそれを望んでいるだろうわかっていると、全部都合のいいように解釈してきたような気はする。そうするしかなかった。はじめから全部手探りだった。
 ひょっとして、すべての感情を全部、想像で補ってきたのだとしたら。そんな怯えが全身に広がり、サンジは震えた。そうではないと、確証を持って言い切ることは難しい。そうやって確認を避けてきたことは数多い。
 ソファに向かい合って腰を下ろし、サンジは片膝を立てて距離を縮める。腕を伸ばすと、ゾロはその手を取り、指先に顔を寄せて口付けた。ゾロがそんなふうに許す様子は、たまらなく可愛い。たどたどしい不器用な指先で、精一杯の思いをを伝えようとする。今更なにびびってやがる。安らぐような、それでいて過剰なほど昂ぶる兆しに、視界を再びぐらつかせた。ゾロは気づいている。今このとき、言葉にしなかった様々のものをつきつけられている。サンジは慄き、喉を詰まらせながら声を絞った。
「なんか言って」
 両手で抱きしめると、ゾロは頬を摺り寄せるようにしながら伸び上がり、サンジの首に腕を回した。やわらかく触れる皮膚の熱と、至近からかかる吐息。サンジは耳元に唇を寄せて囁く。
「言ってくれ」
 ゾロは感じて、あからさまに背中を震わせた。
「好きだ」
「もっと」
「好きだ」
「足りねえよ、もっとだ」
 もどかしさを埋めあわせるような仕草で、ゾロは下から唇を押し当てる。サンジが反対に傾けて奪い返すと、その顔を両手で包み込み、乗りかかるようにしながら正面で受け止め、引き込んで吸いついた。
「んん、」
 開かれた口の中は深くて、導かれるまま差し出せば柔らかに絡む粘膜はどこまでも優しく、熱さ以外のものを帯びてしっとりと包む。こういうのを愛情深いというのじゃないかとサンジは頭の奥で思った。
 呼吸の合間に小さく喘ぎ、俯くゾロの唇にサンジはわずかに息を残す。
 カーテンは少しだけ隙間を開いて月の光を招きいれ、ゾロの顔に幽かな陰影を作っている。サンジはそっと指を這わせて輪郭をなぞった。いとしい、いとしいものの形。そしておいかける。
「まだ…」
 その声に薄く笑い、ゾロは掠めるような小さいキスをひとつ返した。サンジの足を跨いで膝で立ち、軽く肩に置いた腕を撓らせ、指先にぐっと力をこめる。
「こいよ」
 つくった無表情の裏に渦巻く劣情をそっと掌で撫でて払う。ゾロがはにかむように俯いたので、サンジは意外な思いで見つめ返した。そして、多分今俺はものすごく優しい顔をしているに違いないと思い、また、この胸の膨れ上がるようないとしさがゾロにきちんと伝わっていることをたまらなく幸福に思った。こいよ。ゾロの口からこんな言葉が出ることはめったに無い。色気の無いスウェットに手をかけて一息に膝辺りまで引きおろすと、空気に触れたところがしゅんと引き締まる。膝上から上部に向かって撫で上げると、ゾロは息をつめて震えた。湯上りの火照りが掌に伝わる。サンジはそのまま、ゾロの体ををソファの反対側に向かって倒しこむ。
 口付けながら、柔らかくした指を後ろにゆっくりと埋めて、だんだんと熱を帯びる反応に目を凝らした。もう、何度も重ねた。この先に生まれる快楽は見知った隣人のように馴染み深い。ゾロは強請るように腰を軽くゆすり、口を開き、鼻にかかった声でか細く鳴いた。
 過ごした時間は、長いとも短いとも言い切れない。それでもこうした時に感情を推し量れるくらいには、ゾロを知っているサンジだった。少なくとも、今、誰よりも近い。サンジはゾロの熱い体を掻き抱き、揺らしながら混ざり合う吐息を、そして喘ぎを呑み込み、あたり構わずきつく吸った。


 自分を見上げる丸い目がお菓子をねだる子供みたいにまっすぐに欲望を表している。そういう目をされることは喜びだったとゾロは霞がかった頭の奥で思う。こいよ、などという台詞が自然に口をつくのは、だからだ。多分。
 多分、というのは、心のうちで自分に対して用いる、照れに対する言い訳なのであって、今では癖みたいなものだ。まったく必要のないいわば無駄な抵抗であったし、潔くない自分を情けなく思ったりした。
 だからといって、好きだなどとそう何度も口に出して言うことにはやはり躊躇いがあって、こんな時でなければ素直に気持ちを表すことさえ覚束ない。それは事によるし、相手にもよるのだ。ゾロは、そもそも、自分がこういった色恋沙汰にはまったく不向きな人間だという自覚があった。
 好きな相手を喜ばせたいと思う気持ちがあって、でも次の瞬間にはその喜ぶ顔を苦しみで歪めたいという気持ちが芽生えている。まざりあって、それは乱雑に塗りつぶされた灰色のような感情だった。
 影響をあたえたい。支配したい。強く、思い、思わせたい。幸福も不幸も、全部一緒くたにして味わわせてやりたい。
 まったく身勝手な言い草であるし、そんな乱暴なものを愛情と呼んで丸ごと受け入れられる人間など、そうそういるわけがないと思う。
 この目の前にいる相手だけだ。上で荒い息を吐いて、自分を貪りながら動いているこの男だけだ。ゾロはいとしさと悲しみがせめぎあう感情の波の狭間で涙腺が緩むのを感じた。
 サンジ。こんなにも誰かに執着する感情が自分の中にあるなんて、お前に会うまで知らなかった。
 サンジは、自分が何を言っても、しても、多分笑って、そしてこうして抱きしめるだろう。ゾロは回した腕に力をこめて強く引き寄せる。髪に手を差し入れてやわらかく愛撫すると、サンジは大きく背中を撓らせ、ゾロの中にさらに深く入り込んだ。お前が好きだ、好きだ。感情が爆発する。
「ああ、あっ」
 ゾロが堪えきれず喉の奥から引き連れたような声を漏らす。息が出来ず、空気の在りかを求めるように首を振ってサンジの頭を抱え込む。苦しい、とその腕が伝える。快楽はつねにそばにあり、ゾロの瞳が微かにひらいて揺らぐのも、苦しさばかりを伝えているわけではない。サンジは巻きついたゾロの腕をはずして頭の上で束ねて押さえ、覆い被さると、殊更に激しく突いて揺らした。
「ああ、ああ、あ…っ」
「は…っ」
 息を呑みながらきれぎれに喘いだゾロの首筋に唇を押し付けながら、サンジが低く短く叫んだ。ゾロが一際長く息を吐きながら高い声を発した。サンジは少し慌ててそれを唇で覆い隠し、あわせて大きく数度突き入れ、達した。
 弛緩したゾロの体をぎゅっと抱きしめながら耳元で熱い息を吐いた。ずっとこうやっててえ。汗ばんだ肌は密着させるとしっとりと吸い付いた。サンジは離れるのが惜しくて、短い呼吸を繰り返すその唇をふさいだ。
「ん」
 ゾロは苦しげに胸を上下させる。まだ息が荒い。サンジは構わず深く差し入れ、弄った。胸が詰まる。このままもっとずっと、快感だけで頭の中をいっぱいにして、昼も夜もなく抱き合えたらいいのに。
「月…が…」
 ゾロが顎を上げてサンジの舌から逃れて、小さく呟いた。
「…ん?」
「……最初の、晩…も」
 ゾロの目が開いて、優しげにサンジを見上げる。たまらない目だ。覆い被さるようにゾロの頭を抱いた。ゾロは苦しがって再びそれを引き剥がしにかかる。サンジは鼻を鳴らして離れたがらず、ゾロはとうとういいかげんどけ、とやや声を荒げ、上半身を起こした。つられるように、サンジも起き上がる。
 なんだよ、と仏頂面で問うと、ゾロは呆れたように笑ってサンジの顎に指を添え、胸を占めるとある感情を追いながら、確認するように首を傾けてそっと口付けた。サンジがゆっくりと目を閉じる。
 夏だった。何もかも壊れてしまえばいいと、溺れそうになりながら抱きあったあの日の気持ちは、今も胸の片隅で熾火のようにくすぶり続けている。けれどもう随分遠いとサンジは思った。なんて遠くまで来てしまったことか。改めてその距離の長さを思うと、漠然とした不安のようなものが胸に拡がった。けれど、しかるべき時間の流れを経たからこそ存在するそれへの距離は、長い一生のうちにはたとえ僅かであっても、歴史を積み重ねた証だ。不安と思うのは不確定の未来を憂える気持ちが多少はあるからで、それはべつに自分達に限ってのことではないし、少なくとも今この時、恐れるものなど何も無いはずだった。
「お前が俺のこと好きになってくれてよかった」
 ため息混じりにそう呟くと、ゾロはサンジの唇の下から顎のあたりをすい、と労わるように柔らかく撫ぜた。
「よかったのか」
 探るような眼差しが少しきつくなっているのに、ゾロは気づいていない。声は平坦だったが、誤魔化しの返答など跳ね除ける強さがあった。
「当たり前」
 さらりと答えるサンジに、ゾロは顔を俯けて唇をかんだ。これが最後だ。もう、二度とこんなことは訊いてやらない。わかっているのかお前は。ゾロはゆっくりと近づき、サンジを抱きしめて胸を合わせた。
「離すな」
「ん?」
「俺の前から消えたら許さねえ」
「望むところだね」
 サンジはふわりと笑った。目尻に少し皺ができる、ゾロの好きな笑顔だ。安心する。
 ていうかそれ、俺の科白だろ。腕を緩めて首筋にもたれかかると、サンジが背中を抱えるように腕を回した。
「不安かよ」
「無いわけない」
 ああ、俺もそうだ。サンジは思ったが、口には出さなかった。行く手が覚束ないという事なら、それはあの夏の日からまったく変化が無い。不安か。ならばいつでも、そのつど全部丸ごと晒して、お前が大事だと繰り返してやる。何度だって。
「なあ、もう一回」
 頬を摺り寄せて甘えるような仕草で言うと、ゾロは笑って、サンジの手を取って立ち上がった。狭い部屋の中、ベッドまではほんの数歩だ。
 なあ、俺達結婚したんだぜ。サンジはわざと耳元に唇を寄せて言う。ゾロはくすぐったがって笑いながら首をすくめた。その仕草があんまり可愛かったので、サンジはスプリングのきいたベッドにゾロもろとも思い切り倒れこんだ。ベッドは弾んで、硬く跳ねた。受け止めるゾロの体は温かだった。
「お前が隣に引っ越したいって言った理由、わかった」
 ゾロは仰向けに寝転んで唐突に言った。薄く開いた唇に覗かせた歯に人差し指を当てている。その顔には悔しさらしきものが見て取れてサンジは一瞬目を丸くしたが、すぐににやりと口許をゆがめて笑いかけた。
「へえ」
「一部屋じゃ薄すぎる」
「わかったかよ」
 言いながらくちづけると、救えねえな、とゾロが乾いた笑い声をたてた。
アパートシリーズ継続編その3(2004.3.12)
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