太古の森で

 ここに生まれた音はいったい何処に消えてしまったのだろう。 
 内包する生き物の音をすべて吸い取って、この森はこれほど大きくなったのじゃないだろうか。ゾロはひとりで酒を飲みながら、密集した枝葉の隙間に僅かに透けて見える星明りを眺めつつそんな埒も無いことをぼんやり考える自分に気付き、らしくねえ、と心中で唾を吐いた。
 これまで見たことも無いほど高く聳える樹木の幹はまるで空間を厭うかのように肥え、藪に踏み込めば足元はやんわりと土に沈む。それは、まるで大きな胎内のよう。ずぶずぶと広く手応えはないに等しく、しかし、感じるのは息苦しいほどの閉塞感だ。小さな船の中で感じるそれよりも、圧倒的に顕著だった。
 耳鳴りがする。
 空の島は、やはり青海よりも太陽に近いだけのことはあるのか、気温は平均して高めだ。風は強く清浄なのに、暑い。夜になっても、ちりちりと皮膚に昼間の熱が残る。ゾロはぺろりと顔を撫ぜた。乾いた唇を舐めて湿らせ、酒瓶に口をつけて大きく呷った。
 草が擦れて、背後でざわりと音を立てた。何も無いところに生まれた小さな音は肌に引っかかるような感じがした。
「ちょっと見ねえ間に随分かわいくなっちまって」
 サンジがそっと忍びよってきた。近づいてくる気配を無視し、そのまま放置する。うっとうしい、うっとうしいやつ。
 サンジは声とともに人差し指を背骨にそって滑らせ、ふだん腹巻に隠れた腰のあたりに丸く円を描く様に触れる。ゾロは振り返り、奇妙に表情を凍らせた。サンジは息を吸い込んでひとつ動作を止めたが、意識して笑ってやった。
「何?」
「べつに」
 ゾロはこのわけのわからない苛立ちの理由を先から探していた。振り払っても消えない熱のせいなのか、ここまで来るうちに知らず疲労でも溜まっているのか。にやつき顔で当たり前のように自分に触れるコックの指先も不快でしかたがない。声がざらついて耳にはりついた。
 すぐに前に向き直って表情を消した。背中を向けてしまえばサンジの顔などわからない。背後で大きな溜息が聞こえたが、気付かないふりをした。
「なあ、なあゾロ…うお!」
 ゾロの刀がサンジの腹の寸前を薙いだ。背中を向けたまま、無言でだ。
 見なくとも距離を測ることなどゾロにとっては容易い事なのだろうが、サンジには看過できなかった。あんなに痛い思いをしてここまで来てやっと会えたっていうのに、こいつは何も感じていないのかと腹が煮えた。
 感情のままにすかさず蹴りを飛ばす。ゾロは右腕を上げてこれを防いだが、勢いは消し切れず、体が前方へ弾け飛んだ。
「本気か阿呆!」
 柔らかな土にめり込んだ体を起こして、サンジに向かって怒鳴った。対抗してサンジが叫ぶ。
「俺に刀をむけんじゃねえ!クソが!」
 サンジは上からゾロの胸元をグイとつかみ上げ、顔を思いきり近づけて剣呑に囁く。
「冗談でもそういうことはするな」
「だったらてめえも、俺に向かってわけのわからん形容を施すのは止めろ。ムシズが走る」
「たとえばどんな?」
 サンジはにやりと笑う。ゾロはぎりぎりと奥歯をかみ締め、喉の奥で「ぐう」と小さく唸った。
 嫌がらせのつもりで、胸倉を掴んだままサンジは首を伸ばし、かみ締めた唇をそっと舌でなぞった。息が当たる。ゾロはびくりと肩を震わせた。サンジはそっと頬に手を添え、そのまま深く舌で探り、ゾロのそれを軽く吸いながら離れた。小さく濡れた音が響く。
「悪かった」
 ゾロは小さく呟いた。サンジはゆっくりと手を離し、大仰に溜息をついた。肩が震えた。
 さわさわと静かに吹き渡る風がサンジの前髪をゆらした。
「だが刀を向けねえなんて約束はしねえ。ムリだ。お前にそんな約束はしねえ」
 ゾロは顔を背け、頼りなく視線をさまよわせた。こんな言い方では伝わらないとわかっていても、サンジを前にすると、どうしてもうまくできない。いつもそうだ。
「どうしたんだよお前…」
 サンジは少し悲しい気持ちになって、そう言った。ゾロの中にある種の怯えを感じ、それが自分に関わるものから生まれているのであればいいと願った。この男の考えていることは、いつも自分にはわからない。
 口許の笑みがそのままなのは単なる癖だ。ゾロの指先が伸びてサンジの頬骨の辺りをかすめ、そのまま髪にからんで、つんと引くような真似をした。それはまるで甘えるような仕草で、サンジは混乱する。そんなふうに優しく触るのはやめてくれと叫びそうになり、慌てて掌で口許を覆う。発したのは別の言葉だ。
「……俺の顔を見てほっとしたんだろ?違うかよ」
 ゾロは笑った。笑うしかなかった。敗北を認めて項垂れる側からそんなことを言うサンジを慰めるような笑みだった。なんと哀れな男だろう。目の前の男にそういう感情をくれてやるのはたいそう愉快に思えた。顔を眺めていたら、体に触れていたら、不思議と苛立ちはおさまっていた。
 そんなゾロの勝手な心の移ろいを知ってか知らずか、サンジはやや腹をたて、その首筋に噛みつくように吸いついた。ゾロは耳の後ろからそっと髪や項のあたりを撫ぜてやり、ひくりと喉を震わせた。サンジの耳は冷たく、触りごこちがよかった。頬を擦り、口づけてやった。
「良かった…無事で会えて」
 ぽつりと呟くサンジの声がすんなりと入ってくる。
 この男には敵わないと思うのはこういうときだ。ゾロは諦めて目を閉じる。こんなふうに、思っていることを真っ直ぐに言えたらいい。指先で触れている肌の温度がひたひたと染みとおって、苛立ちは薄れゆき、すでに存在すら朧だった。霧散していく哀れな感情の屍骸。殺すのは、いつもお前だ。
 闇はますます濃く、深くなっていく。遠くに獣の声が響いた。耳のそばを静かに、また、風が通りすぎていった。音が聞こえた。
アンケートお礼文。(2003/1/29)
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