漂う小船のような日常

 斜めで良かったと思う。

 このアパートは築4年で、まだわりと新しい。部屋数は6。駅から徒歩5分で、間取りは1Kだがつくりにゆとりがあって、そこが気に入って借りた。風呂も、この形態のアパートにしては広い。
 ゾロの部屋は通りから見て1階の一番奥の角部屋で、サンジの部屋は2階の手前、ゾロの部屋からは対角線の位置になる。
 つくづく斜めで良かったと、ゾロはもう一度思った。
 
 土曜の昼前。
 買い物がてら軽く外で食事でもしようと外に出た。駅までの道を歩きながら、今日の最高気温は何度くらいだと言っていたかなどとテレビのニュースを思い出そうとしたが思い出せない。アスファルトから立ち上る熱を感じ、午後はもっと暑くなるのだろうと思って、ゾロはすこしうんざりとし、帽子を被ってくればよかったとちらりと思った。
 駅前は閑散としている。
 このあたりは住宅街なので、必要最低限のものは簡単に手に入るがだからといって栄えているわけではない。ゾロは以前に一度入ったことのある蕎麦屋に立ちよりざるそばを頼んだ。休日にひとりで蕎麦をすするなど久しぶりのことのような気がした。うまいのかどうかもわからないが胃におさめてしまえばそれで終りだからこれでいいのだ。
 そんなことをあの男の前で言ったらなんとかえってくるのだろうか。だいたい想像はつく。そしてそんなことを考えてしまう自分に少しだけ忌々しさを感じた。
 ひとりの休日なんて本当にすることがない。無駄に天気がいいので家にいるとかえって気が滅入ってくる。
 今のところで暮らし始める前はそんなことはなかった。スーパーへ向かう道すがら、ゾロは思う。用事がなければ寝て過ごすという休日が自分にとっての休日だった。予定などというものは自ら入れるものではないのだ。
 道場が近くにないかな、と思った。もう随分長いこと竹刀を振っていない。
 スーパーに欲しいものは何もなかった。
 太陽は真上にあって、作られる木陰はどれも貧弱で身の隠しようがない。アスファルトにあたためられた生ぬるい風がゾロをなぶって通り過ぎていく。打ち水は撒かれたそばから蒸発していき、それに作り出されたゆらめきが音を遠のかせた。幻を見ているようだ。
誰かを呼ぼうかと唐突に思って、携帯のナンバーをめくってみたが、通話ボタンを押すまでには至らない。
 いつのまにこんなにもひとりの時間を持て余すようになってしまったのだろうと思い、ゾロは大きく溜息をつく。胸の中がもやもやとして晴れない。結局蕎麦をかきこんだだけでまた部屋まで戻ってきてしまった。
 エアコンのスイッチを入れて、冷蔵庫からビールを取り出しプルトップを思い切り引いた。
部屋は外の明るさに比して適度に暗く、ゾロを落ち着かせた。
 背中の汗でTシャツが張りつく。一口二口と喉にビールを流し込みながら冷たい風を噴出し始めたエアコンの下に立つ。
 ことり、と音がした。
 夕べサンジが忘れていったライターが不安定な位置からずれたのだ。ゾロはそのライターを見つめながらベッドに腰掛けてビールをすすり、何かを懸命に伝えようとしていた夕べのサンジの様子を思い出そうと試みた。
 あれは喧嘩だっただろうか。ゾロが一方的に片っ端からサンジの言い分を覆して、それだけだった。腹の中に自分でも説明のつかない怒りを抱えて、表面には出さずにたった一つの感情さえ認めなかった。おかげで、サンジが一番言いたかったことはなんだったのか、結局何一つわからずじまいだ。
 こくり、と音をたててビールを飲み込む。
 サンジはもう出かけただろうか。今日は休みだとは言っていなかったと思う。それとも部屋にいるのだろうか。
 斜めで良かった、と、また思った。

 電話が鳴った。
 サンジだろうと思った。サンジはゾロが部屋にいることを知っている。通りに面しているのはサンジの部屋なのだ。
 ゾロは迷いながら、無言で受話器を持ち上げた。
「よう」
「……」
「まだ怒ってんの?」
「なんで俺が」
 ゾロは鼻で笑った。機嫌を気にするなんて嫌だと思った。お前が気にするから俺も気にしてしまうんだと言ってしまいたい。
 サンジの部屋をゾロが訪ねる割合は、その逆の半分以下だ。だから、サンジが気付かず、意識しなくても当然かもしれない。むしろ、気にする自分がどうかしているのだとゾロはわかっている。
 ふたりしてみっともなく足掻いている。おかしいのはお互い様だと自覚している。俺達はおかしい。なんでこんなにも、こんなにも気になるんだ女の存在が。
「もう、来ないから、誰も」
「なんのことだよ」
「決めたから。この部屋に女は入れない。もう…」
 サンジが言いよどんで言葉を切る。何が言いたいのか解っている気がするのは期待しているからなんだろうかと思う。そんな自分の心根を意識するとゾロは闇雲に逃げ出してしまいたくなる。Tシャツの上から左の胸をかきむしった。
「もう、アンタしか入れない」
 どういう意味だ、と頭では訊いていたが声にならなかった。
「俺に来いって言わせるな。来たいって思えよ。俺に、会いたいって思えよ。そう思ったらこんなに近いんだぜ、俺達」
 サンジの絞り出すような声でわかる。あいつもいっぱいいっぱいだ。
「なんでこんなになっちまったんだろう?あんたがここにいないと嫌なんだよ。嫌なんだ」
 電話の向こうの声は濡れている。ゾロは心の中でサンジの肩を抱いてやった。そばにいると教えてやりたい気がした。泣くなと言ってやりたい自分もまた泣いているのに気付いて、このいとしさの感情はどこから来るのかと慌てた。
「ビールが…」
 電話口でサンジが震えているのがわかる。その感情の動きが。期待や不安が。
「ビールが、最後の1本で、買いに行かないといけねえ。さっきスーパーに行ったのに、全然思いつかなかった」

「ビールなら…」

 家にあるよ。

「そっちにあるか?」

 飲みに来いよ。
 
 声は空耳かもしれなかったがそんなことはどうでもよかった。
 ゾロは電話を切り、サンジの部屋は2階だからここよりも暑いだろうと思いながら、部屋に鍵をかけた。
 アスファルトのゆらめきを再び目にしたゾロは、暑すぎる、と思った。湿度が高く、それは今でも充分に雨の予感を孕んでいるが、夕立がくるまでは放熱は続く。
 悪いのは俺達じゃない。暑さのせいだ。ビールが無くなったせいだ。
 何もかも全部。
 暑さのせいだよ、とごまかすことはいい考えのように思えた。
 日常にまぎれさせてしまえるように思えた。
 階段の上の太陽は、もう真夏の色をしていた。
アパートシリーズ7(2001/6/26)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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