砂、雨、夜の月

 か細い水の一滴にすら震えるほどに、大地は渇き飢えていた。
その小さな、しかし偉大な連なりに、次第に塵旋風は勢いを失い、雨粒がひとつづつ落ちる速度でゆるやかに嬌声は掻き消え、人々は透きとおったガラスのような痛々しい叫びを聞いた。
 それから崩れ落ちた瓦礫を、槍を突き立てた仲間の体を、流れ出す自分自身の血を、見た。
 そしてゴーイングメリーの面々は、アラバスタという国が己を取り戻した瞬間を見たのだ。

 雨は降り続いていた。
 夜半、目を覚ましたナミのふたつ隣のベッドには、ヘッドボードに背中をもたせかけて虚空を見つめるサンジの姿があった。薄いカーテンは、かろうじて届く薄ぼけた月の光をやわらかく通し、サンジの表情は暗いながら伺えた。
「眠れないの?痛む?」
 サンジは少し驚いた顔を向けて、いつものように眉を下げて少し寂しげな笑顔を見せた。
「いいや。ナミさんこそ、怖い夢でも見た?」
「何、考えてたのよ?」
「んー…別に〜」
 そう言いながら、指はもぞもぞと、寝巻き姿でありながらスーツの懐のあたりを這いまわっている。無意識だとわかって、ナミはくすりと笑った。
「外で吸ってくれば?」
「ははは…。いや、もう手持ちはなかったんだよ。ダメだね俺も」
「じゃあ諦めるしかないわねー」
 サンジはそのままずるずると背中を滑らせながら頭だけをボードに押しつけて、膝を立てた格好で寝そべり、腹の上で指を組んだ。
「諦める…ねェ」
 サンジのその、何かを含んだ物言いにナミはおや、と思う。サンジがこんなふうに心情を吐露するのは珍しい事ではないが、それは人の気を引くための方便だったり、自分自身に対する言い訳だったり、ということが多い。こんなふうにさりげなく、本音を晒している彼は珍しい。
「諦められないならなんとかするしかないわね」
「いいなー、ナミさん。その竹を割ったようなところが。素敵だ」
「……」
「本気で言ってるんだよ。俺ァどうもどっか未練たらしいからさ」
 ゾロの事を言っているのはわかった。サンジが、ゾロに対してどう思っているかなんて事を、普段から全く考えないナミではない。
「諦めが悪いのは悪い事じゃないわ。うちの船なんてその見本みたいなものじゃない」
 自分で言ってみてから、あまりにも陳腐だとナミは自嘲する。真実を告げることがいつも正しいとは限らないが、嘘を言ってもしかたがない。ナミは嘘をつくのは得意だが、曖昧に言葉を濁すことはどちらかといえば不得手だった。
「慰めてくれんの?」
 口元だけで笑いながらそう言うサンジは、実際のところ、何を思ってそんなに悲観しているのか、ナミにはよくわからなかった。サンジなりに、ビビと出会ってからここまでの顛末を通してゾロについて何事か思うところがあったようだが、それを聞き出す事は、ナミには必要とは思えなかった。必要以上に知りたいとも思わなかった。だから、その問いには無言で答えるしかなく、そのナミの態度にサンジはまた「ハハ」と小さく乾いた声で笑うのだった。
「いいよな、ひとつの事だけ考えていられる奴はさ。俺も料理の事だけ考えていられたらどんなに楽か知れねえ」
「そうね」
「ナミさんだってさ、船動かすことだけ考えていられればって思わない?」
「それは思わないわね。なんで船を動かすのか、が重要なんであって、船を動かす事が目的じゃないでしょう」
「……」
 サンジの目は、そんなことわかってる、と言っていた。そして、その目を見たとき、サンジが何を思い煩っているのかを、ナミは知った気がした。
「それに、目的は…」
 頭で考える前に言葉が出てきた。言いながら、そうだ、と思う。
「目的は、別にひとつじゃなくていい。そしてそれを言葉にしなくたって、いいの」
「ナミさんもそう?」
「そうよ。今回はこれで、ひとつ目的が達成されたじゃない。ビビを送り届けて、クロコダイルを倒して、アラバスタは王家に戻った。目的は、それを目指して行動すれば、ちゃんと達成されるものなのよ」
 そう言って、ナミはにっこりと笑った。サンジは少しだけ目を見開いて、ナミの顔をあらためて見た。首だけサンジの方を向いて、覚醒しきっていない目の光は鈍く、枕に広がる少し乱れた髪にサンジはかすかに喉を鳴らす。
「ナミさん、優しいなあ」
「……つまんないこと考えてないで寝た方がいいわ。サンジくんも、重傷…なんだ、から…」
 ゆっくりと目を閉じていくナミを見ながらサンジは心の中で十字を切った。神なんてものを信じた事は無いが、今ナミから発せられた言葉には欲しかった光のようなものが含まれていると感じた。夜だからこそだ。しっとりとした周囲を憚る囁きは、闇に溶けそうな響きでサンジの胸中を満たした。
 なのにゾロが好きだ。ゾロだけが。好きで苦しくて、大事で、なのにあの男は簡単に命を晒して、自分の夢以外に大事なものなんて何一つ無いかのようだ。そんな姿を見ているのが、もう諦めている事とはいえ、辛い。
 人の願いなんて結局のところささやかなもので、生きるために本当に必要なことなんて、少ししかないのだと知っているサンジは、時折、むなしいという感情を思い出す。あの船にはなんて似つかわしくない言葉だろうと思いながら。
 たとえば、この国で雨を待ちつづけた人々は、本当に大事なものは雨ではないのだと知っていたはずだ。雨を待ちながら本当に求めていたものを、彼らは見つけられたのだろうか?
(にしても、ナミさん……鋭いなー)
 ゾロやルフィを見ていて不意に感じる苛立ちを、ナミは気付いていたのだろう。おそらくゾロも、気付かずにナミにはずいぶんいろいろなものを見せているはずだ。
 女には適わない。かなわない自分が良いのだと思う。サンジはだから、女性にはやさしい。そして、ゾロは当然女ではない。労りも愛も意味が違う。
(くそ…タバコ…)
 サンジは上掛けを肩まで引き上げて巻きつけ、そのまま頭を下げて丸まった。骨が軋んで小さくうめいた。寝返りを打ってゾロの方に体を向けると、ゾロもこちら側を向いて寝ていた。
 見ないように、目を瞑った。
(2001/12/19)
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