フォアゴー

 リバースマウンテンの反対側に、それぞれの海へと戻る道があるのは周知であったが、そこへたどり着くのは容易なことではない。世界の中枢が集中している場所だからだ。当然、海軍の包囲は厚い。
 実力もなくグランドラインを目指した海賊が故郷の海へと逃げだすためには、一か八かで「凪の海」に入るかそこを通る以外なく、ゆえに、その場所は海賊達の墓場と呼ばれる。
「手始めに南を目指そう。あったけえ海をのんびり航海するんだ。めちゃめちゃ楽しいぜ、きっと」
 地図を広げて指差すシャンクスの顔はまるで子供だ。ベンは少し頬を緩めたが、これからの航海の厳しさを思えば実際には眉間のしわが深まるばかりだった。
 周辺の海域は、降り続く雪にあたり一面白く凍っていた。流氷を迂回しながらの航海で、目指す島まではまだ相当距離がある。シャンクスの「南を目指す」という言葉は現実の目的を表すものだったが、凍えながら船を操作する船員達の士気を鼓舞する意味もあったろう。
 そうして現在、とある冬島に滞在している。
 エターナルポースはすでに手にしているので、中枢へ至る手前のこの島でログを溜める必要はない。ゆえに、この滞在は無意味なものだ。シャンクスもあえて何も言わない。だが、船員達はその理由を暗黙のうちに了解していた。理由などひとつしかない。それはまた、ベンの眉間に皺ひとつを増やす原因でもある。グランドラインを離れる前にシャンクスの気持ちがそこへ向かうのは自然の事に思えたし、無理に進路を変えているわけでもなければベンには反論する理由がなかった。
 鷹の目の現在の動向はあまりよくわからない。だが向こうにはこちらの動きがわかっているだろう。その程度には足跡を残している。だから、シャンクスはただ、待っているのだ。
 ベンはぞくりと背筋を震わせた。寒さのせいばかりではない。
 一度この海を離れれば次に戻ってくるのは保障のないほど先の事になるはずだ。前回の戦いからすでに半年を経て、一番深い傷もとうに癒えている。まみえれば、シャンクスが一戦交えるつもりでいるのは間違いない。そうなれば、最初の一歩を目前に諦めるような事態が訪れないとも限らない。これが最後の戦いとなる可能性が、無いとは言い切れない。
 赤髪のシャンクスだろうと鷹の目のミホークだろうと、どれだけの腕を誇ったからといって、不死身ではない。海では一切の保障がきかない。それと知らず、幾度も今生の別れを経験しているそれぞれがここで顔を合わせる事になるのだとしたら、それは多分、呼び合うからだ。少なくともベンはそう感じた。
 半年前の二人の戦いは、船員達の目の届かぬ場所で行われた。勝負のつかない長い戦いを終え、傷だらけになって戻った船長を、船員達はいつものように笑って迎えた。シャンクスはカラカラと笑いながら、まあまた、次だな、と笑った。その次が最後になるかもしれない事をその時に予感していたのかどうかは、わからない。
 港から離れた入り江に船を寄せ、そこに船を泊めていた。毎日続く雪景色に飽きもせず、船員達は休暇を楽しんでいる。ここを過ぎたあと、南の海へ至る道は平板ではなく、思うより過酷だろう。それを知っているからこそだ。ベンはとくに何も言わず、好きにさせていた。もちろん、シャンクスも何も言わない。
 シャンクスは甲板にパラソルを出し、その下に椅子を置いて、遠く海を眺めている。パラソルの上に積もる雪を、時々下から棒でつついて落としたりしている。毎日その繰り返しだ。時々酒を飲み、時々寝て、時々船員達と軽口を叩きあいながら、そうして座っている。ガーゼのシャツをゆったりと着込み、黒マントをひっかけ、頭には麦わら。スネの見えたズボンに草履履き。夏だろうと冬だろうとあまり変わらないスタイルなのは、グランドラインではいちいち気にして航海などできないからだ。吐く息は白く、頬と鼻の頭は少し赤くなっている。それでもあまり寒そうには見えない。船員の中には分厚い皮を着込んでいる者も少なくない気候だというのに。
 かしらー、という声が見張り台から降って来て、それを聞いた全員が一斉に沖を向いたのはそれから三日後。
 シャンクスは冷ややかな薄笑いで、沖の黒点がゆっくりと大きくなって来るのを睨み続けていた。
 島に滞在して十日目の朝のことだった。



 ミホークは独特の形の小さな船を器用に操り、入り江に入ると、当たり前のような顔で乗り込んできた。こんな事は初めてで、日の浅い不慣れな船員などは気の毒なほど狼狽している。
「お前達はかまわず引っ込んでいろ」
 ベンは言って、ミホークの前に立った。
「何用だ」
「聞かずともわかろうが、ぬし達の船長に用がある」
 他人の感情に一切頓着の無い物言いが、この男の価値を置く場所が那辺にあるのかを遠回りに知らせる。すべてにおいて普通ではないのに不思議と筋が通っている気にさせるのは、この男の実力の凄まじさゆえだろう。
「よう」
 シャンクスがベンの背後から進み出る。それを取り囲むように幹部の者が並んだ。それと対峙するミホークは、敵船にひとりでいるという事をまるで感じていないように、穏やかな、静かな気配を纏っている。
「いいよお前ら、そのへんにしとけ」
 シャンクスが右手を振ると、幹部達はしぶしぶその場から引いた。だがひとり、ベンだけはかたわらに立ち続けた。シャンクスは一度ベンの顔を見て、再びミホークに視線を戻した。
 雪が強くなり始めていた。
「今日は客分扱いだ。ゆっくりして行け」
 その言葉に、背後がどよめいた。
「お、お頭!」
「本気かお頭!」
 ミホークはにやりと笑うと、土産だ、と言って、マントの下から右手を出した。丸い陶器の壷はどう見ても酒だろう。再び船上にどよめきが起きる。シャンクスはお構いなしに、船の内部へとミホークを連れて入っていった。呆然と見送るばかりの船員達に、「宴の用意を」とつぶやき、しばらく迷いながら、ベンもその背中を見送った。



 シャンクスは真ん中の丸テーブルに積まれていた書物をばさりと乱雑に払いのけ、ミホークにソファをすすめた。ミホークは手にしていた酒をテーブルに置くと、無言で腰を下ろした。シャンクスは棚からグラスを二人分取り出し、それぞれに注いだ。
 部屋は相変わらず適当に物が散らばっていて、猥雑だった。シャンクスは足元をざっとかきわけ、椅子を引き、ミホークと向き合って腰を下ろした。ソファに座るミホークをわずかに見下ろす高さになる。グラスを手渡し、勝手に縁を合わせる。ミホークは無表情を貫いて内側を読むのは至難だったが、シャンクスはその瞬間、もしかしたらずっと以前から、自分はこの瞬間を渇望していたのかもしれないと思った。
「どれくらい経った?初めてやりあってから」
「さあな、わからん」
 ミホークは自ら選んだ酒に口をつける。シャンクスも同じように口に含んだ。どろりとした、刺激の強い辛い酒だった。だが不思議と飲み口はいい。すっきりとしている。こういうのが好みなのか、とシャンクスは何かくすぐったいような、笑いたい気持ちになった。
「美味いな」
 思わず口をついた。ミホークは目を伏せておかしそうに唇の端を引きつらせた。
「……俺も忘れた。まあ、数え切れないくらい戦ったな」
「ああ」
 風が強まり、船は上下に揺れた。ぎいぎいと斜めに傾いで音をたてる。明かり取りの部分は雪に多い尽くされて真っ白で室内は暗かったが、見えないからといって困ることも無い。シャンクスはあえて明りはつけずにおいた。
 ミホークが壷に手を伸ばし、酒を注ぎ足した。そうして、すっと肘を上げて掲げる。シャンクスはそこへグラスを差し出す。
「いつでも殺すつもりでいたのだが、情けないことに今日まで適わぬままだ」
「そりゃお互い様だな」
「何処からまわる」
「南、と言ってるが、その時になってから考える。東かもしれん。一度行けば一、二年はかかるだろう。当分は戻って来れない」
「そうだろう」
「お前と遊ぶのもしばらくはお預けってことだ」
 グラスを掲げ、くい、と飲み干す。ミホークの鷹のような目がくるりと室内を見渡した。
「最後に味わっておきたいか?」
 シャンクスはそう問いかけるミホークを真顔でそれを見返し、しばらく黙っていたが、すっと両手を上げると手のひらを晒して見せた。
「いや、いい。お前もそんなつもりは無えんだろ」
 そう言いながら、もし自分が抜けば、ミホークは躊躇わず抜くだろう事もわかっていた。まったく、救いようのない関係だった。自分を殺そうとする相手を殺すのは、海賊稼業では自然な事だ。だがシャンクスとミホークは、特別憎みあってもいなければ、互いに行く手を塞ぎあうわけでも、あからさまに利害関係にあるわけでもない。だが、殺しあっている。幾度も。顔を見ればいつだってそうやって来た。それが当たり前の事で、それ以外にどうあるべきかと考える必要も無かった。憎いといえば憎かったのかもしれない。まったく自分と重なる部分の見出せない相手が自分と同等か、それ以上に腕が立つというのは、単純に気に食わなかった。おそらく、戦い続けた最初の動機など、その程度のものだった。
「どうももう、お前とは決着がつく気がしねえよ」
「そうでもなかろう」
「……そうか?」
「簡単なことだ。今俺は貴様の船にいる。まあ、敵船だ。周りは貴様の子飼いばかりで、貴様に刃を立てようものなら一目散に飛んで来て命を投げ出すだろう。こんな奥深い船室に押し込められいては、船を壊して逃げる以外ない」
「………」
「氷の海だ。落ちれば長くは持たぬ。自船を壊されていたら終わりだ」
 シャンクスはやや呆気に取られながら、そういうこともあるのかなあ、と想像した。
「変なこと考えるなあ、お前」
「そうか?」
「普通考えねえだろ。それに俺がお前に負けるのが前提じゃねえか。どさくさにまぎれて何言ってんだ」
「そうだったか」
「ああ、それに、俺はいま困ったことにお前の相手をする気は無えんだ」
 シャンクスはくい、と首を傾け、笑って、酒を煽った。
「おかしら」
 ノックの音に返事を返すと、船員が何人かで酒肴が運んできた。ミホークをちらちら盗み見ながらも虚勢をはり、気の強い者は睨みを利かせたりもしている。
「悪いなあ、運ばせて。副船長の指示か?」
「へえ。足りなかったら言ってください」
「十分だ。ありがとうよ」
 そう言って片手をさっと振る。船員達はミホークが珍しいのだろう、ちらちらと見る事を止められないでいるようだったが、すごすごと引き返していった。
「まあ食え。味はそれなりかも知れねえけど、あったまるぜ」
 ミホークは頷き、テーブルの上の骨付き肉に手を伸ばした。
 不思議な光景だ。戦いの場以外で言葉を交わしたことなど無かったから、ミホークのこんな表情を見るのは初めてだった。
「なあ鷹の目」
「なんだ」
 むしゃむしゃと食べながら、目だけを向け合う。
「なんで来た?」
 ミホークはその鋭い目を瞬間閃かせる。一旦間をおいてグラスを煽った。
「貴様が呼んだんだろう。俺は知らん」
 シャンクスはにやりと笑った。指を油が滴り、ぽたりと落ちてズボンを汚したが、それは気にならなかった。ただ、目の前の男が自分を気にして追いかけて来たのだという事実に胸が疼いてたまらず、その無表情の裏に渦巻く感情のすべてを知りたいような気がした。が、すぐにそれは錯覚だと思い直した。
「俺が呼んだのか。ははは。で、お前はそれに応える気になるってのはつまり、俺と会えなくなるのが寂しいんだろう」
 シャンクスのからかいにもミホークは全く動じず、ただつまらなそうにテーブルの上に乗った大量の酒の肴を一瞥しただけだった。もう腹は膨れたようで、再び酒ばかり飲んでいる。
「お前に限ったことではない。俺は、俺の退屈を紛らわせてくれるものがあれば何処へでも出向く」
「退屈なんて思ってる暇がなくなる方法を教えてやろうか」
 シャンクスはぺろりと唇を舐めた。何を言おうとしているんだろうと思うが、その時のミホークの顔を思い浮かべたら、言わない手はないと思った。
「何がある」
「俺と来いよ」
 語尾に重ねて、畳み掛けるように言うと、ミホークの顔が一瞬強張った。予想外、という表情だった。煤けた古い蝋細工のような仮面を剥がせた快感に、シャンクスは腹の内側がくすぐったくて、ゲラゲラと笑った。
「たわけた話だ。つまらん」
「冗談で言ってるわけじゃない。お前がいたら面白いと思うから言ってるんだ」
「本気でか」
「俺は本気じゃなかったことなんか無いよ」
「話にならんな」
 ふん、と鼻から強く息を吐き、ミホークは埃っぽいソファに体を押し付ける。見下ろすような目をして、やや高い位置にあるシャンクスの顔を見た。
「そうでもないと思うがな」
 口上より剣の方が、人を知る手立てとしては有効だ。だがミホークも言葉の力を否定するわけではない。シャンクスの言葉を聞いていると調子が狂う気がするのは、その言葉に力があるからだ。
「そうか。では他をあたれ」
「わかった」
 シャンクスは頷き。それでその話は終わった。いい区切りだと、ミホークは立ち上がった。
「行くのか」
「行くのはお前だ」
 薄く笑い、ドアに手をかけるその背中を見たとき、シャンクスの胸をよぎったのは孤独感に似ていた。寂しい、という感覚だ。まさかと思い、すっかりドアが閉じてからもしばらく動けずにいた。この海に置いていくものがあるとしたら、それはあれだとはっきり悟った。永遠に手に入らないものを欲して生まれるこの孤独や渇きが、これから先もずっと、自分を新しい海へと連れて行くだろう。

 

 棺桶の形をした悪趣味なミホークの船は、空間をひっきりなしに埋める雪のカーテンに隠され、すぐに波間に見えなくなった。シャンクスがそれを見送るのにならってか、船員達もずっと船の行く手を見つめていた。
 シャンクスはそれから、岸辺側に向かうと、ひょい、と船を下りた。すぐ後ろから、おかしらー、と呼ぶ声がした。
 雪が降っている。大降りだ。すぐ目の前にいる相手の姿までもかき消えてしまいそうなほど。
 振り返ると、副船長が船縁の向こうに立っていた。くわえた煙草の先端から煙が千切れ飛んでいく強風の中で、まっすぐに立って、見下ろしている。
「散歩してくる!」
 シャンクスはその姿に向かって叫んだ。雪の礫が口の中に飛び込んでくる。
「すぐに暗くなるぞ」
 ベンは言った。
「……そうだなあー!」
 シャンクスは豪快に笑って言った。そうしてくるりと背を向けた。斜めに降る雪がその姿をかき消した。背中はすぐに見えなくなり、音ばかりが空間を埋め尽くした。
 船には未来ばかりがある。その事を息苦しいとは思わない。だが前ばかりを見続けてふと立ち止まった時、足元に見えるものがあるとすればそれはきっとあの影だろう。
 そしてその度に俺はこの雪の島の事を思い出すのだろうと、シャンクスは思った。
2007年7月1日発行「フォアゴー」
[TOP]