アマゾーン

 闇だった。見渡すかぎりの闇。樹木の隙間を縫うように駆ける足音と息遣い。間断なく続く剣戟に静寂を破られた森は慄き、逃げ出すことの適わない木々はただ闇雲に枝葉を震わせ続けている。
 時々、視界の隅に赤い火がぽつぽつと灯り、ゆらめいている。
 右と思った瞬間、左を風圧が掠めた。シャンクスは咄嗟に体を反転させ、右足を軸にして飛びのいて交わした。弾みで腹から噴出たような短い呼気が近くに聞こえたが、気配は一瞬で遠ざかった。
(この暗がりでまるで猫みたいに動きやがる……鷹の目のくせに、)
 大体、あの剣の長さは密林での戦闘には不向きなはずだ。そう思って引き込んだのに、ミホークのスピードは全く衰える様子がない。
 ドオン、と山の方で何かが爆ぜるような音がした。何かを打ちつけたものか、吹き上がったものか。山頂が赤く燃えているように見えるのは松明が集められているからだ。遥か後方から、すぐそばを流れる大河に沿って上流へと続く光は、一本の線になって山の稜線を描き出している。褐色の肌を持つこの島の民たちが、年に一度の祭りを祝う為に、神の山へと向かう行列だ。
 ざく、とかたわらの草が鳴り、同時にシャンクスは後ろへととび退った。そのまま林を突っ切る。細長く撓んだ蔓が顔を叩いた。ざざざざ、と葉擦れの音とともに風が巻き起こる。ミホークの持つ、この闇を鍛えて固めたような黒刀がシャンクスの背後を真横に薙いだ。シャンクスは体を反転させる。
「ち…っ」
 受け止め損ねた斬撃は薄布一枚分をきれいに裂いた。向き直り、右手を切っ先に添えて、剣を頭上に掲げる。鉄のぶつかる音が波動となって周囲を取り巻く大木の幹を軋ませた。頭上では太い枝が大きく揺れ、飛び散った木の葉が螺旋を描きながらばらばらと舞い落ちる。周囲の緑が四方から圧迫し、音はまるで深い森の奥に吸い込まれてゆくように消えた。その先には松明が、しんしんと静かに揺れている。ぴいおぴいおと不可思議な揺らぎを持つ甲高い笛の音が響きわたる。か細く呼吸のままに鳴らす、ひどく女性的な音色だった。それは炎の揺らぎとあいまって鼓膜に届き、とつぜんぐにゃりと地面が液体に変ったような錯覚にシャンクスを陥らせた。そうしている間に、ミホークの剣は再びその姿を液体のような重い闇に溶かした。
 まるで別の世界の景色のように、ゆらり、ゆらりとひとつずつ、炎が上ってゆく。笛の音と、それに重ねられる息を長く伸ばした低い歌声。スローモーションの世界だ。その傍らの空間で荒々しく互いの命を削りあっているシャンクスとミホークは、間違いなく、その時間の潮流からは遠く離れたところにいた。
「鈍ったな」
 右側の程近い距離に、ミホークの声を聞く。
「お前こそ…」
 剣を振り下ろす。がきん、と鉄が火花を散らす。遠くに揺れる松明の群れにもその音は届いているはずであったが、誰一人注意を向けるでもなく、ひたすらに頂上を目指している。
 この島を訪れたのはこの祭を見るためだったのに。数年に一度、山に備える供物を運ぶ行列の幽玄な美しさを目にしようと、わざわざ進路を変更してまで訪れたのに。
……なぜここに、この男がいる。
 顔をあわせた瞬間、二本の剣は無言で抜かれた。一度抜いたからには、その外のすべての事は置き去りになる。
「忌々しい野郎だぜ」
 シャンクスはぺっと唾を吐き、剣の握りを確認するように左手を押さえた。ミホークの笑う気配を感じた。
「俺の台詞だ」
 振り向きざま、シャンクスの放った一閃が大岩を弾いた。飛び散った礫がぱらぱらと二人に降り注いだ。岩は砕けなかった。砕くつもりで剣を振ったシャンクスは一瞬空を仰いだ。本当に鈍っているって言うのか。あれが崩れてアイツの上に落ちたらよかった。そうしたらこの戦いには簡単にけりがついた。まったく、心底忌々しい。
 打撃の応酬が始まる。刃を打ち合わせ、わずかな隙も見逃さず、誘うように脇を空けてはそこへ腕を振り下ろす。その間、時間は永遠に続くようにすら思える。他の誰と剣を交えてもこうはならない。息が上がるほど、腕が、脚が、鉛のような重さで自らを縛るほどに強く感じる。この相手とだけに起きる現象。この相手とだけ、持ちうる時間だ。
 ぜい、ぜいと喉が鳴り始める。肺が疼き、汗が滴る。
 ぼう、ぼうと炎が燃える。山の上が明るい。笛の音も、低い歌声も、やがて耳を離れ遠く消えゆく。世界は閉じられ、暗闇に互いの息遣いだけを聞く。
「お前も……女達を見に来たのか」
 一糸纏わぬ姿で山を行く女達の群れ。手首足首を彩る石の輪や鎖がしゃらしゃらと鳴るばかり。自らの掲げる炎に照らされた褐色の肌は息を呑むほどに美しいと聞く。
「だったらどうした」
 腕を切られて血が流れ出す。かすり傷だと剣を握りなおす。
「惜しくねえのか?すぐ間近だ。そこにある」
 祭りの夜の女達の、匂やかで隠微な色彩。恍惚の歌声が響く山頂を目指す男達の群れが、もう一方には必ずある。
 踏みしだかれた草から漏れ出す汁の青い香り。一体もうどれほどの間こうしているのか。かすり傷は剣で受けたものよりも、草や蔓で切れたものの方がはるかに多く深刻だ。
「貴様が誘ったのだ」
「言いやがる。お前が俺の前に現れたんじゃねえか」
 がきん、と刃を打ち鳴らす。
「……見つけちまったら、抜かないわけにはいかねえだろう…?」
 そういう形で出来ているのじゃないか、自分達は。その形以外に、必要としない男が、何を。
「貴様がまず、抜いたのだ」
 その剣を。
「貴様が抜いたから、抜いたのだ。俺は」
 シャンクスは動きを止めた。しばらく闇を覗き込んだが、ミホークの姿は見えない。血と汗の匂いがする。目を眇めて透かし見ると、瞼の隙間に映るのは炎の揺らぎ。密度と圧迫感、まるで酔っているような感覚。
 ゆらゆら。
 ゆらゆら。
 山を登る炎の群れ。


 それは向こう側の………
2007年7月1日発行「フォアゴー」
[TOP]