時々、火花のように

 丘の上から見下ろす海はいつも暗い。空が青いときでさえ、シャンクスはそう感じた。
 船の上にいれば海はあんなにも明るいのにどうしてだろうと思ったり、どうでもいいと思ったり、または、気のせいだろうと思ったりする。その時々で色々だ。
 鎖骨に冷たい風が吹きかかって痛む。ぱりぱりと音を立ててひび割れるようだ。しかしそれはこの男にとっては心地よい痛みなのだった。
 癒えるのに時間のかかる傷はその身よりも心のうちに大きくあとを残す。だからシャンクスは、誰よりもミホークと戦うことを好んだ。不自由さを甘受する間、その傷の形や角度、深さ、そして痛みについて考えることは、剣を交えるのと同じくらいに重要だった。
 赤い髪が後ろに靡くのと同じように、鎖骨から肩へ、ひび割れは冷たく伝わって響く。
 シャンクスは笑った。静かに、愉快そうに、唇の両端をぐいと引き上げた。海は変わらず暗いままで、底の方が不穏に濁っている。
「おかしら」
 ベン・ベックマンの低い声音が背後から呼んだ。シャンクスは振り返らず、見え難い底を見通そうとするかのように、海面に見入っていた。
「冷えるぜ。戻った方がいい」
「ここがいい」
「あんた今朝方まで半分死にかけてたんだぜ?」
 ミホークとの斬り合いはいつも、死ぬか生きるかだ。今回は少々、あちらに分があったことは認めざるを得ない。シャンクスはまた愉快そうに笑った。
「死んでねえからいいだろうが……いてて」
 笑っているのか痛みに歪めているのか判別し難いその表情に、ベン・ベックマンは苦い顔をした。動ける方がどうかしているのだ。だがそれを言ってみたところで目の前に動いていられてはどうにも説得力が無い。シャンクスは、「まあかたいこと言うなよ」と見当はずれなことを言い、また海に向き直った。
 確かに今回は少し危なかったが、ミホークもそれなりに深手を負っているはずだ。なかなか派手にやりあった。船が壊れる、と誰かの叫んだ声が耳に残っている。今度こそ殺すかもしれないと思ったし、死ぬかもしれないとも思った。だがまあ結局はお互い生きている。生きていれば、傷を負ったことすらも面白い。頭蓋を金槌でこつこつ叩くような不快な痛みは当分残りそうでうんざりするが、傷など、どれだけ惜しもうとも、いずれ癒える。そうなれば再び剣を交える機会はあるだろう。今までのことを思えば、またいくらもしないうちにその時は訪れるはずだった。
「まあでも…たしかに、いつもよりちょっとひでえか?」
 右腕をひらひらさせてみると、皮膚の内側に火箸で焼くような痛みが走る。
 今回はここまで。ここまでならまだやれる。終わってみればそうやって腕をはかりあう相手として、鷹の目という男は真に申し分ないように思われる。だが。
「また殺し損ねたな……」
 シャンクスは海側に近づき、風を包むように両腕を開いた。丸く太った空気のかたまりが腕の中でひとしきり暴れ、後方へ逃げ場を探す。右腕がぎしぎしと不調を訴える。シャンクスは片頬をわずかに歪めてその痛みをやり過ごすと、暗い海を覗き込むようにしながら前へ進んだ。
「鷹の目の野郎、いったい何処へ行ったんだろうな」
「…さあ?」
「いつもだなァ。どんだけ血に染まってようが足元は確かなまんまで、だから誰も奴の背中を追えない。もしかしたら…」
 シャンクスはそこで言葉を切り、風に乾いた唇を舌で湿らせる。
「もしかしたら海じゃなく、深い緑の底にいて、人知れず斃れていやしねえかと…まあ、俺としてはそんなことも思うわけだ、頭の、ほんの隅っこでだがな」
 振り返ってにやりと笑う。ベンは無言でそれを見返したが、案外どう答えたものか判断しかねたのかもしれなかった。
 なにしろ、あの男はひとりだ。あの鷹の目という男は。
 ベンは目の前でおどけたように手を広げてこちらを振り返る赤髪の男を見ながら、案外この人があの男にとって一番近い人間なのじゃないかと思い、重たそうに首を前に垂れ、嘆息した。なんと厄介なことだろうと思いつつも、それを口に出さない分別が、この男の副長たる所以なのだった。



 鷹の目の手傷は案外深いようだと噂が流れてきたのはそれからひと月ほど過ぎた頃のことだった。シャンクスはその出所と成否を出来るだけ確かめろと配下の者たちに告げた。
「なんか言いたそうだな」
 シャンクスは手にしたボトルをぐいとあおり、手首でくちもとを拭いながら言った。
「いいや」
 答えながら、ベンは傍らに放られたままのシャツを拾い上げた。何日か前に見たものだ。生成りなのか、それともかつて白だったものの成れの果てか。
「あんた最後に洗濯したのいつだ」
 言いながら今度は足元で開いたまま伏せられた本を取り上げ、ふっと息を吹きかけて埃を払った。
 船長用の居室はいつもちらかっている。頭ん中がとっちらかってんだな、とシャンクスは他人事のように笑うが、どうやら散らかっている方が落ち着くらしい。古びた布張りのソファと丸テーブル、書き物用のデスクと椅子、それにベッドと長持があるだけの狭苦しい部屋だが、個室があるのは幹部の一部だけだった。
「さあなあ…」
 にやにや笑いながら腰を前にずらして、シャンクスはソファの背もたれに頭を預ける。ベン・ベックマンの小言は子守唄のようだ。いつも判で押したように決まったことを言う。自分の頭の中でぼんやりと描いた事を、きっちり言葉にしてくれる存在として、シャンクスは彼を心底信頼していた。
「なんだか眠くなってきたよ」
「ふざけてんのか」
 シャンクスはふうん、と鼻から息を吐き、ソファの上にくったりと伸びた。右手にはほぼ空になったボトルがぷらぷら揺れている。
 本当に性悪だ、こういう時のこの人は。ベンはひりひり痛むこめかみを軽く押さえ、何か期待を裏切ることを言う必要がある、と思った。そして同時に、彼の望むことを口にするときに感じる抗いがたい高揚についても考えてみた。
 誰もを欲しがり、一方で、誰も必要としない。そんな中、鷹の目はこの男にとって唯一の例外のように思える。とても危険だとベンは思う。生き死にの問題ではなく、もっと対外的な、世俗的な話の上で。
 顔をあわせたらきっとまた斬り合いだからベンの表情が冴えないのは当然だろう。シャンクスはつまらなそうに目を伏せてソファに寝そべり、小さなため息をもらすと、もう一度横目でその表情を伺った。
 いつだって特段消息を訪ね歩いているわけじゃない。だが何故か自然と耳に入る。ミホークが名を上げれば上げるほど、それは容易いことになっていった。
 赤髪海族団は結成からそれなりの年月を数え、「赤髪のシャンクス」の名はこの海に浸透し始めている。その浸透を早めたのが、おそらく船長であるシャンクスとミホークとの戦いだろう。
 鷹の目は神出鬼没で、どこへでも気の向くまま現れる。その動向を探るのは副船長としての責務だとベンは考えていて、なるべく情報を途切れさせないようにしていた。それは確かにシャンクスの為であるのだったが、災いの種をあえて撒いているような気持ちになることがしばしばある。出来ることなら存在ごと無視していたい男だった。だがその名前は、シャンクスに関わりなく、常に目を配っておくべき敵として認知しておかなければならないほど巨大になりつつある。黒刀をたずさえひとり海を渡る、あれも海賊だ。
 赤髪海賊団はよりも規模的、実力的に上といえる海賊はまだまだいくらでもいるというのが現在のベンの認識であり、それはまったく正しかった。自分達はまだ若く、上にはさらに上がいて、道行きのその先は気が遠くなるほど長く遠い。のし上がっていく為に用意された時間と距離は、まだ果てしなくあった。
 ミホークとシャンクスの戦いは、その先の想像の実現を危うくする現在のところ唯一の要素であったが、シャンクスが鷹の目との接触を望む限り、その要素が消える事はあり得ないのだ。
 シャンクスはいつのまにかソファで寝息を立てていた。寝顔にはまだどこか幼さを残すこの男は、ひとたび戦いの場に赴けば誰よりも強い気を放ち、場を支配する。海賊団の仲間はみな、この男のそういう磁力に惹かれて集まってきた連中だ。
(こうやって寝てると、それも幻みてえに思うがな……)
 横長に細く切られた明かり取りの窓からわずかに陽光が差し込み、床から舞い上がった埃がその中にきらきらと浮かび上がっている。結局掃除はしないままなのだろう。ベンは諦めて部屋を出た。彼は出来うる限り早く、ミホークの行方や状態に関する情報を手に入れねばならなかった。



 意外と、これで消えてくれたら気持ちが楽になるのかも。
 真正面から見据えるのは少し勇気のいる感情だ。自分の思いがけない弱さを知り、驚き、何様だと自らをあざ笑う。こういう感じ方に、シャンクスはあまり慣れていなかった。
 初めて会ってからどれくらい経つだろう。海賊団を立ち上げて間もなく、偶然行き合った話題の剣豪に、シャンクスのほうから挑んだのが最初だった。勝負は五分五分だった。その結果に、シャンクスは内腑を脅威と歓喜で震わせながらなるほどと納得したのだが、ミホークは戦いを終えてまだ目の前に相手が立っていることに驚愕していた。あまり表情がないからわかりにくかったが、確かにそうだった。その顔を思い出すと腹がひくひく波打って震えだす。あれは実際見ものだった。今ではなかなか、見ることの叶わない顔だ。
 船上をゆき過ぎる強い風が麦藁帽子の庇を持ち上げた。シャンクスは咄嗟に手で押さえ、頭からはずす。赤銅の髪を巻き取るように、風は右へ左へと流れていく。仰ぐ頭上には細い筋雲がたなびき、幾つもの線を思い思いに描いている。
 いつかこの空の続く限りを旅して、その総てを目にする。そのほかに野望と呼べるものは持たず、あとは友と酒と陽気な歌でもあれば生きていける。
 だが、そこにはミホークの影がない。それを思うと、まるで片肺が潰れてしまったかのように体の芯が揺らぐ。あの男を生かしたままで遠く離れることをまるで逃げることのように感じてしまう自分の心が問題なのだと、シャンクスにはわかっていた。ただ、その感じ方に慣れないだけだ。
(つまりまだ、時期じゃねえってことだ)
 おかしらあ、と後方から声がかかった。振り返ると、最近船に乗った若い船員のひとりが、鰻のオバケの様な魚を頭の上に掲げている。
「なんだあ?」
「ルウさんが釣り上げたんすよ!今日はこれをかば焼きにします!美味いですぜ!」
「あー、そりゃいいなァ……」
 船べりに片肘をつき、踊り跳ねくるくる回りながら厨房へ消えていく船員を眺めやった。それほど鰻が好きなのだろうか。なら良かった。あれだけ大きければ食べでがありそうだ。
「いい酒はあるのかなァ」
「あるぜ。西のが。この間仕入れたばかりだ」
 少し離れたところに立っていたベンがタイミングよく答える。シャンクスはつまらなそうにそちらを一瞥し、船べりに両肘を預けて後ろ向きに寄りかかると、再び帽子を被り、また空に見入った。空は高い。海面あたりの白から、上空の濃紺まで、あらゆる色が散りばめられている。いい天気だった。
「西か……鰻と合ったか?」
「さあ」
 ベンは食べ物にはあまり詳しくない。口をきっぱり結んで仏頂面をしている。
「お前、時々かわいいよね」
「はあ?」
 さりげなくそばにいて、的確な言葉を選んでよこすタイミングはこの副船長ならではだ。大体シャンクスは耳の間際に思えるほど近くに声が聞こえて驚いたのだ。さりげないにも程がある。
 ベンは聞き捨てならない言葉に顔を顰めている。あははと笑うと、呆れたように肩をすくめ、離れていった。
 体の内側を低温で焼き続ける痛みがある。癒えることを惜しんで痕を残す痒みとともに体内に燃え残る、これは悔いなのだろうか。シャンクスは、太陽に逆らって延びる彗星の尾を思った。惹かれたくないと必死にもがいて体を離すのは、そこに抗いがたいものを感じるからなのではないか。
 未来にあの男の影がないと想像するとにひどく不安定な気持ちになるのは……。
………気になるなら会いに行けばいい。あの男は拒みはしない。むしろ面白そうに似合わない笑みを浮かべて、黙って剣を抜くだろう。それはミホークの望む故なのだろうか。それとも、単に自分に纏わりつく者へのわけ隔てない計らいか。
 べつにどっちでもかまわない。実際そうやって、若い頃から何度も剣を交えてきたのだから。
 穏やかな気配に騙されて手を伸ばせば切り裂かれる。黒い風のような男だ。猛々しいだけならば如何様にもしようがあるが、あの男の柔らかな剣は生半な剛の剣などあっさりと屠ってしまう。屈強さだけではない。そこが面白い。何度でも挑みたいと思う。今こうして心地よい夕方の風に吹かれながら夢想するくらいには、次にまみえる時を待ち望んでいる。
(まあ要するに、俺ばっか探してるような気がしてんだな。だからたまに思い出すとムカつくんだよ)
 ミホークの方からシャンクスに挑んで来ることは稀で、やって来るときはよほど退屈したか、ニアミスして思い出したか、せいぜいがとこその程度だ。と、シャンクスは思っている。一方シャンクスはといえば、副長が有能すぎるおかげで、たいした努力をせずとも、ミホークの動向についてはある程度把握できてしまうのだ。
「あー……腹へったな…」
 前の戦いから三ヶ月は経った。傷も癒えた。
 頃合だ。
 水平線を染める赤を頬に受け、天頂の藍色に瞬き始めた星を眺めながら、次に月が満ちるまでには会いに行こうと決めた。
 めしだあ、という誰かの声がして、シャンクスはくっくと肩を震わせて笑った。
2007年7月1日発行「フォアゴー」
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