さくら風

 坂の途中にある高校の敷地のはずれ、体育館から突出した武道館脇を通りかかると、気合の乗った威勢のよい声が響いてくる。
 板塀の向こう側にある姿は見えない。道にはみ出した大きな桜の枝の下で、サンジは足を止めて、その声を聞く。
 打ち合う竹刀のぴしんと鳴る、その細く清冽な軋みに、声の主の姿を思い描いた。すっきりと伸びた背や、張り詰めた首筋。踏み込む踵の強さなんかを。
 声は聞こえる日と聞こえない日がある。時間もまちまちだ。
 いったいどんな男なのかと気になって、その声を探しながら、ゆっくりと塀の脇を通り、背を預けて空を見上げるのが、このところ、決まりごとのようになっている。
 春の盛りだった。したたる緑が視界に広がり、豊かな枝葉を惜しみなく伸ばす季節。堤防の向こう側で色づき始める空のオレンジはまだ淡く、風は川面にさざ波を立て、堤防を越え、桜の枝を揺らした。
 三年に進級して約二ヶ月が過ぎた。二年から持ち上がりのクラスは顔ぶれにも変化がなく、新しい季節の訪れに胸を躍らせながらも、何かひとつ、物足りない。
 クラスの中にはあからさまに高校受験を意識している者などもいて、サンジにはそれも少々面白くなかった。それを揶揄するような真似は子供じみているとわかっているだけに、腹の底でもやもやと蟠るそんな厄介な感情を、いささか持て余す日々を過ごしていた。
 それが、行く手の見えにくいことに対する不安感なのだとわかっていて、それに抵抗したいという欲求は、尽くす手も無いまま膨らむ一方だ。  
 何かに惑う。ふと顧みた時、進む足を止めたくなる。
 思い煩うというほどでもないけれど、すっきりと前を向けないでいたそんな時、この道で、初めてあの声を聞いたのだ。あのよく通る声。ぴしんと鳴る竹刀の音。
 まっすぐに頭の中に響いて、重い足取りで坂を登る自分の背中を力強く押してくれるような感じがした。わけもなく笑いがこみ上げて、走り出したくなった。


 サンジの通う中学から一番近いその公立高校は、レベルでいえばなんとか上の内に入るといったところで、担任との最初の面談では、サンジの志望校とするにはやや落ちると言われた。サンジ自身、言われるまでもなくわかっていた。成績は一年の頃からずっと、悪くない位置にいる。
 けれどその頃にはもう、この坂道へと通うになっていた。通学路からは微妙に外れていて、家に帰るにはやや遠回りになることなど、まったく気にもならなかった。
 部活を終えて学校を飛びだして坂を登り、竹刀の音や声がやむまでのわずかな時間。それは、サンジにとっていつしか貴重なものになっていた。
 この学校に進むのもいいと思い始めていたサンジは担任の話を聞いて少しがっかりしたのだが、担任にはそれが、サンジが楽をしようとしているように映ったようだった。
「ご実家のレストランを継ぐという心がけは立派だけれど、大学を出てからでも料理の修業はできるんでしょう?」
 大学には行かないとはっきり告げたのに、考えは変わるからと一蹴されてしまった。独身で美人の女教師はまあまあ良い担任なのだが、少し考えに凝り固まったところがある。
 そんなこともあり、サンジはこの板塀の向こうへ踏み入る機会が自分に訪れることはないのだろうと、漠然と思っていたのだった。


 
「お前が剣道好きだなんて初耳だったよ」
 剣道部員であるクラスメイトがサンジを振り返る。
「いいだろ別に、俺が見ちゃ悪いのかよ」
「いいけどさ。俺はどうせ行くつもりだったし」
 週末、市の総合体育館で、剣道の高校総体地区大会が開催されると知ったのも、そのクラスメイトからの情報だった。
「でも地区予選だし、見て面白いって試合でもないと思うぜ?俺らは先輩たちが出てるから、応援とか勉強の意味もあるけど」
 後輩たちと見に行くといっただけなのに、サンジが、俺も行く、などと言いだしたので、親切なクラスメイトは困ったように首をかしげている。
「何しに行くんだよ?」
 サンジは答えず、曖昧に笑って話を終わらせた。


 足を速めて前方を歩くクラスメイトを追い越す。くたびれたスニーカーの先が砂利敷きの地面を軽やかに滑った。
 鼠色の低い雲がアーチ型の屋根の上にたれこめ、まるで空にぶら下がっているみたいだなどと思いながら見上げた。その視界の端に、入り口に吸い込まれていく重そうな防具を担いだ黒い人影が、ぞろぞろと動くのが見える。
 すべてが明瞭で、世界の何もかもが自分に向かって開いているように感じる。心はそわそわと浮き立って、落ち着かない。
「本当にひとりで見るのか?」
「ああ、入ったらお前は後輩たちと居ろよ。俺は、適当に見て適当に帰るからさ」
 クラスメイトの気遣う声も、今のサンジにはまったくといっていいほど響かない。 
 サンジの目的は、純粋に剣道を見に来ている人間とはまったく違うというのだという事を、このクラスメイトに知られたくはなかった。もしかして彼があの声の主のことを知っているかもしれないと考えないではなかったが、尋ねる気にはならなかった。
 クラスメイトは会場入り口で待ち合わせていた他の部員と合流し、サンジはそこで彼と別れ、ひとり、体育館の中に入った。
 剣道の公式試合を見るなど初めてのことで、入ったはいいが、どこに視線を置けばいいのかさっぱりわからず戸惑う。
 ロビーには参加校の生徒たちがたむろしていて、なんとなく身の置き場が無い。
 正面扉からまっすぐ縦に数個並べられたソファは、関係者や、選手の家族らしき人々で、すべて塞がっている。
 右手の壁には張り紙がしてあり、更衣室と書いて矢印の示す方向に、見た事のない制服の女子部員が消えて行った。
 観客席は二階だ。階段の手前にトーナメント表が貼ってあるのを見つけ、ふらふらと近寄って見上げる。
(あった)
 坂の途中にある件の高校は、一回戦の第一試合だ。サンジはあわてて階段を駆け上った。


「いいか、落ち着いて相手をよく見ろよ」
 上から眺め降ろして見つけた一番前の席に着くと、手摺に手を添えて前に身を乗り出した。下には選手と、指導者らしき人物がひとかたまりになっている。
「最初から狙っていけ」
 耳の奥の方で何か弾けるような感じがした。この声だ。この…。
 サンジはドキドキとうるさいくらいに早鐘を打ち始めた心臓の上をてのひらでぐっと押さえ、声の主をじっとみつめた。
 サンジの角度からだと、ちょうど彼の後頭部を見る形だ。面をつけた選手が周囲に集まり、彼の話を聞いている。彼だけは面をつけていない。左手に竹刀を下げ、やや力を抜いた姿勢だが、背中はすっきりと伸びている。
 髪が緑色だった。少し驚いたが、藍色の剣道着によく映えてとても綺麗だ。背はやや高めといったところか。選手の中には、彼より長身の者もいた。
 つまり、これは。
 サンジは限界まで高まった緊張が、一気に解けていくのを感じた。
 三年かもしれない、とは思っていた。それなら、同じ学校を目指したところで、出会うことなどかなわない。目指す意味も無い。
 だが、指導者とは正直予想外だった。声が若かったし、叱咤を飛ばすより、打ち合っている姿ばかりを思い浮かべていた。
 試合が始まる前の一瞬の空白。ふいに、緑色の頭が上向いた。サンジはどきりとして、思わず体を背後に引いた。そのほんの少しの間、彼は確かに、こちらを見た。
 サンジは顔が真っ赤になるのを自覚しながら、勢い椅子に腰を下ろす。
(なんだよ。くそ…ビビった…)
 試合なんか、見ていてもちっともわからなかった。ただ、団体戦をその高校が勝ち進んだということなら、彼の喜ぶ顔でわかった。笑った顔は意外に幼い感じで、試合前に見せた、緊張感を漂わせたきつい眦の気配は消えていた。
 きっとOBだ。学生で、後輩の指導をしている少し上の先輩。先生じゃない。多分、違う。
 胸がほかほかと熱を持って、なんだか息苦しい。
「ゾロ先輩」
 最後の試合を勝った選手が、笑って彼に歩み寄った。
 ゾロ。名前なのかな。サンジは口元に親指を当て、去っていく背中をみつめる。
 もう一回こっち向かねえかな。もう一回、笑わねえかな。こっち向いて笑ってくれないかな。
 次の試合に出る選手たちが体育館に入ってき、入れ替わりに彼らが出て行く。サンジはもう一度よく見ようと身を乗り出した。
 くるり、と、彼が再びこちらを見上げた。慌てたが、今度は逃げずに見つめかえした。強い視線に挫けそうだ。だが彼はサンジを見ると視線をやわらげ、鮮やかに笑って見せた。体の真ん中を射抜かれそうな笑顔だった。サンジは驚き、内心で混乱しながら、再びがなり始めた心臓に手を焼く羽目に陥る。
 履き違えてはいけない。あんなふうに見られる理由が解らない。一体どんな気まぐれなんだろう。
「ひ、貧血起こす…」
 サンジはふらふらと席を立った。



 翌日も坂道を登った。
 試合は結局、別の高校が地区代表の座を勝ち取った。彼の率いる選手たちは、準決勝まで進んだものの、そこで優勝校とあたり、僅差で敗れた。
 今日はいないかもしれない。そう思うとあまり気分が乗らない。
 板塀の途切れるあたりには大きな桜が数本立ち並び、それは武道館の向こうに見えるグラウンドの入り口で一旦途切れ、途中からさらに裏の土手へと続いている。この近隣では、ちょっとした花見の名所だ。
 しばらく、塀のいつものあたりに寄りかかって色の薄い空を眺めていた。
 武道館から、声はあまり聞こえてこない。…彼の声も。
「やっぱ休みか…昨日の今日だしな」
 諦めて帰りかけたところで、桜の向こうに、ちらりと人影が揺れるのに気づいた。
「よう」
 あまりに驚いて息を呑んだせいで、顔が変な風に固まった。サンジはどうして良いか判らず、ただ前方に立つ人物をみつめた。
 緑の髪。半袖のTシャツから伸びる腕。良い具合に色落ちしたジーンズ。昨日見た胴着に袴とは違って、それは今までに想像した事のない姿だ。
 けれど、サンジを見て笑いかける眼差しは、昨日と同じだった。口中にたまった唾を飲み込むと、喉が派手に鳴った。
「お前、ここによくいるよな。中学生か?」
「…うん」
背後からぬるい風が髪を弄って通り過ぎた。制服の裾をはためかせ、彼の緑色の短い前髪をふわふわと揺らす。
 まさか、向こうがこっちに気づいているなんて思わなかった。サンジは血の気が引く思いで、呆然と男をみつめた。
「昨日、試合に来てたろ。剣道やってるのか?」
 サンジは男を前にして何故だかやたらと恥ずかしく、俯き、右手の甲で左頬をごしごしと擦った。だからこの男はあの時笑ったのだ。さっきから顔が火照ってどうしようもない。
 唇にぎゅっと力を込めて、親しげに話しかけてくる笑顔に、おそるおそる目線を上げる。
「やってねえ…」
 男はサンジの答えに軽く右眉を浮かせ、それから少し考え込むようなそぶりを見せた。
「そうか、まあ…」
 いろいろだな、と呟き、勝手に納得したように頷いた。
「友達が」
「あ?」
 何か話さなければととっさに声が出た。男は訝って低い声で問いかける。サンジは慌てて言葉をつないだ。
「行くって言うから、ついてっただけだよ。別にここの学校を見に行ったわけじゃねえ」
 言ってから、これじゃあまるで、見に行ったんですと言わんばかりだと気づいたが、後の祭りだ。男は面白そうに目を丸くして、再び頬をこするサンジを眺めている。サンジは相変わらず顔が上げられず、視線は地面と先の汚れたスニーカーを行ったり来たりしていた。
「まあ、負けちまったしな、だから今日は練習は休みだ。来てるやつもいるけど」
「あんた、先生なのか?」
「お前、生意気だっていわれねえか?」
 思い切って顔を上げ、問いかけると、ふわりと笑い返された。
 信じられない。あの声の主と、こんな風に会話をしているなんて。
 心臓は徐々に落ち着きを取り戻しはじめている。サンジは言葉の合間に、そっと深呼吸する。
「俺は大学生で、OBだ。去年までここにいたんだけどな。顧問が倒れちまって、他のOBらと交替で練習見にきてんだよ」
 そうだったのか。どうりで、いない日もあった。納得の思いで男の顔を再び見上げた。サンジより、少し高い目線。
「ま、それも昨日で終わりだ」
 息を呑む。言葉が心の芯に重く沈んでいくようだ。
 もう、きっと会えない。
 今までだって、声を聞いていただけだ。会えるなんて思ってもいなかった。今こうして目の前にいて口をきいていたって、どうも現実感は薄い。今のこの、空の色みたいに。
 西の空が色づくまでは、まだ少し間がありそうだ。日は一日ごとにゆっくりと伸び、時間もそれに合わせて歩幅を緩める。
 気づかないふりをしたって、それは確実に刻まれていて、ある日突然、その事実をつきつけてみせる。
「もう、ここには来ねえのか?」
 ようやく出た声は、渇いた喉にひっかかってに掠れていた。
「どうかな。たまには顔を出せたらいいと思うけど、昨日で三年は引退しちまったし、試合は当分無いしな」
 サンジは目の前にいる男が、自分にとってどういう存在なのかを考える。名前は知っている。けれど、自分はそれを呼ぶことを許された存在ではない。そして、彼はサンジの名前など知りもしないし、おそらく、知ろうともしていない。
 どうしてこんな事になってるんだろう。考えてみても戸惑いのほうが大きい。 どうなってしまうんだろう。それでも、心がどうしようもなく彼に向かっていくのだけは確かで、もう自分の力では止められそうにない。戸惑う一方、頭の片隅は妙に冷静で、サンジ自身の現状をかなり正確に把握していた。
 身長は彼のほうが少し高いけれど、きっと、自分だってまだ伸びる。そうすればいずれ追いつく。そうなった時の事を想像する。見上げるのでなく、同じ目線で同じものを見られるようになった時の事をだ。
 ざわり、と音をさせて、頭上を風が吹きぬけた。桜が大きく枝をふるわせ、青い葉を数枚、ぱらぱらと散らせた。
「風が出てきたな。お前、家は近いのか?」
「……ああ」
 男の声に思索は途切れた。同時に視界は現実に引き戻され、彼に向かっていた心は、点火の途中で火の消えた花火みたいに、色も音もなくした。
 けれど熱だけはそこに燻り続けるだろうと思った。おそらく、今を境にして、これからも。
「そうか、じゃあ気をつけて帰れよ」
「待ってくれよ」
 離れかけた男の足元に楔を打ち込む思いで、サンジは声を絞り出した。
 男は足を止め、サンジの言葉を待っている。サンジは目の縁がじわりと緩むのを感じた。こんな時に。この肝心な時に。声が震えてしまうじゃないかと、奥歯をかみ締める。
「俺、いつも、ここで」
 顔をあげ、正面から見据えた。男は表情を変えず、サンジの口許を見ている。その姿に励まされるような気がした。
「あんたの声、聞いてた」
 男が軽く目を見開く。
「なんか、聞いてると気持ちよくて、胸がしびれる感じだった」
 胸元を掴み、唇を噛んで俯いた。こんな風に胸が絞られるような痛みを、サンジはこの場所で、ずっと感じていた。
 二人は動かず距離を保つ。サンジからはおよそ三歩。しかし、よほどのスピードでつめない限り、簡単に逃げられる距離だ。
「どんな顔してんだろ、とか、いろいろ想像して。大会を見に行ったのも、あんたの姿を知りたかったからだ。なのに、あんたの方は俺のこと知ってんだもん。なんだよそれ。なんなんだよ」
 最後の方はやけくそ気味で早口になった。男は大きく肩を上下させて息を吐き出し、俯いてごりごりと頭を掻いた。
「お前、名前は?」
「サンジ」
「俺はゾロだ。俺は、お前の姿を何度か見たよ。外で休憩するとき、よくこのあたりに立ってたからな」
 桜によりかかって、サンジに向けて笑って見せた。曖昧で、意味の通りにくい笑みだ。こんな顔もするんだ。昨日、試合会場で見たあの笑顔に比べると、どこか隠微な感じがする。そう思う自分に、サンジは腹の底で唾を吐いた。
 今ゾロが立っているあたりは、桜が邪魔をして、サンジがいつもいる位置からは丁度死角になる。あんな所に立たれたって、気づくわけがない。
「お前、いつも堤防の向こうの、河原の方をぼうっと眺めて、じっとしてた。何を考えてるのかと思って…」
「あんたさ。あんたのことを考えながら、あんたの声を聞いてたんだ」
 遮るように放ったサンジの言葉に、ゾロは、はは、と笑った。笑うしかない、という顔でだ。サンジも、悔しまぎれに顔をしかめて笑う。
 ゆっくりと近づいて目の前に立つと、ゾロの手がサンジの頭に伸び、大きな手のひらで包み込むようにさらりとひと撫でした。サンジは俯き、目をつぶって眼球に力をこめ、その手の動きを想像の中で追った。
「夕焼けの色がかぶさると、綺麗なオレンジになるんだぜ、この頭。しらねえだろ」
「しらねえ」
「今日の空じゃ駄目だな」
「しけてるからな」
「でもまあ、これも悪くない。こういう鈍い色もな」
「あんたの緑は最高だよ」
「まあな」
「俺に見とれてた?」
「はあ?」
「そう聞こえるんだけど」
「……」
「ねえ、また会ってよ」
 ゾロ、と小さく名前を呼んだ。ゾロの手が静かに離れた。サンジは顔を伏せたまま、ゾロの言葉を待った。そのまま行ってしまうかもしれないとも思ったけれど、顔を上げる事はできなかった。
 去らない気配に、何かが動き出す予感を覚えた。これまでの事を思えば、いつまでだって待てる気がした。
 空はゆっくりと色調をととのえ、彩りを増やし、春は彼方へ去ろうとしていた。
(03年ゾロ誕企画参加文/サンジ年下ゾロ年上企画)
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