緑沈夏風

 山間の古く小さな温泉宿は宿泊客も少なく落ち着いてのんびり出来るだろうと思ったのだ。


 男のふたり連れなど悪目立ちもいいところだとゾロが言って、実際サンジもその通りだと思ったのだがこの場所を選んだのがサンジだったのであっさり認めるわけにもいかない。
 夏休みを合わせてどこかへ行こうと面倒くさがるゾロを説き伏せたのもサンジだ。土日をからめて五日間。どうせなら遠くに行きたいとゾロは言ったのだが、結局車で移動できる範囲でそこそこ遠くに、というところに落ち着いた。サンジがいろいろと決めてきた時もゾロは別段反対したりはしなかった。
「お前だって良いって言ってたじゃねえか」
「こんなに人がいないとは思わなかったぜ」
 建物は落ち着いて、小さいながら歴史を感じさせる立派な構えだ。風呂も見事だし料理も素朴だが申し分ないという評判の宿で、周囲には他にこれといった建物もなくまさに一軒宿といった風情である。眼下に流れゆくせせらぎの音以外には、蝉の声と葉摩の音。時折山鳥の鳴き声が耳をかすめる程度だ。
「静かなところがいいって言っただろ」
「観光地は嫌だって言っただけだぜ?混むし」
 着いて早々一風呂浴びて浴衣に着替え、部屋に戻ってきたところだ。窓を開けていると渓流からあがってくる空気が肌を冷していくのが心地よい。冷房はないが、この自然の風だけで充分だ。
「まあまあ、ここには一泊するだけだからいいじゃねえか。山の次は海ね」
 ゾロは片眉を上げてサンジを見下ろす。畳に地図をひろげて次の町までのルートに見入っているその嬉しげな顔を見ているとまあ良いかと思えるから不思議だ。
 不思議といえばこの男に関してはどんなことだって不思議だとゾロは思う。何故こんなふうに一緒に過ごすことが当たり前の事になったのか。出会った頃に遡って考えてみてもあまりに自然過ぎて、自分の気持ちすら思い出せない。
 ゾロは外に背を向けて窓辺に腰を下ろした。背中と浴衣のすき間を風が抜けていく。気持ち良さに目を瞑り、さやさやという葉摩の音に身を委ねた。
 サンジが視線を上げると、ゾロは柱にもたれて気持ちよさそうに目を閉じていた。風がゾロの横を通りぬけて、サンジの髪を揺らす。見慣れた寝顔も風景が変わるといつもと違って見えて、サンジは目を細めた。口元がほころぶ。
 キスをしたいと思う。いつも、ゾロを見ていると思う。かすかに開いた唇が、サンジに甘い疼きをもたらす。
 風が、またふわりと流れて、サンジの胸元に入り込み浴衣をかすかに膨らませた。
 ちりん、と風鈴が鳴った。どこにかかっているのだろう?


 ゾロは女扱いするなと思い出したように言う時がある。サンジはそんなふうにしているつもりはないのだが、触れ方がそうなんだと言って時々嫌がる。けれどもサンジとしては、女のようにではなく好きな相手に触れているだけなのだから、それについては異を唱えたいところだ。
「だから、常に誘っているようなあんたが悪いんだよ」
 こんなに好きな相手に無防備でいられて触れるなという方が無理だろう。サンジは畳の上を這って窓辺のゾロに近づくと、そっと伸び上がってキスをした。
「こんなふうにさ」
 ゾロは目を覚まさない。二度三度と口づけ、裾の割れ目から手を差し入れて足に触れる。
「いっそ俺が触れなくなったらあんたがどういう反応をするのか知りたいところだけどね」
 ゾロがそう言う本当のところもわかっているつもりだが、どうしたって欲望の方が勝る。
「だけど、それは無理なことだよ。あんたが許す限りは、俺は引くつもりは全然ねえよ」
 膝に口づけて軽く歯を立て、その上の柔らかいところに指を這わせる。ゾロがぴくりと動いた。見ると、目を開けてサンジをじっと見つめている。
「何してんだ」
 サンジは上目遣いにゾロを見上げながらにやりと笑う。
「……いたずら」
「すんな」
 口づけていた足が前に振られて、サンジは後ろに弾かれた。そして大げさに倒れこんで芝居がかった声で不平を吐き出す。
「なんて乱暴な奴だよ。せっかく盛り上がってたのに」
「ひとりで盛り上がってろ、アホ」
「あー、なんで俺こんなのがいいんだろ。自分が不思議でたまらねえよ」
 そして仰向いて嘆息と共にそんな事を言う。
 こっちの科白だ、とゾロは思ったが、言葉は前歯の手前で止めた。サンジを無駄に喜ばせるだけだからだ。あとで手がつけられないことになるとゾロは経験上知っていた。
 結局、お互い同じ事を感じているのだ。どうしてこの相手でなければならないのかなんて、考えたってわかるはずがない。
「なあ、しようぜ」
「はあ?」
「夕食までまだあるしさ、そんで終ったら風呂に行こ」
「いやだ。風呂は入ったばっかだし」
 ゾロは柱に頭をもたれたまま半目でサンジを見下ろしている。
「何のために二人で来てんだよ。言っとくけど覚悟しとけよ五日間。寝かさねえから」
「運転しねえよ?」
「……う…」
「ハハハハ」
 肩を揺らして笑うゾロの後ろのこんもりとした緑があまりに鮮やかでサンジは目を眇めた。今ここにこうしていられるという事自体奇跡みたいなものだ。ゾロのまわりに弾ける光が眩しかった。
「…俺が全部運転すれば、じゃあいいわけね。わかった」
 よいしょ、と言いながらサンジは窓枠に腰かけたままのゾロを引き摺り下ろしにかかる。
「んなこと言ってねえ…おい…!」
「好きだよゾロ。あんた最高」
 サンジは形ばかりの抵抗をして見せるゾロの言い訳を許しながら腕を引き、上から覆い被さってくるその唇に笑いながら口づける。
 いつだって許してあげるよ。あんたの気が済むように愛してあげるよ。あんたが俺を愛しやすい様に仕向けてあげる。だからあんたは俺が泣いても笑い飛ばして、馬鹿だと嘆いて抱いてくれよ。
 畳の上はひんやりとやわらかい。木漏れ日と、草いきれ。涼風が運ぶ様々なもの。
 サンジは瞼の裏に熱い潤みを感じて、ああまた俺は、と思う。こんなに触れるたびに揺さぶられてどうするんだ。ゾロが気付いて気配が緩むのがわかった。
「お前は…」
 そう言って髪をくしゃりと撫でて笑った。ほらね。

 だから俺はお前が好きなんだよ。

 夕食まであともう少し。ふたりだけの夕方のすこし翳った緑。深く沈む、その中に。  
アパートシリーズ10。「漂う小船のような日常」発行時の書き下ろし文。
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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