Interlude 3

 しずくは階段を高速で上る。
 だけど、相変わらず下りられない。一度、一番上からダイブしてサンジにダイビングヘッドバットをかました事があったが、以来そういうこともせず、ただ上で、くうん、と鳴くのだ。
「下りられないくせに何で上るんだよ、お前」
 鳴き声を聞きつけたサンジは、とんとんと階段を上って救出に行く。そして、一段降りたところに腰掛けて、しずくの前に背中を向けるのだ。するとしずくは背中に両前足を預けてくる。この流れも最近お決まりだ。
「誰がつけたんだよ、このクセは。ゾロだよな。俺じゃねえ」
 いつの間にかこんなふうに、階段をおぶさって下りるようになってしまった。もう少し大きくなれば、ひとりで下りられるようになるんだろうか。
 ゾロが面倒がって、階段に扉をつけると言い出しているのだが、そう頻繁な事でもないし、上にもトイレを用意しておけば問題はないんじゃないだろうかとサンジは思っている。最近わかってきた事のだが、どうもゾロよりも自分の方がしずくには甘いようなのだ。
 とはいえ、これは真剣に考えなければならない。店のオープンが近いからだ。そうなれば今のようにしずくにかまってはやれなくなる。
 オープンからしばらくは午後のティータイムから夜間のみの営業にする予定だが、立地的に、ランチの客も見込めるはずだ。いずれにしろ、こんなふうにして家にいることはありえない。
「お前、ちゃんとひとりで留守番できんのか」
 ドアひとつ隔てたところにいるのだから大袈裟な話だが、サンジはやや本気でそんな事を思っている。
 ゾロがしずくを腹にのせてソファでうとうとしている姿というのは、最早この家では定番の光景だ。そして、サンジはそれをとても気に入っている。
 すとん、とサンジの背中を飛び降り、しずくは水の入ったボウルを目指してたたたと駆けていった。
 ゾロは朝からバイトだ。カラオケのバイトも今月いっぱいでやめる予定だった。
サンジはそれを待って店をオープンさせる事にした。他にアルバイトを雇う事も考えてはみたのだが、とりあえず二人で始めてみたいと言ったサンジに、ゾロは頷いた。
 うまくいっているんだと思う。
 ソファの背に腰を凭せ掛けて、水を飲み、エサを食べるしずくを見ながら煙草を一本吸った。
 歓声があがるのが聞こえた。門の外を数人の子供が走っていく。プールにでも行くのだろう。
 真夏の午後、太陽は強烈な光を地表に注ぐ。緑の庭は、風と光を受けて、微妙に色調を変化させながら影を揺らす。それから蝉の鳴き声。蝉時雨という言葉を、昨日、ゾロに教わった。本当に、あちこちから降るように響いている。
 最初にこの家に足を踏み入れた時にはあったいくつかのマイナスの感情が、いつのまにか消え去っている。今はただ、目に映るものすべてが明るく、鮮やかだった。
 サンジはゆっくりと目を閉じ、窓から入り込む風に身を委ねた。北西から南東へと抜けていく風。かすかに日にやけた緑の香りがする。
 しずくがリビングの方に歩いてくる。かしゃかしゃと爪の音が響いた。とても静かだ。ソファに上げてやり、蹲るのを見てから、サンジは階段を昇った。
 バスルームの窓を開け、風を入れる。そして、風を通すために自分の部屋のドアを開け放し、続いてゾロの部屋のドアも開けた。中に入り、窓も開ける。
 ゾロの部屋は相変わらずあまり物が増えない。ベッドはきちんとメイクされ、クローゼットの中も、意外にきれいに片付いている。
部屋の片隅に置かれたボストンバッグを見ると、サンジはいつも少しだけ悲しい気持ちにさせられた。開けてみたことはないけれど、いつも何かしら物が入っている形を保つ、そのバッグ。
 サンジは溜息をついてベッドに腰をおろし、そのまま仰向けに寝転がった。天井は青みがかっている。この部屋には、午後は直接日が差し込まない。
 ゾロの匂いがした。目を閉じて深く息を吸う。
 戸惑いは陽光のようにふりそそぎ、風のように掴みどころがない。
 ゾロ。
 サンジはぐるんと寝返ってうつ伏せになり、シーツに顔を擦りつけた。
 こんな自分を知ったら、あの厳めしい祖父は依存と嘲るだろうか。
ドアから涼しい風が吹き込んでくる。それに乗って、たたた、と乾いた足音が聞こえた。しずくがまた猛スピードで階段を上って来た音だ。
 ちょっともひとりじゃいられない。まるで同じじゃねえか。
 苦笑して起き上がろうと肘を立てると、ぎい、とベッドが軋んだ。
 サンジは、ぽすん、ともう一度頭を落とした。替えたばかりのシーツはサラサラと肌に心地よい。
あと少し、こうしていたい。風の入るこの部屋で涼んでいたい。
 ただ、それだけのこと。
 それだけの理由。
2003.8.15発行(文庫再録/2008.8.15)
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