Interlude 1

 梅雨の中休みというのだそうだ。サンジが毎日見ている朝のニュース番組では、甲高い声の女性アナウンサーがそう告げていた。
表に出れば、呑まれそうなほど青々と澄み渡った空から陽の光を受けて、雨露を纏ったままの雑草天国は、緑を一層輝かせていた。掃除はまだ途中だ。
 しずくは数日振りに庭を駆け回ることを許され、まろぶように飛び出して行った。ゾロはスニーカーの紐を結ぶのもそこそこに、慌てて飛び出す。後ろからサンジが言った。
「あんまり汚すなよ」
 昨夜はどしゃ降りだったので地面はひどいぬかるみだ。立ちのぼるあたたかな水蒸気に混ざった、濃密な緑の匂い。葉先にたまった水滴が揺れて弾かれ、肌を濡らす。
 小さなしずくの走る姿は生茂る藪の中にすっぽりと隠れてしまうのだが、走るスピードにあわせて右に左に揺れる草花がその位置を容易く知らせていた。最近は呼べば簡単に戻るようにもなった。
 キャン!キャン!
 はしゃいで吼えたてる声。何か見つけたのだろうか。ゾロがざわざわ揺れる青いおひしばに近づいて行くと、しずくはふがふがと匂いを嗅ぎながら小さな尾をぴくぴく動かし、何かを追っていた。
「何見つけたんだ?」
 草をかき分けてみると、雨蛙が勢い良く飛びあがった。ぴょこぴょこ跳ねて逃げるのを、しずくは目をまん丸に開いて見つめている。ゾロの口許に柔らかな笑みが浮かんだ。
「こら」
 そう言って手を伸ばすと、じたばたともがくしずくを抱え上げた。泥で汚れた足がゾロのTシャツに茶色の斜線を描く。
「あ、お前」
 きゃんきゃんと吠え続けているしずくは、そんな事は気にもとめず、地面に再び降りようとして前足を突っ張り頭をもたげる。ゾロはしずくの腹のあたりを少し強めに押さえ、玄関脇の水道に向かって歩き出した。
「そんなとこで洗ってもすぐ汚れるぜ?」
 頭の上から降りてくる声には答えず、ゾロは水道を捻ってしずくの足で汚れた腕を、その下に差し出した。
 水がぱしゃぱしゃとはねてジーンズの足下を濡らす。まだ朝の気配のたち込める空気は、じりじりと焦げるような太陽の熱を孕みながら膨らみはじめる。今日は本当に暑くなりそうだ。
「海に行きてえよなあ、夏になったら。車借りて、しずくつれてさあ」
「お前免許あんの?」
 ゾロが振りかえるとサンジはにんまりと笑って、煙草を咥えて黙る。そうして煙を吸い込む横顔から、ゾロは答えを想像するしかない。
 どうでもいいか。
 そう思って、いつもそこで会話は途切れた。
 頭上に覆い被さるヤマボウシの枝。葉脈を陽に透かせ、下草にはまだらに光を落とし込む。大気に充満する夏の兆し。ゾロは見上げて眩しげに目を眇めた。
「うわ!」
 サンジは足下にじゃれつくしずくを踏みそうになってよろけた。慌ててもタバコを離さないのはさすがだが、声に振り向いたときには、踏ん張ったほうの足をぬかるんだ土に取られて転びそうになっていた。それを見たゾロが咄嗟に伸ばした手を、サンジは反射的に掴んでぐいと引き寄せた。
「あ」
 引かれたゾロの足が後方に滑り、瞬間、体が宙に浮いた。スローモーションの光景。ガラス窓に反射するまばゆい光、そして緑。
「バカヤロウがあ!」
 びちゃりと土に倒れ込む寸前、ゾロはサンジに向かって叫んでいた。しずくは嬉しそうに犬的満面の笑みを浮かべ、泥のついた足でゾロの背中にぴょこんと飛び乗った。
 怒るな。怒るな。遊んでいるつもりなんだ、こいつは。

 朝っぱらから風呂に入る羽目になったしずくは、いやがって手前の洗面所の床に腹ばいになって貼りついている。サンジが面白がって足先でつついても、微動だにしない。すごい力だ。
「お前、風呂嫌いなくせに汚すんじゃないよ。ばっかだなあ」
 サンジが呆れ声で笑う。
「早くよこせ」
 ゾロは服を着たままぬるま湯をかぶって石鹸を泡立てている。服から、顔も髪も、泥だらけだ。シャワーでざっと流すとTシャツを脱いで絞り、サンジに投げ渡した。受け取ったサンジは、そのまま洗濯機に放り込む。
バスタブに湯は溜まりつつある。ゾロはジーンズに手をかけて後ろを振り返った。
「出てけよ」
「だってしずくが」
「いいから引き剥がせ」
「ほら、お前。ゾロが怒っちまったぞ」
 サンジは持っていた煙草を咥えると、上から小さな体を掴む。しずくの脚は簡単に宙に浮いた。もがいて抵抗のそぶりは見せたが、そのままバスルームで待つゾロに渡され、捕まえられてしまった。
「下行ってるぜ」
「おう」
 サンジが背中を向けた一瞬、ゾロの注意がそれたのとタイミングを合わせたかのように、しずくはもう一度だけ逃れようと暴れた。するり、と腕から抜け出る感触。
「あ!」
「うわ!」
 ばっしゃん!
 ゾロが慌ててバスタブに突っ伏して、ばしゃばしゃと溺れそうになりながら飛沫を上げているしずくを引き上げた。サンジも裸足でバスルームに走りこんできた。
 しずくは半ばパニック状態でゾロが抱えているのにまだ首をアップアップしている。必死の形相だ。毛が体に張り付いてひと回り小さくなっているので、目の大きさがひときわ目立つ。
「ぶ……っ」
 サンジがたまらず噴出したのを合図に、二人は白い光がさんさんと降り注ぐバスルームで弾けるように笑った。
「あー、なんだよお前、なんなんだよ。なにがしてえんだ!馬鹿!」
「こ、こいつ、こいつこれで風呂好きなんだ。風呂に浸かってるときのこいつの顔、お前あとで見に来い」
 笑えるから、と息も絶え絶えに笑うゾロの顔を、サンジは同じように笑いながら新鮮な気持ちで見つめた。
 こんな顔もするんじゃねえか。
「残念」
「あ?」
「お前が女なら今直ぐ脱がして俺も脱ぐのに」
「はあ?」
 そういう気分だった、今たしかに。ゾロと俺と、犬と夏の光。一緒に入るといったらこいつはなんと言うだろう。
 サンジは徐々に笑いをおさめて、それからにっこりと深く笑った。
「じゃああとで見に来る。今度俺にもしずく、風呂に入れさして?」
 夕方からバイトが入っているけれど、それまではしずくと遊ぶのだとゾロは言っていた。
 ならば、とサンジは思う。夏の午後にふさわしい冷たいパスタでも拵えて、ついでに冷たいデザートのひとつも作ろう。
 こつり、と、階段を下りきった足音がしんとしたリビングに響いた。がらんとした室内をぐるりと見渡す。

 上からゾロがしずくを叱る声が響いて聞こえた。サンジはその声にくすりと笑い、両掌をすりあわせながら軽い足取りでキッチンに立った。
2003.8.15発行(文庫再録/2008.8.15)
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