The second night piece

 寝に帰る部屋だと思っていたのに思いがけず近所づきあいが始まる予感に、自分がまいた種とはいえ正直ゾロはわずらわしさを感じていた。顔を合わせたら挨拶くらいはするが、言葉を交わすほどの関係はあまり近いと面倒なものだ。
 鍵を置き忘れて部屋に戻ってしまった先週の金曜日の夜、ゾロは同じアパートの住人である男の部屋に泊めてもらい、翌朝不動産屋で鍵を借りた。部屋にはスペアキーがあったから問題はなかった。
 その夜は特別なことを話したりしたわけではない。ごく日常の、言うなればお天気レベルの話だ。仕事はなにをしているのかとか、実家はどこだとか。だから、今、男が部屋にいないことをゾロは知っている。料理人だそうなその男は、年内いっぱいは遅番で帰宅は深夜になると言っていた。
 いつもどおりの時間にサンジはアパートに戻ってきた。1階の、例の男の部屋にはまだ灯りがともっているのを横目に見ながら階段を昇った。見上げれば空には満点の星。冬の冴えた空気に瞬きを速めるその小さな光が妙に寂しげに映った。夜空はいつもと変らず冷たい。
 部屋に入ってコートを脱いだところでチャイムが鳴った。ドアを開けると外には例の男がいた。サンジは胸を騒がせ、心臓の打つ痛みにほんの少し動揺をおぼえる。一体なんの用なのだろうか。
「よう、…何?」
 男…ロロノア・ゾロは遅くにすまん、とひとこと言って、右手に下げた袋を差し出した。
「こないだ世話になったし。つまらねえもんだけど」
 エヴァンウィリアムス。こいつ相当酒好きだ、とサンジは思った。銘柄にこだわるタイプには思えないからきっと店の人間が選んだんだろうとは思うが。
「俺、明日休みなんだけど」
 そんな気はまったく無かったのに、口をついて出た言葉にサンジは自分で驚いた。ゾロは視線で問い返すようにサンジを見つめている。
「軽くなんか作るから、飲んでかねえ?明日に響くか?」
 金曜日の、最初の夜。ゾロはサンジがただの気安い、いわゆる「イイ奴」なのかと思ったのだが、話してみるとそういう印象は薄かった。けれど、初めて言葉を交わしたような男を見捨てておけずに部屋に上げるような男だしまあ、いいヤツではあるのだろうと朧気に思っていた。だいたい部屋に他人を上げるのに慣れている感じだった。男でも女でも、ここを訪れる人間は少なくは無いのだろうと、なんとなく感じた。
「ひとりで飲んでもな」
 サンジがそう言って笑うので、ゾロは断る理由も見つけられず、部屋に上がることにした。
一晩を過ごした部屋だが、まるで知らない男の部屋であることに変りはない。ゾロはこの間泊まったときと同じように8畳間の隅に置かれたソファに座った。
「鍵、あったか?」
 サンジがキッチンの方からゾロに声をかけるのとほぼ同じタイミングでフライパンがジュッと音を立てる。
「ああ、会社に忘れてた」
「そっか」
 ゾロは部屋を見まわした。内装はゾロの部屋とほぼ同じだ。窓は玄関を入って正面と通りに面している左側の壁にひとつづつ、右側には作り付けの大きめのクローゼット。ゾロの部屋とは左右が逆だった。他人の部屋だ。ゾロは態度とは裏腹に落ち着かず、溜息をついては部屋を見まわす。
 サンジがつまみをふた皿と、グラスと氷を持って部屋に入ってきた。出てきた料理を見てゾロはぼそりと呟いた。
「本当にコックなんだな」
「ああ?…なんだ疑ってたのかよ」
 サンジは床に置いたクッションに腰を下ろしてテーブルにおいてあったタバコに手を伸ばす。
「そういうわけじゃねえけど」
 サンジはゾロの前に割り箸を置き、酒を注いだグラスを渡す。
「いいけどね、別に」
 そう言いながら、顔を横に向けて煙を吐き出す。ゾロは割り箸をぽんと割って、つまみに手を伸ばした。
「あんた自炊してんの?」
「いや、ほとんど外食。あとはコンビニ」
 サンジはあーあ、と言って口元だけでにやりと笑った。作ってくれる女がいないのか、と言外に言っていると思ったが、弁明するのも癪なのでゾロは聞き流した。
「まあ、男はしょうがねえよな」
「やる奴はやるだろうけどな。俺もメシくらいは炊くけど」
 話しながら、ゾロはもくもくと手を動かしつまみを口へ運ぶ。
「美味い?」
「ああ」
「へへ…」
 サンジは嬉しそうに笑って、体を揺すりながら座りなおし自分もひとつつまんだ。
「俺もあんまり作らないけどな、家では」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ。誰かに食わせるとかなら別だけど」
「へえ…」
 曖昧な、優しさとも苦しみともつかない空気が流れていた。ゾロは能弁な方ではないし、サンジとの共通の話題もあまり見つけられない。会話はふと途切れ、息苦しさをかんじる。
 ゾロは不用意だと気づきながら、時々サンジをじっと見つめた。良く見るととてもきれいな男なのだ、サンジは。そしてサンジはそのゾロの視線に気付いて見つめ返してくるので、ゾロは先に視線を外してしまう。
 しんと静まった真夜中の部屋で男二人が酒を飲んでいる。気安い間柄とはいえない。二人は友人ではなく、お互いのことは何も知らないに等しい。だからといって、詳しく知りたいと思うほどお互いに興味があるわけではなく、しかし無視できないような存在であるとはまた、お互いに感じていた。
 似ているのだと思った。もしくは、正反対なのだと思った。
 ボトルはいつしか空になっていた。時計を見るともう午前二時を回っている。これといった話をしたわけではないし、格別に気があうとも思わないのに、ゾロはサンジと、例えば近所づきあいをするということを別に嫌ではないなと思っていた。喜んで付き合いたいと思うわけではないのはゾロの性格がそうなだけで、距離感のはかり方がおそらく近いのだと思い、そのことに安堵した。
「そろそろ、戻って寝る。明日も仕事だし」
 サンジはそう言って立ちあがったゾロをぼんやりと見上げた。
「泊まってけば?」
 その言葉に驚いて、ゾロは言った。
「だって、すぐ下だぞ?」
 そうだけど、別にかまわねえよ、サンジはそう言った。ゾロがいなくなったら急にひとりになるではないかと思って引きとめたのだとは、サンジ本人でさえ口にしてから気付いた。衝動的に吐き出した感情に自分自身で驚きながら、たしかにまだここにいたっていいのに、と思っていることを確認し、胸の中心を疼かせ、唇をかむ。
 引きとめられると思っていなかったゾロは、サンジを瞠目して見つめながら、先ほど下した自らのサンジの人物像を少々修正する。
(こいつは関わろうとする奴かもしれない)
 面倒かもしれない。けれど、それが嫌ではないかもしれない。
 親友になるのかもしれない。または、顔も見たくないと思うほど嫌うかもしれない。
 淡々とした空気に何を感じたのだろうか。それが意外に心地よかったからか。
「お前、正月は?」
 そうゾロは返した。サンジはあからさまに驚いた顔をゾロに向けて、口元に笑みを浮かべた。
「二日から仕事だから。お前は?」
「四日から。でも、ずっとここにいる」
 サンジは心得たように笑ってゾロを見上げたまま言う。
「簡単なおせち、作ってやるよ。雑煮とか。作って、今度はそっちに持っていく」
 仕事納めまではあと数日という頃だった。どうやら年越しを一緒にする縁もあったらしい、と、ゾロは自分で言い出した事ながらおかしなものだと思う。
「その前に蕎麦だろう」
 そう言ったらサンジは目を丸くして、ゾロの思い込みでなければ本当に嬉しそうに艶やかな笑みを浮かべて、「OK」と言った。
 サンジの部屋を後にして階段を降りながら、ゾロはとても不思議な気持ちだった。自分で意図していることは何一つないのに、サンジと話しているとそれが自分の望んでいたことであるかのような錯覚を起こす。こんな感情は今までに覚えがない。
 ドアを開け、冷え切った自分の部屋の暗がりにゾロは溜息を吐いた。鼓膜に届く無音の空気がわずかにふるえて、それを孤独という言葉に置きかえるのは可能かもしれないと思ったがすぐさま打ち消した。
アパートシリーズ6(2001/7/9)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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