そして剥がれる熱のかけらが

 「つ…っ」
 小さな叫びを耳にしてサンジが振り向くと、ゾロが顔を顰めて立ち尽くしていた。その視線の先を見る。左足の親指の内側にじわじわと赤いものが滲み始めていた。爪の片側が浮いて、めくれかけている。
「何してんだよ!?」
「ひっかけた。いてて…」
 ゾロはティッシュボックスを引き寄せて2、3枚引きぬき、そこにあてがった。しばらくするとティッシュの内側に赤い点がぽつりと浮き上がってきた。
「あーあーあー…痛そー…」
 コーヒーを入れようとキッチンに立っていたサンジは、メーカーのセットを済ませると医薬品を置いている棚から薬やガーゼなどを取り出して、ゾロの元に歩み寄る。
「見してみな」
 ゾロがゆっくりとティッシュを足から外すと、剥がれかけた生爪と肉の赤が見えた。そこからじんわりと滲み出してくる血の赤さが生々しく、サンジはその赤さに胸を疼かせながらゾロの脇にかがみこんだ。舌の裏に唾がたまって、飲みこんでしまいたいが音が聞こえると嫌だと思う。
 サンジは煙草に火をつけて銜え、それをごまかした。脱脂綿に消毒液を染み込ませ、傷口を軽く叩くようにしてなぞるとゾロの体に少しだけ力が入ったのが解った。
「しみるか?」
「いや」
 脱脂綿が血を吸いこんで、淡い桃色に染まった。一瞬のうちに開ききる幻の花のようだ。
「ばっかだなあ、こんなにしやがって。これ、爪、危ない」
 少し浮きかけた爪は、きちんと処理しておかないと傷口を広げかねない。ゾロはそっと爪に指をかけてどんなふうに動くか試してみたりしている。
「足よこせ」
 サンジは爪切りを取りだし怪我をした左足を自分の膝の上に乗せ、右足を脇に抱える様にして引き寄せる。ゾロは慌てて両手を後ろについて体を支えた。
 サンジはゾロの足を握って俯いたまま、どんなふうにすればより痛まないかを考えているのだが、ともすればその意識は握っている足や、サンジの体を抱える様に背後に回っているもう一方の足のほうに向いてしまう。
「おい」
「じっとしてろ。これ、残すか?全部取っちまった方が良くねえ?」
「マジか?……う」
 サンジが切れ目の一番上の部分を少し切っただけで、ゾロはそんなふうにうめく。切り取るときの震動が直接肉に響くのだろう。サンジは胃の中に何か重いものが入っているかのように感じて、大きく息を吐き出してみたが、ゾロとの距離が近すぎてすべてを吐き出すのは無理なようだった。
 頼むから黙って。思わず懇願したくなる。
 でないとこの状態は永遠だなどと錯覚を起こして、ゾロの嫌がるようなことを、きっとサンジはしてしまう。
「もうちょっと我慢しろ」
 サンジは注意深くゾロの爪を弾いていく。おおよそのところで鑢を取り出して引っ掛かりを取り除く。普段は爪の下に隠れている肉の部分が空気にさらされて冷たく乾く感じが痛々しく、そんなゾロにいつにも増して愛しさを感じる自分はまったくどうかしているのだとサンジは思った。
「いてえよ馬鹿。もうちょっとやさしくしろ」
「このうえなくやさしいだろ、俺は。」
 舐めてやったってていい。こんなの。
 そんなふうにさえ思っているというのにまったく気付かないのだろうかこの間抜けな男はと、溢れ出す感情はサンジ自身にもどうしようもなく辛さだけが増していく。
 こんなに近くにいるというのに、これ以上近づけないなんてどうして思う?
「なあ」
 サンジは俯いたままガーゼを親指にあてて、包帯の端をつまんで引き出している。
「なあ、お前がさ、こんなふうに怪我なんかしたら」
 ゾロは答えないサンジにかまわず話しかける。目はやわらかく瞼を落とし、口元には薄く笑いさえ浮かべているが、そんな表情をサンジは見もしないのでできるだけ声の調子で伝えなければならない。
「俺は、こんなことできねえよ?お前みたいに丁寧に手当てなんて出来ねえ。自信ある」
「そんなことに自信を持つな。阿呆」
 だけどなんかするよ。なんとかする。多分。…どうすっかな?
 笑いながら目を伏せて言ったゾロのその胸のうちにはきっと答えが出ている。
「あてにしてねえよ。そういう意味では」
 サンジはあえて突き放すように言った。でないと何かを期待してしまいそうだった。
 包帯を巻き終えてしまうとゾロの足から手を離したが、ゾロは足をサンジの膝に置いたまま動かさずにいる。
 しんとした室内にベッド脇に置かれた時計の音がやたらと響く。キッチンからはコポコポとコーヒーの沸く音がしている。そして、親指からじんじんと生れてくる鈍い痛みだけがゾロにとって今、唯一の現実だ。目の前にサンジがいて、自分の足を膝に置いたまま、体重を後ろにかけてくつろいで煙草に火をつけていて、思いがけず近くにいることを突然意識した。足を下ろす気はない自分はおそらく夢の中にいるのと同じなのだ。このままでいたいと口に出してはどうしても言えないのだが。
「さ……」
 サンジが何か言いかけて、やめた。ゾロはその先を聞きたいととても思ったが、聞き返すことはできず、辛そうに細められたサンジの目をただ見つめつづけた。するとサンジは軽く目を見張って、ゾロの真意をはかるように首を傾げて目を伏せて、それから笑ってつぶやいた。
「勘違いしちまいそうだ」
 それでもいいから、とは言えなかった。ゾロは動くに動けず、サンジの手がもう一度ゾロの足を持ち上げても、されるままになっている。
「動けよばか」
 そう言いながらサンジが軽くゾロの足の甲に口付けたので、ゾロは驚いて思わず足を引っ込めてしまった。
「ば…てめえ、何すんだいきなり!」
 サンジは顔を真っ赤にして言い放つゾロを困ったように見て、額に手を置いてくっくっと笑った。そして、逆にゾロの膝にごろんと上半身を倒しこみ、げらげらと声をあげて笑った。まったくかわいい奴だと思う。そんな反応をするのなら最初から期待させないで欲しい。そしてゾロは上から自分の膝の上にあるサンジの頭を見下ろしながら思うのだ。これくらいで諦めるのならそんな目をするんじゃないと。
 
 ああ、コーヒーが煮詰まっちまう。
 二人とも同時にそんなことを考えたなどとはお互い知るよしもない。
アパートシリーズ4(2001/6/19)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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