Lady Lady

「同じ年に生れた女の子、まあ、全体の半分としておよそ五千頭だろー。まあ、もっと少ないけど」
 夏を思わせる午後の強い日差しがじりじりと肌を焼く。ゾロは目深にかぶったキャップを脱いでぱたぱたと仰いで熱をはらい、もう一度かぶりなおした。サンジはサングラスを上にずらして新聞に目を落とす。
「そん中でオークスのゲートに入ることが出来るのはたった18頭なわけ。それだけでもすげえコトだよ」
「……」
「勝った子が女王様だよ。まさに頂点に立つってカンジ?」
 パドックの柵にもたれて、周回する馬達に視線を送る。午後、準メインレースのパドックに二人はいた。メインに向けてパドックは黒山の人だかりで、馬を見るにも一苦労だ。オークスデーの今日はやはり人手が多く、パドックの最前列はカメラ撮影をするファンが陣取っている。目当ての馬なら、下級馬にもシャッター音を浴びせる熱心なファン達だ。オークスとあって女性の姿もいつもより多いような気がする。サンジは馬を見ているのかそんな女性たちを見ているのか、とにかく機嫌が良かった。
 ゾロもサンジも競馬に熱いわけではない。予定がなくて、でもあまりにも天気が良かったので、「広いところに行こう」とサンジが誘ったのだ。
「良い尻…」
「どこ見てんだてめえは」
「馬だよ馬。6番、ハッピーマキシマム。女の子のお尻はやっぱりまあるいね」
 サンジはゾロを見てせせら笑う。若干嬉しそうなのはゾロの表情を見たせいだ。
「節操ねえな」
「でも趣味はいいぜ?」
 止まれの合図がかかり、騎手達が馬に駆け寄る。騎手が跨ると馬たちも自然と気合がのって来る。時にはテンションがあがりすぎてレース前に終ってしまう馬もいるが、人気の実力馬はやはり落ち着いてなおかついい気合のりだ。
「11番かな」
 ゾロが新聞に赤ペンで印を打った。
「単勝5000円」
「突っ込むねえ。まあ、今日は馬場もいいし、来るだろ」
「あと、こいつとこいつに流す」
 そう言いながらゾロは印を赤く塗る。
「お、人気薄じゃん。来たらおごって」
「お前は?」
 ゾロはサンジが塗っていたマークシートの印を覗きこむ。
「6番、ハッピーマキシマム単複。あんまりつかねえな。あとはじゃあ、11番と馬連ワイド」
 言いながら、マークシートに付け加えた。
「固え」
「堅実と言えよ」
「ははっ。似合わねえ!」
 そんな会話を交わしながら二人は馬券を買うためにパドックを離れた。
「オークスのパドック、見るか?」
「んー、テイエムオーシャンのお尻が見たい」
 またそんなことを言うサンジに、ゾロは片眉を挙げて見下すような視線を送る。
「アホだな」
「ばーか、クソ大切だぜ」
 馬券を受け取り、レースは見ずにパドックに戻った。次はメインレース。優駿牝馬、オークスだ。なんとかスペースを見つけて、少しでも馬を近くで見ようと前に出る。新聞を広げてオークスの馬柱を見ながら、サンジとゾロはなんだかんだと意見を述べ合う。
「府中の2400Mはさ、3歳の牝馬には過酷な距離なんだよ。直線の斬れる脚と、それを支えるスタミナが不可欠だろ?」
「そうだな」
「テイエムオーシャンはその辺が疑問視されてるよな。距離適正が」
「桜花賞はダントツ強かったぜ?」
「だから意見の分かれるところなんだよ」
 昨年のオークス馬は休養が長引いている。その前の年のオークス馬は引退してしまった。
「オンナだからいいのさ。本当に人(馬)生の春って感じがするじゃん」
「馬にはわかんないぜ、そんなこと。走らされて嫌だと思ってるかも知れねえし」
「そういうのも含めてってことだよ。ああ、テイエムオーシャンもきっと引退したら真っ先にサンデーサイレンスがお相手すんだろなあ、ちくしょう」
「お前、さっきから発言が危ない」
「そお?」
 ひらりと笑うサンジを、そばにに立っていた女の二人連れが見て、くすくすと笑った。それに気付いたサンジは無言でその女達に秋波を送っている。ゾロは少し気に入らなかった。ただでさえ人目をひく雰囲気を持つこの男は、そういった視線を嬉しがる。ゾロはどちらかというと疎ましく感じるほうだが、それ以前に気付かないことも多い。
 だが、サンジに向けられる好意の感情には何故か敏感で、いつも落ち着かない気分にさせられた。なんだというのか、それはあまりに説明のつかない感情だ。木々の隙間から漏れる光がまぶしくて、ゾロはキャップを前に傾けた。女達がひそひそと交わす言葉が耳に触れて、嫌な気持ちだ。
「でてきたぜ」
 サンジの声にはっとしてパドックに視線を戻した。オークスに出走する牝馬たちがパドックの明るみに次々と姿をあらわす。この日のために鍛錬をし、磨かれたその馬体を惜しげもなく衆人の目に曝すのだ。パドックの人垣につかの間、静寂が訪れる。GTに出てくるような馬はどれも見事で溜息が漏れる。なのに、この牝馬たちは人間にたとえればまだ15、6歳くらいの、少女なのだ。瞳の表情があどけなく、本当に可憐だった。
 ゾロは無意識に目元に優しげな色を浮かべて牝馬たちの動きを追い、それを見たサンジはゾロに愛しさを感じて気付かれないように腕を触れ合わせたりする。人ごみの中で、偶然を装い体に触れるのが実際はやっとで、馬のオンナの方が全然気楽だぜ、と不毛な言葉が頭をよぎったりする。
「どうだよ?」
 サンジはゾロの新聞を覗きこむようにして、睫の一本一本まで見えるほどに顔を近づけた。ゾロはサンジが体から発する熱を感じて、それだけで鼓動が早まる。体を引きたい衝動をこらえ、滲む汗を暑さのせいだとごまかした。
「やっぱいいんじゃねえか?オーシャン」
 喉にはりつく声を引き剥がし、テイエムオーシャンの名前をペンで差しながら言った。本当はもう、気もそぞろだ。
「あと、ムーンライトタンゴ?」
「だな、オイワケヒカリにロ−ズバド」
 サンジはゾロの表情を盗み見て、自分の与えるプレッシャーにゾロが感じているのかどうか探ろうとしたが、あくまでも涼しげなゾロしか見つけられず歯痒く思う。
「人気どころだなあ」
 場内に10レースのアナウンスが響き渡る。パドックに視線を注ぎながらも、そのレースの馬券を買っている人間達は、さりげなく聞き耳を立てている。斜め前の男がラジオで実況を聞いていて、まわりも気にせず「よし」とか「11!11!」などと大きな声で叫んでいて煩い。場内アナウンスの声が一際高く叫び、ゴールを告げた。
「なんだって?」
「11、とは聞こえたけど」
 サンジとゾロが顔を見合わせていると、斜め前の男が「よーしきた!よーしきた!11‐13」と大きな声で叫んだ。馬券を取ったらしい男は興奮気味だ。なぜなら、オッズ掲示板には50倍以上の表示がされている高配当馬券だからだ。
「おい」
「ああ、取ったみてえだ。単勝と馬連」
 嬉しそうに笑うゾロの興奮が伝わり、サンジは思わず肩に腕を回して言った。
「おごれよ」
「3着なんだろうな?」
 ゾロは急に直に触れてきたサンジに内心で慌てながらも、そ知らぬふりだ。こんな動揺を気付かれたくはない。
 アナウンスに耳を済ますと、3着には6番が入っていた。
「複勝、ワイド。でも、あんまつかねえや」
 サンジが笑って言った。その顔が眩しくて、ゾロは目を細めて笑い返した。それはさらにサンジを煽るようなたまらない笑顔だった。
「行こ。煙草吸いたい」
 サンジが肩に回した腕に力をこめて、ゾロを促した。人差し指が肩を擦る。故意なのかどうなのかわからず、ゾロは気付かない振りをする。
 人ごみから抜けようと階段を上り始めたところで、ゾロはまだ周回を続ける馬達を振り返った。
 午後の光はいっそう強烈で、その下で輝く18の馬体はまるで宝石のようでどれもすばらしかった。命の煌きの美しさだ。5月の緑が彼女達に祝福を注ぎ、せめてこの先の彼女達に幸多からん事をと、ゾロは祈らずにいられなかった。そして、サンジの腕に、気付かれないように少しだけもたれて帽子を直すふりをした。サンジの指は肩からゆっくりと伝って首筋を掠めて離れた。ゾロはそれにすら、気づかないそぶりをするしかなかった。
アパートシリーズ1(2001/5/17)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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