丘陵の島にて

 島影が見えたのは二日前だった。あまりのタイミングのよさに、俺は天を仰いで、たまには神を信じて、祈りの文言のひとつも覚えてみようと心から思った。
 どうか、どうか、二人で過ごす時間を下さい。
 声に出した覚えはねえが、何度も頭の中で繰り返されていたフレーズ。いつも以上にことさら強く願うのは、その二日後が、まあまあ、特別な日だからにほかならない。
「ログがたまるまで四日だそうよ」
 その日暗くなるのを待って島に到着したゴーイングメリー号は、あたりを伺いながら目立たぬ入り江に船を停泊させていた。
 最初に降りたロビンちゃんが、付近の町でそれだけ確認してすぐに戻ってきた。俺は熱い紅茶を淹れて彼女の労をねぎらい、称え、それとなく町の様子を聞いた。
 四日といえば、補給を調えて簡単な修理を施しても、まだおつりが来る日数だ。いつもなら。
 実はゴーイングメリー号は今ちょっとくたびれている。この海域に入ってすぐに行きあった海賊船との戦闘のせいだ。
 それが五日前のこと。ウソップは相変わらず修理に奔走しているが、昨日になって資材が足りないと言い出した。だからこの島にたどり着けたのはそういった意味でも幸運だった。
 海風が肌に染みる。開いたままのドアから流れ込んでくる。俺は知らず胸の前をかきあわせていた。懐を探って煙草を取り出し、口にくわえる。唇が冷えている。指もだ。キッチンの中には女性達とチョッパーしかいない。俺はドアを閉じるために動いた。
「どんな島?印象でいいんだけど」
 背後にナミさんの声を聞く。ここで、ロビンちゃんとふたりで大体の情報を交換し、ルフィに伝えるわけだ。大体の場合、ルフィは降りるかどうかを決めるだけで、細かいことは何も言わない。こんなふうに、暗黙のうちにそういったことを二人で検討しあう場面は、多分俺が一番見ているはずだ。美しくて強い、頼もしき女性達。
「リゾート、とまではいかないかもしれないけど、建物は低くて景色の綺麗な街よ。温泉が出るみたいだし、いいんじゃないかしら」
「あら、おあつらえむきじゃない。四日といわずしばらく滞在するのもこのさい有りかもしれないわ」
 それを聞きつけて俺は嬉しくなって、ナミさんにいろいろと提案してみた。
 春島で、春だった。柔らかな青い野菜が出揃い始めているだろうし、この時期だけの山菜なんかもきっと手に入るだろう。海の上から遠いなだらかな丘を眺めれば、たとえ夜でも、そこが豊かな緑に覆われているのがわかる。そして、さらに強調したいのはこのたまらなく青く甘い匂いだ。木の花や、小さな草花が運ぶ、まだ早い春の匂い。そんな中でナミさんやロビンちゃんの姿を見られたら最高だ。これは本当にそう思う。
 ナミさんは小鳥みたいに首をかしげてじっと聞いていた。時々片眉をあげて胡散臭そうにしたり、にっこり微笑んだり、ちょっと意地悪く斜めに視線をくれたり。なんともスリリングだ。
 私達もたまには羽を伸ばしたらいいかもね、とナミさんが言ったのは、そんな俺の心情その他を慮ってのことではないだろうが、俺はいつもに増して感謝の言葉やその他の麗句を雨のように降らせ、煩がられて追い払われるまでやめなかった。だってこれは必要不可欠な日常の作法なんだよナミさん。俺は気にせず続けた。
 ナミさんはまさか本当に、俺の誕生日の事なんか、考えてくれたりするんだろうか。……まさかな。でもナミさんはやさしいからな。案外そうなのかもしれない。
 明日は三月二日で、その日はこの俺がおぎゃあと顔もほとんど覚えてねえ母親から生まれた日なわけだが、正直、俺にとっては大して重要なことじゃない。誕生日ってのは誰か特別な相手が覚えててくれてこそのもので、俺が覚えてたってどうにもならない。俺はかつて、つきあった彼女の誕生日を祝うのがとても好きだったし、彼女が俺の誕生日を覚えててくれたらそりゃあ感激したもんだった。
 そしてそういう意味で、実は今回はちょっと特別な気分だった。その理由についてはあえて言うまい。
 こぢんまりとした町だが、物資は過不足無く揃うはずだ。温泉地だから遊興施設は期待できるが物価が高いかもしれないと、ロビンちゃんは最後に付け加えた。
 でもまあ、ゾロには酒場のひとつもあれば十分だし、知らない町だってだけで勝手に興をそそられて、ルフィやチョッパーはあちこち顔を出したがるはずだし、ウソップは安い資材を集めながら変な道具の開発材料を探して回るだろう。どれも金のかからねえ遊びだ。うちで心配なのは食費だけだ。これが一番切実でもあるわけだが。
 ナミさんだけは、新しい服が欲しかったのに、とぼやいていたけど。


 入り江に停泊して一夜を明かし、翌朝、朝食を終えてから、俺達は全員で島に上陸した。
 空は良く晴れていた。空気の流れが少々肌に冷たいが、日差しはなかなか強い。樹木の枝は随分和らいで、黄緑の新芽が顔を覗かせ始めている。俺は嬉しくなって隣にいたゾロに声をかけた。
「なあ、良い気候じゃねえか」
「そうだな」
 心なしかゾロの表情も柔らかい。いつも眉間に皺を寄せて俺が近づくとあからさまに警戒してみせるクソ可愛いマリモが。
 俺は別に、俺が胸に秘めていることについて、皆に気にかけて欲しいなんて、本当に、まったく思ってはいなかったんだ。ただひとりを除いては。
「なあ」
「ああ?」
 ゾロは面倒くさそうに引き摺りあげるような声で返事を返してくる。俺は舌打ちして黙り、前方に視線を向けた。
 一番前にルフィとチョッパー、その斜め後ろにナミさん。ウソップはじっとしていなくて、森へ入ったり藪へ分け入ったりと忙しない。何を探しているんだろう。ロビンちゃんは相変わらず涼やかな様子で、ピンと背筋を伸ばしてすたすたとその少し後ろを歩いている。俺とゾロは一番後ろにいて、少し斜めになりながら肩を並べていた。
「宿が各自だとしたら、てめえ、俺と来んだろうな」
 ゾロは剣呑な視線でじろりと睨んできたが、なぜかすいと外し、足元に視線を戻して、ふう、と力の抜けた溜息をついた。
「なんでだよ」
「決まってんだろ。あと、買出しも手伝えよ」
 銜えた煙草のフィルタを噛みしめ、俺は苛つきながらその目を睨み返した。ゾロはてめえの指図はうけねえと唇を尖らせたが、俺の顔をじろりと横目で見て、それ以上何も言ってこなかった。
 森はどうやら別荘地だなと、おかしな所から飛び出してきたウソップがいつのまにか隣にやってきて言った。大小さまざまなコテージがいくつも並んでいるらしい。ナミさんがそういうところを一軒借りた方が安いかしら、とぽつりと言ったが、それじゃ船に泊まるのと変わらないわね、とロビンちゃんが言い、ナミさんはそっか、と少し惜しそうに頷いた。
 多分、ロビンちゃんの台詞は食事のことを気にしてのものだろう。俺ならかまわねえのにな。
 宿に泊まると俺の仕事はすこんとなくなる。食事の支度という事項が減るだけでやる事がほとんどなくなるんだ。三日もすると無為に飽きてむずむずしてくるが、最初の一日目なんかは、やっぱり開放感でいっぱいになる。
 とにかく、久々の陸は春の気配がこれでもかってくらい充満していて、まあ、関係ないと嘯いてはみるもののやっぱり誕生日ってこともあるんだろう、俺は相当気分が良かった。
 振り仰ぐと強い日差しが目の中に注がれた。ぎゅっと目を瞑ると、ぐらりと頭の中身が音を立てて回った感じがして、俺は情けないことに足元をふらつかせた。
「前見てろ、馬鹿」
 よろけて肩にぶつかった俺の腕をとって、ゾロが支えた。不意打ちだったので、胸がどくんと大きく、痛いほどに鳴った。ゾロが近くて、くらんだ視界がさらに大きく揺らいだ。
「ち…今のはたまたまだ」
「アホ。黙って歩け」
 森の切れ目の草むらに光が落ちて、やわらかな若葉がキラキラ揺れていた。本当にいい気候だ、この島は。
「まあでも、久々にのんびり出来そうだ」
 呟くように言うと、ゾロもかすかに笑う気配がした。
「そりゃ良かったな」


 やがて町に入った。町の大きさは中心地から半径二キロってとこだろうか。ナミさんはそこから少しはずれたところに宿を取った。
 背後にワイン用のブドウ畑が広がるのんびりとしたホテルだ。少し古いが、清潔でいい宿だった。大きさはそこそこあり、しかも、地下には温泉がわいていて、大きな浴場があるらしい。チョッパーが泉質を確かめて、これはいいぞ、と呟いていた。
 温泉と聞いて、俺はアラバスタで入った宮殿のクソでかい風呂を思い出した。ゾロとふたりでのんびり入れたら気持ちいいだろうなあとぼんやり考えていたら、ロビンちゃんと目が合ってにっこり微笑まれちまった。考えが透けてるわけじゃねえだろうな。女性は愛すべきかわいい存在だが、時々ちょっと怖えからな。まあ、そこがまた可愛いかったりするんだけど。
 鍵を手にしたナミさんが、スケジュールの確認を始めた。いつもながら段取りが良くて惚れ惚れしちまう。
 同時に、少し緊張する。男どもは大部屋に放り込まれてしまうこともたまにあるからだ。二人部屋でも、割り振りはランダムで、特になぜか、ゾロは人気で、いつも奪い合いだ(俺にはそう見える)。誕生日、誕生日、誕生日。俺はいつしか頭の中でその言葉を繰り返していた。
「じゃあ食糧の調達はあんたと、あとロビンと私で手分けしてやるから」
 ナミさんが鍵をウソップに手渡して、確認するように声をかけた。ウソップは、おうまかせとけ、と、当然といった顔で頷き返している。聞き捨てならない。俺は口をあけて「は?」と、間抜けな問いを洩らす。
「どうしてナミさん、俺が行くぜ?だいたい手持ちとの兼ね合いだってあるし、その辺は俺しか把握してないんだから。荷物運びはゾロにやらせるし。いつもの事だから大丈夫だよ」
「そんな青い顔して何言ってんの」
「へ?」
 ナミさんは深々と溜息をついて俺に向き直った。その声が合図みたいに、全員が一斉に俺の顔を見る。いったいなんだ。
 今日が俺の誕生日だからか?サプライズなのか?知らん振りして、その実祝ってくれようとしているんだろうか?なんだかドキドキしてきた。心なしか頬も熱い。顔が青いって、赤いの間違いじゃねえのか。ん?青い?どういうことだ。隣のゾロまでが怪訝そうな顔をしてやがる。なんだか居心地が悪くなってきた。胸がむかむかして、気分までおかしくなってきそうだ。
「いや、でも、買出しはさ…」
 言った途端、ルフィの腕が伸びて、俺の両肩をがっしりと掴んだ。思いっきり引っ張られて、俺はフロントから少し離れた広間にあるふかふかの椅子に放り投げられた。勢い余って背もたれに胸を打ち、ぶつかって床に転がり落ちると、そのまま大の字に寝転がった。まったく油断も隙も無え。
「ルフィ!てめえ人の体をなんだと思ってんだ!」
 衝撃が去るのを待ってゆっくりと首を起こした。頭を打ったかもしれない。視界がぐらぐらする。このクソゴムが。俺は胸を押さえてむせながら目をこじ開けた。ごつんごつんと、聞きなれた足音が鳴る。底の厚いブーツの足音だ。ぐるりと見渡し、宿の高い天井に描かれた花や果物の絵をぼんやり眺めていると、そこにゾロの丸い頭がぴょこんと現れた。
「いいからてめえは黙って寝てろ。アホ」
「んだと、てめ…」
 言って体を起こすと、一緒に近づいてきていたらしいルフィが後ろから羽交い絞めにしてきた。いったい何がしたいんだこのゴム野郎は。
「チョッパーの言うこと聞いてろよ?」
 反論しようと口を開けると、俺の胸元にロビンちゃんのしなやかな手がきれいに咲いて、そっと塞がれた。黙れっていうのかよ。だって、これじゃあまるで俺は。
「病人みたいじゃねえかよ…」
「事実だろう」
 ゾロの声が頭上から溜息交じりに降ってきた。
 ああ、そうだ、そういやこいつはあの時一番近くで見てたんだっけ。
 隠してるつもりはねえけど、たしかに、ちょっと我慢してたかも知れねえ。バレバレだったわけだ、こいつだけじゃなく、クルー全員にだ。俺は宙を仰ぎ、やや芝居がかった調子で大仰な溜息をついた。


 真昼間からベッドに押し込まれた俺は、どうにも情けない気持ちでいっぱいで、なま白い天井をぼんやりと力なく見あげていた。床に近い方からコトコトとチョッパーの足音が聞こえる。額には水で冷やしたタオルが重く貼り付いている。
 みんな行っちまった。俺一人こんなとこで、チョッパーに面倒かけながら寝てなきゃならないなんて、まったくとんでもねえ事態になっちまったもんだ。
「サンジ、これ飲め」
 チョッパーが俺の額に手を当てて、一瞬渋面を作る。俺はたしかに不機嫌で、だからそれが顔に出ていたかもしれない。
 チョッパーの丸い目の表面ががみるみるうちにゆらゆらと揺れはじめた。泣きたいのはこっちだ。が、チョッパーがそうなるのは俺のせいなので、俺はなんとか優しい声を作ってみた。
「ああ。悪いな、俺のせいでお前まで留守番になっちまって」
 そう言って薬を受け取ると、チョッパーは悲しそうに眉を下げた。
「いいんだこんなの。いちいち気にすんな」
 怒ったような口調で言って、俺の口をこじ開けて薬を放り込み、挟み込むみたいにして蓋をした。力任せだから俺の顎はがちがちといちいち音をたてた。そして呑み込んだのを確認すると水の入ったコップを差し出して、洗面所に消えた。
 よけいなことを言っちまった。チョッパーが俺を置いて暢気に出かけられるようなやつじゃないって事くらい、わかってる。俺がクルーの食事を人任せになんか決して出来ないのと同じだ。失敗だった。自分で思っている以上に、この状況は俺にとってダメージを与えてくれている。
 二人部屋は充分な広さがあった。ベッドも大きめでふかふか、極上の寝心地だ。ここのところ船のハンモックじゃ殆ど寝られなかったから、これは本気で有り難かった。俺は覚悟を決めて、枕にぐいと頭を押し付け、目を閉じた。
 飛び上がって相手の砲弾を蹴り返したまでは良かったんだ。その瞬間、死角になった背後から跳弾が俺の腹を掠めて、キッチンの屋根にめり込んだ。ゾロがものすごい顔で振り向いたのを見たような気はしたが、すぐに甲板に叩きつけられたのでその辺は曖昧だ。そのあと少ししてボロボロになった敵船は退いて行って、メシ、と叫びだした船長や他のクルーのために、俺は腹の傷を隠してキッチンで食事の準備をした。血はほとんど止まっているようだったし、あとで一度チョッパーに消毒してもらえれば問題ないだろうと思っていた。
 寝る前にチョッパーに一度傷口を見せると、俺はものすごい剣幕で怒鳴られた。薬でも塗っといてくれればいいという俺の言葉に、チョッパーは溜息をついて、お前といいゾロといい、なんでそうなんだよ、と悲しそうに呟いた。ゾロ?ゾロがどうかしたのか。あいつも怪我してんのか?俺が勢い込んで問うと、チョッパーの目は悲しみを深めて、しらねえよ馬鹿、と不貞腐れたようにまた怒鳴った。
 俺の傷は想像以上に深かったらしく、自分で勝手に巻きつけておいた血止めの布はぐっしょりと濡れて重くなっていた。中に弾の破片が残っているかもしれないと、チョッパーは傷口を見て言った。
 倉庫でやってくれと頼んだ。誰にも見られないようにしてくれと言って、俺は隅っこから引っ張りだした埃くさいマットに身を横たえた。だからドアが開いてチョッパーの小さい影の後ろにでかい影がついてきた時は本気で焦った。
「俺一人じゃ押さえられないかもしれないから」
 とチョッパーは言い、そういうことだ、と、ゾロがそれに続けて言った。ゾロは頭の方向から俺の肩を押さえつけ、俺は布をかみ締めて声を押さえた。麻酔になる薬草が切れていたんだ。チョッパーが傷口を開いて破片を取り出す間、俺は目を開けてずっと頭上のゾロの顔を見上げ続けた。あいつは逸らさなかった。俺の腹が真っ赤に染まっている間、ずっと顔色一つ変えず、俺の目の中を覗き込んでいた。
 それから今日までずっと、体のだるいのは続いていた。チョッパーが化膿止めをくれたが、材料の不足からそれは作り置きの三日分しか無かった。チョッパーはそのことでも自分を責めていたんだ。俺は本当に迂闊なことを言った。目が覚めたら謝らないといけない。


 室内は白く光って、置かれた家具の輪郭はなんだかぼやけて見えた。俺の目の調子が悪いのか、瞬きを繰り返しても、一向に視界は晴れない。
「起きたか」
 窓の方から声がかかった。ゾロだ。俺は寝返りを打ってそちらへ向き直る。額のタオルがずり落ちた。ゾロは窓辺のソファに長々と座って、俺の方を向いている。
「腹へってねえか」
「......お前からそんな台詞を聞く日が来るとは思わなかった」
「俺も言うとは思わなかったよ」
 ゾロは立ち上がるとゆっくりとした歩調でこちらへやってきた。後ろから光が迫って、まるでゾロ自身が光ってるみたいだ。俺は眩しさに目を眇めた。ゾロの表情は吃驚するほど穏やかだ。
「チョッパーは」
「出かけた。起きたら飯食わせて薬のませろって、預かったぜ」
「ひょっとして、お前が看病してくれんの?」
 ゾロはその言葉に目を平べったくして嫌そうに口を歪めた。
「不本意だ」
 俺は声をあげて笑った。腹が引き連れて少し痛んだ。隣ではゾロが剣しか握ったことの無い無骨な手でタオルを取って水につけている。それを俺の額に乗せる柔らかな仕草。俺は胸が熱くなった。
 ゾロが促すのでホテルに頼んで作ってもらったらしいスープで柔らかく煮た米を口に運んだ。味は悪くなかったが、本気で病人扱いされている事に俺は少々面食らった。ちょっと熱があるだけだっていうのに。
 ゾロが用意した薬を飲んで、もう一度体を横たえた。そうしないと出て行くとゾロが脅したからだ。俺としては起き上がってシャワーを浴びて、誰もいないこの二人きりの時間を満喫したかったんだが、どうもそういうわけにはいかないらしい。
 誕生日なんだ。お前はわかってんのか。ああ、だから、自分で気にするのなんか嫌なんだ、こんな日。まだ誰にもおめでとうを言ってもらっていないなんて、気付きたくも無い。結局そういう事なんだ。俺は再び込み上げた情けなさに身を捩った。今日いったい何度目だろう、この感覚。落ち込みそうだ。
「熱が下がったら温泉に入れってよ」
「チョッパーか?」
 ゾロは頷く。
「お湯に殺菌作用があるんだと。傷にいいから、俺も必ず入れって、あいつにしちゃ随分...」
「俺のせいだ、そりゃ」
 ゾロにさっきのチョッパーとのやり取りを聞かせると、阿呆、と頭を軽く小突かれた。
「お前と一緒に入りたいな」
 ゾロはじろりと俺を見下ろし、何か言いたそうに口許をもごつかせていたが、声にすることはなかった。
 俺も結局黙って、素直にベッドにもぐったままゾロを見上げた。ゾロは満足そうに頷き、日の当たる窓際に戻ってソファに腰をおろした。光合成だ。光を浴びてすくすく育つ緑。うつらうつらし始めているその顔を見ながら、俺はなんだか泣きたくなった。
「ゾロ」
 返事は無い。
「ゾロ、ゾロ。なあ」
「……なんだ」
 ようやく得た返事は仏頂面を絵に書いたような調子だったが、俺は怯まない。
「こっち来い」
 上掛けを被ったままでそう言うと、しばらくして足音が聞こえた。そして、マットの沈む音。ゾロが隣に腰をおろした音だ。俺はそっと目まで出して、ゾロの様子をうかがった。そして、声を失った。声の調子とは裏腹にゾロの目があんまり優しく俺を見ていたからだ。俺の涙腺は今限界を試されている。こんなとこで泣きたくねえ。俺は瞼に力をこめて精一杯見開いた。
「なんだ」
「隣入れよ」
「…お前…」
 ゾロの眉間が剣を含んだのを見て、俺は慌てて否定した。違う、やんねえよ、そうじゃねえ。太陽は差し込んでいるけれど室内は少し肌寒かった。まだ春先だし、日が落ちれば間違いなく暖炉に火を入れるはずだ。おまけに俺は熱なんか出しちまっていて、少し悪寒がする。体が震えるのは、だからだろう。
 俺は体を起こしてヘッドボードに寄りかかり、壁がわの方に移動して場所を空けた。ゾロが上掛けに手をかけてめくり、そこに乗り上げる。ぎし、と、二人分の重みを受けてベッドが軋んだ。
 ゾロの体からは陽だまりの匂いがしていた。猫みたいな男だ。俺は頬を肩に押し当てるみたいにして寄りかかった。ゾロの手が俺の額のタオルを押さえる。
「おとなしく寝てりゃいいのに」
「いいんだって、これが」
 あったけえ。胸の中がむずむずとこそばゆい。自然に頬が緩んで、笑みが漏れた。ゾロは後ろに寄りかかって座りのいい位置を探しながら体をゆすっている。
「動くなよ」
「うるせえ」
 左手が俺の背中にまわった。そっと引き寄せられて、体が密着する。驚いておもわず触れた部分を振り向いて見てしまった。
「ゾ…」
「これでいいだろ。寝ろよ。俺も寝る」
 ゾロは目を瞑った。口はきっぱりと閉じられている。俺の好きな横顔。しばらくうっとり眺めてから、俺は上半身を滑らせて、ゾロの足に頭を乗せた。体を伸ばし、腕を持ち上げてそこに添える。ゾロの手がもう一度俺の額にタオルを置き直した。見上げると目が合った。そのまま俺の髪に手を差し入れて柔らかく梳く。耳の上あたりをかきあげる角度で、ゾロの分厚い指先は何度もそこを辿った。なんて気持ちがいいんだろう。こんなふうに優しい春の午後を味わえるなんて、誕生日としては多分最高の部類に入るんじゃねえかな。俺は過去の日々を思い出しながらそんなことを思う。寝てしまうなんてもったいない。もう少し、この幸せを噛みしめなければ。でも心臓がドキドキしすぎて、貧血起こしそう。本末転倒って言うんじゃねえか、これって。
「とんだ誕生日だったな」
 静寂の中、突然そんな声が聞こえて、俺は息を飲んだ。気付かれないように呼吸を整えてから静かに口を開く。
「知ってたか?」
「皆知ってるぜ」
「皆はいいんだ。お前だけで」
 もうなんにもいらねえと思った。こうやって、あったかい掌に撫でてもらっているだけで胸がいっぱいだ。
「ふうん?」
 おめでとうって言ってもいいのか、お前、こんななっててよ。目を閉じた俺の頭の上で、戸惑ったように呟くゾロの声がした。ああ、いいぜ。俺は本当に幸せでどうしようもなかった。今まで一度も無かったけど、初めて産んでくれた親に感謝したいような気持ちになった。この幸せを味わえるのはこの日に生まれてきたからこそだ。顔もわからない俺の親達。あんた達の息子はかなりの幸せ者に育ったようだぜ。あんた達はどうだったのかな。もうどうでもいいことだけどな。
 俺はうつ伏せてゾロの足に頬を押し付ける。タオルは床におっこっちまったが、ゾロはもう拾わなかった。
 添えた手でゾロの足をゆるく撫でた。俺の心臓は鼓動のスピードをおさえ、だんだん落ち着いていく。俺の呼吸に合わせて、ゾロの手が背中をゆっくりと上下する。こいつも、誰かにこんな風にしてもらったんだろうか。たとえば小さい頃。熱を出して寝込んで、こんな風に背中を撫でてもらったことが、きっとあったんだろう。今まで想像したことも無かった。俺はゾロの両親にも感謝した。俺がこんなに優しく暖かな気持ちになれるのも、ゾロを産んでくれた親がいるからだ。
 俺の涙腺はとうとう破綻した。ゾロの足に零れたしずくが小さくしみを作る。ゾロはきっと気づいただろうが何も言わず、ゆったりとした一定のリズムを保ちながら、大きな手で俺の背中を撫で続けた。
 きっと、あいつも似たようなことを思っていたに違いない。
 
 
 夜になって町に出ていた連中が帰ってくると、ベッドの周りは喧騒に包まれた。
「わかったから、順番に喋れよてめえら」
 チョッパーが俺の腹の傷を見ている横で、ルフィとウソップがかわるがわる、それぞれ見てきたものを話して聞かせてくれた。面白い形の温泉に広場の馬車、教会の尖塔やら、古い城址やら、面白いのかどうなのか今ひとつわからかったが、多分船に戻るまでにそのうちの一つや二つは見にいけるだろう。
 窓際のソファにはナミさんとロビンちゃんがいて、買ってきたらしい品物をひろげている。陸ではよく見る光景だ。ああ、お供できなくてごめんナミさん。きっと、一度くらい行けると思うから、良かったらつき合わせてくれよね。
 夕食はそれぞれ食べてきたんだそうだ。ホテルのごはん高いんだものとナミさんは頬を膨らませた。それからすまなそうに俺に向かって、最後の日は豪華にいくから、早く治すのよ、と笑ってくれた。
 俺はそれを見て、たまには弱って見せるのもいいなあなんて怠けたことを思い、それを見抜いたように隣にいたゾロが、良かったじゃねえかアホ王子、とかなんとか言った。
 
 妬いてんじゃねえよ。クソまりもが。
2004年3月発行
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