キッチン

 キッチンという空間はどこか甘ったるいイメージがあって、それはたとえば日曜日の少し遅い朝の、テーブルに広がる白い光だったりする。目に見えるものだけが世界のすべてだと思っていたあの頃、その中心にはそんなキッチンがあった。
 随分昔になくしたと思っていたあのキッチンが、今どうしてここにあるのか、考えてみると不思議だ。
 
「おはようナミさん、ちょうどパンが焼きあがったとこだよ」
 そう言ってにっこり笑う彼の長い指がパンをバスケットに並べていく。
「あったかいの一個ちょうだい」
 差し出した手に、丸くて丁度良く焦げ目のついたきれいなパンをひとつ、とん、とのせてくれた。
「連中には内緒ね。うるさいから」
「言わないわ。早起きの特権よ」
 そう言いながら、ナミはそのパンにかじりついた。ほのかな甘味と、暖かさが手のひらからゆるゆると体の中まで広がる。
 料理をする男が身近にいたことは過去に何度もあったがプロであるという点ですでに、サンジはその男達のどれとも違っていた。
 まず、指先が圧倒的に違った。繊細でなめらかなその動きに知らず見惚れてしまう。現に今、ぼんやりとその動きを追っていたら、いつのまにかナミの目の前に入れたてのコーヒーが出てきた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 そう言ってにやりと笑う彼は、実際のところほのぼのとした感情とは無縁の人のようにも見える。
 サンジは朝食後のデザートの用意をしていた。毎日のことだが、彼は自分の美学に基づいて決して手は抜かない。その背中をじっと見つめる。ジャケットは脱いでもう片方のベンチに掛けていて、シャツに腕まくりで仕事をしている。首から肩、肩甲骨のラインがきれいだった。向かいの窓から入ってくる朝日がそのラインを下ってほんのりと覆い、彼の金髪と一緒になって輝いてまぶしく、ナミは目を細めて見つめた。 
「何?」
 サンジがナミの視線に気付いてふと手を止める。
「ううん、なんでもないわ。続けて。ちょっと見てるだけ」
「…ふーん」
 少し嬉しそうに、サンジは作業に集中する。



 たまに。
 朝、ナミが起きてキッチンに上ってくると、今のような光景を目にすることがあった。ただ、ここに座っているのが自分ではなくゾロで、二人の間には、乾いているような湿っているような、希薄なような濃密なような、そんななんともいえない空気があって、会話の声は聞こえないけれど見た感じではおそらく、ぼそぼそと二言三言のやりとりが続けられていて、その光景はナミが覚えている日曜日の朝の雰囲気と良く似ていた。
 
 
 どうしても入れなかった。

 自分がわずかながら年長者二人にゆだねている部分があることは自覚している。甘えているつもりはないけれど、いたわってもらうことを許している自分がいる。彼らのそれはとても自然で無理がなく、優しくされたいと思っているわけではないが、女として扱ってもらう場面でそうしてもらうことはやはり嬉しい。
 彼らがナミを拒むはずがない。わかっているにも関わらず立ち尽くした。昨日今日の話ではない。しかも、1度や2度でもない。

 二人の間にあるものに興味なんかないわ。
 そのひとことで事実を片付けてしまえる自分をいとおしく感じる。
 いいじゃない、と思う。
 この甘やかなキッチンがここにあるなら、それでいいと。
 この、胸がくすぐったくなるような朝が過ごせるなら、それでいいと。


 サンジがくれたパンとコーヒーをすっかり胃に収めてしまったところで、ドアがばたんと開いた。
「腹減った!サンジー、飯!」
「わあかってるよ!さっさと座れ!」
 ナミの好きなキッチンはとたんにまた別の、しかしいつもの喧騒に包まれる。これもナミにとっては愛すべきものだ。何もかもが懐かしく、遠い昔になくしたと思っていたものだ。


 今日はここで航海日誌の整理をしよう。きっとサンジがお菓子を焼いて、お茶を入れてくれる。
 ゾロは裏のみかんの木の下あたりでゆっくりと昼寝でもするのだろう。
 くん、と空気の匂いをかぐ。今日も良い天気になりそうだった。
(2001/3/9)
[TOP]