金と砂の境界

 黄色い空がやけに暗く感じられ、ナミは目を眇める。砂漠を歩き始めて5時間は経ったが、海の匂いはちらとも感じられない。
(今晩中にたどり着くのは無理かしら?)
 急がなくてはと思うのに、足は鉛のように重い。喉の乾きを感じ、傍らに下げた樽から水を一口含む。
「俺にもよこせ」
 ゾロが手を伸ばしてきた。ナミは水の入った小さな樽を軽く持ち上げて吸い口をゾロの口に近づける。ゾロが屈んでそれを口に含んだ。ゾロの背にはナミの収穫が大量にのせられていた。
「どこもかしこも砂ばっかりじゃねえか。本当にこっちであってるんだろうな」
「あんたに、それをあたしに聞く権利があると思うの?」
「こっちはお前について行くしかねえんだからな。確認したくもなるぜ」
「大丈夫よ。方角は間違っていないから」
 ナミは腕につけた磁石に目を落とす。この方向にいずれ海が見えるはずだ。そして海沿いに東へ進めば、きっとゴーイングメリー号がどこかの入り江に身を潜めているはず。そこ以外に船を停泊させられる場所が無いことを、ナミは盗み見た地図で確認していた。
 宝を取りに忍び入った海賊船で捕らえられ、この根城のある島まで連れてこられたのが6時間ほど前。自分だけが捕らえられたと思っていた船にいつのまにか乗り込んでいたゾロが、港に着いたと見ると即座に飛び出してきた。ナミを囲んでいた敵はあっという間に斬捨てられ、ナミは問い質す暇も無いままゾロに腕を引かれて、準備もそこそこに砂漠に入った。そして今、こうして二人で歩いている。
 もとはといえば自分が欲をかいたのがまずかったのだ。思い出して、忌々しさにナミは軽く爪を噛んだ。
 海上でしかけてきたのは相手の海賊の方だった。数で圧倒的に有利だった敵とゴーイングメリー号のクルー達が一戦交えている間に、ナミはこっそりと敵船に潜り込み宝の物色をしていたのだが。
(とんだドジだわ。昔はもっと緊張感があった。絶対)
 自分ひとりで戦っているという事実。自分の後ろには何もなく誰もいないという孤独は、今と全く違う意味での強さをナミに与えていたと、今は思う。
 弱くなったとは思わない。けれど、どこか油断があった、多分。
「よせ」
 ゾロの左手がナミの右手を掴んだ。左腕は握り締めすぎて赤く痣になり、爪を立てたあとに血が滲んでいた。
「……」
「これに懲りて少しは大人しくするんだな」
「なによ。ゾロのくせに」
「あ?」
「うるさいのよ。黙ってて」
 ゾロはイラつくナミを一瞥し「怖え、怖え」と口真似だけで言った。
 ナミが捕まったことに気付いたのは自分だけだったようだとわかったのは、敵船に乗り移ったあと、船が離れてしまってからだった。おそらくは根城にしている港まで戻るのだろうと思ったし、そこはそれほど遠くはないだろうとも思った。
 物陰からゴーイングメリー号を伺うと、ゆっくりと前を走る船を追っているのがわかった。ナミがいなくても、船を追って、目立たない場所に待機することくらいは連中に期待しても良いだろう。ルフィとエロコックはあてにならないがウソップとチョッパーがいるし。ゾロはそう思ってそのまま船が港に着くまで身を潜めつづけた。無論、船内に騒然とした様子を感知すれば即座に出て行くつもりでいたが、そうならずに良かったと思う。あまり見たい光景ではない。
 横にいるナミの変わらない様子を見るにつけ、その間自分の中にあった焦りのような感情が思い出されて、気づかれないように小さく息を吐いた。
 砂漠に夜がやってくる。砂は急激に熱を放出し、風はいっそう強まった。海はまだ見えない。適当な岩場を見つけて、二人は足を止めた。ナミは懐から時計を取り出しながら、
「1時間休むわ。7時になったら出発しましょう」
 そう言って少し平らになっている岩に体を横たえた。変わらず振舞っているが精神的消耗に相当参っているようだった。ゾロは枯れ木を集めて火を起こした。追っ手がいるかもしれないから煙はまずいとも思ったが、来たところでたかが知れている、という気持ちもあった。
 実際、まったくの歯ごたえのなさに拍子抜けしたほどだ。けれどまだ船には相当数乗員が残っており、ナミを守りながら戦って脱出するというのはゾロにしてもいささか骨が折れた。何度も「バカ女!」と悪態をついた。そのたびに「何よアホ剣士!」と律儀に返してきた。ゾロはナミのそういった気性が嫌いではないし、そうでなければ男所帯に女ひとりで入ったりは出来ないだろう。
 背後をうかがうと、小さな寝息が聞こえてきた。ゾロは、振り向かなかった。
 炎の暖かさに意識は急激に和らぎ引き戻された。炎の赤は気持ちを高ぶらせも和らげもするものなのだなとナミはぼんやりとした意識のまま考えた。寝入ってからまだ30分ほどしかたっていない。ナミはそれ以上眠ろうとはせず、火の側まで這って黒い影になっているゾロに近づいた。
「まだ寝てろ」
「いい。すぐ動かないと」
 膝を抱えた姿勢で炎を見つめながらナミは少し前、寝入りばなに見たゾロの黒い背中を思い出していた。
 本当は縋りたかった。怖いと泣けたらどんなに楽で幸せな気持ちになれるのだろうと夢想して涙が出そうだった。護られているのはなんて幸せで安心できることだろうと思った。
 ゾロはきっと少し困ったような顔をして、でもきっとあのごつごつした手で背中を擦ってくれるだろう。あやす様に大丈夫だと言ってくれるかもしれない。けれど次の瞬間にはそんなことを想像した自分自身に叫び出したいほど怖気だった。だから背を向けて無理やり眠った。
 弱くなるのはいや。嫌だ。膝に顔を埋めて、ぎゅっと抱く。
「寒いか?」
「ううん…ねえゾロ」
「あ?」
「助けてくれてありがと」
「……」
 無言でいるゾロに、ナミは目線を上げた。珍しいものでも見るような顔で自分を見下ろすゾロを見つけて、思わず噴出した。
「何よ。私がお礼を言っちゃおかしい?」
「いいや。だが礼を言われるようなことじゃねえ。てめえがいなきゃ船が進まねえんだし、たまたま俺だっただけだ」
 そう言って、ちらちらと燃えつづける小さな火に視線を落とす。
「敗走した船に敵船の女よ。あのタイミングじゃなきゃヤバかった。あんたが来てくれた時、私がどんなにほっとしたかわかる?」
 ゾロは思い出して、右眉をくいとあげてナミを見る。
「そんな怯えている様には見えなかったぜ?俺の姿を見た途端盗みに走ったくせによ」
 そう言って愉快でたまらないといった風に笑ったゾロに堰を切ったように感情は溢れた。なによ、と口をついて、それは表にまで流れ出す。
「うるさいわよ!何よ…」
 ゾロの肩を、腕を、背中を、ナミは力づくで叩いた。叩いて、それから、その膝に倒れこんだ。なぜだか、急に情けない気持ちが込み上げて、涙が出ていた。不覚にも、気付かないうちに。
 こんなにも依存しているなんて嫌だ。あの船が無ければ立てないほど脆い自分など嫌でたまらない。今、足元のなんと脆弱なことか。もう一人で立つ事など出来ないのじゃないかと思うと恐ろしさに体は震えた。
 ふわりと、髪に触れた、ゾロの掌。それはゆっくりと滑り、たどたどしくも優しい。しかし本当はどれほど血に塗れているのかわからないほどいろいろなものを経てきた、その手。そう思うと余計に涙は溢れた。
「めんどくせえのは苦手だ。湿っぽいのもな。コックに出来ることを俺はやる気はねえんだよ」
 ナミはおかしくて、泣きながら肩を震わせて笑う。本当に面倒くさそうに言っている。きっと今、自分の顔は砂と涙でとんでもないことになっているだろう。
「おかしいわ、あんた達。そんなことまで分担してるの?」
 ゾロの組んだ膝に顔を伏せたまま、笑って聞いた。涙声は隠し切れないけれど。
「知るか。泣きたいならあっちに行けと言ってるんだ」
「仲が良いのか悪いのかわかんないわね」
「悪いな。見りゃわかるだろう」
 それでも、とナミは思う。認め合っているのがわかる、そんな風に言えるのなら。
「朝、良く見かけたわ。キッチンに二人でいるの」
「…あ?」
「ずるいわあんた達。ずるいわよ。私も仲間に入れなさいよ」
「勝手に入ってくりゃ良いだろ。あのバカは大喜びだぜ」
「あ〜〜〜もう、ムカつく!」
 ナミは勢い良く顔をあげた。私だって、むやみに誰かに甘えたくなる時くらいあるのよ!そう叫んでしまおうかと思った。
 しかしそうは言えずに、ただ思いきり、伏せた先にあったゾロの腿の肉を掴んでぎゅっと力をこめた。
「痛え!何すんだバカ女!」
 顔を跳ね上げてゾロの纏ったカーフィーエで顔を拭き、ナミは思い切り笑った。
「好きよ」
 ゾロの見開いた目、そのあっけにとられた顔を見、ナミは勝ち誇った様に唇を引き上げる。
「あんたが好き。ルフィが好き。サンジも、ウソップも、チョッパーも、好きよ。あんた達みんな、私の男だもの」
 そう言って、反応できずに固まっているゾロの唇に奪うような口づけをした。
「だから、これはあんたへのキスでもあるけどみんなへのキスでもあるの」
 拭ったりしたら殴ってやる、と思っていたが、さすがにゾロもそんなことはしなかった。けれど、手に負えないといった顔で溜息をついて、うんざりした声で言った。
「みんなへの、ってえならルフィにしてやれ。コックとか」
「サンジくんにはあんたから伝わるでしょう?」
 もう一度固まったゾロには最早一瞥もくれずにナミは立ちあがった。砂を払い、体を覆う布をもう一度丁寧に巻きつける。時計を見て、磁石で方角を確認するとそちらに向かって歩き出した。ゾロは火の始末をして、のんびりとナミの後ろを歩き出してすぐに、ふと気づいて後ろから声をかけた。
「ナミ、前見てみろ」
「え?」
 白く細い月の光をたよりなく弾く砂の上に、小さな黒い影が浮かんだり消えたりしている。
「あれ…」
「お迎えらしいぜ?お前の男のどれかだろ」
 砂の上をすべる風が布を巻き上げ、揺らす。砂と共に。
「そうね」
 そう言って笑ったナミの顔は生気に輝いていて、ゾロは思わず目を細めた。抱きしめたいと思う気持ちを隠そうとは思わなかった。しかしそれを行動に移すことは永遠にないのだという確信は胸の中で小さいながら光に満ちて、とても大切なもののように思えてならなかった。
(2001/9/17)
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