夜は繰り返す。声も聞かず。(KEY 2)

 蛇口を捻って勢いよく水を出し、その下に頭をくぐらせる。水は頭を存分に湿らせ、頬を伝い目を洗い、首から胸元へ滴り背中までも濡らした。棚からタオルを勝手に取って顔を拭き、鏡の中を覗きこんだ。何かを確認するように。そして、そんな自分をくすりと自嘲気味に笑い、ゾロは洗面所を後にする。
 目が覚めるとサンジはいなかった。早番で出かけたのだろう。起こしてくれても良いのにと思ったが、起こさなかった気持ちもわかる。
 サンジを思うと胸が痛い。なんてこったと思いながら、やはりゾロは笑うしかない。
思っていたよりも何ということは無かった。
 思っていたよりも。
 そうだ。考えたことはあった。何度も。そんなことがあるだろうかと思いながら、考えたことが。現実になってみても、何ら変化を見出せないことに、ゾロは安堵し、しかし悄然とする。この胸の中の何か、呑みこみ切れない塊のようなものが不穏な感情を生み出しそうで恐ろしい気持ちがする。
 サンジの部屋にいるのが辛かった。サンジはいないのに無性にサンジを感じさせるこの部屋が。
 逃げ出したい。逃げ出したいけれど。
 あの男を泣かすことだけは適わない。
 俺は変わらない。変わらない。サンジを前にして、いつもの様に笑ってやる。言い聞かせてドアを開けた。
 朝から幾度もぼんやりとしては他のコック達にからかわれた。
 なんか思い出してんじゃねえぞ、阿呆が。
 そんなに良い女だったのかよ?あ?
 そしてサンジは笑って答える。
 お前らなんかには絶対お目に掛かれねえようなとびっきりのすこぶる付きだよ。俺のだ。俺の(俺のゾロだ)。
 そこまで言うと途端に不安が襲う。俺のものだなんて、なんて増長ぶりだろう。なんて滑稽な男だろう俺は。もしも。もしも家に帰ってゾロがどこにもいなくなっていたらどうしようと怖がっているのはどこのどいつだ。
 サンジは知っていた。ゾロが何を望んで何を望まないか、知っているつもりだった。そこにつけこんだという罪悪感がどうしたって少しはあった。
 いつもと同じ調理場のけたたましさも、その、少しだけ重苦しいような気持ちを払拭する助けにはならず、サンジは早く時間が過ぎて欲しいとそればかりを願っていた。
 早く帰って、そして確かめなくては。ゾロがそこにいることを。そこにいて、帰り際にふらりとゾロの部屋の鍵を開けるサンジを少しだけ迷惑そうに(本当はそんなこと思ってやしないのに)迎え入れて「おつかれ」と言ってくれる、その顔を見るまではサンジは安心など出来やしないのだ。
 昼の忙しい時間帯が過ぎて、束の間の休息時間。サンジは裏口の人の来ない路地に回り、携帯の液晶画面をじっと見つめている。ゾロの家のナンバーと、携帯のナンバー、どちらを選ぼうか考えて、家のほうにかけてみた。
 留守だった。
 きっと、外に食事にでも出たのだ。そうに違いない、そう思って、携帯のナンバーを押す。
呼び出し音が鳴った。1回、2回、3回…掌に汗が浮いて心臓は耳のそばでがなりたてた。
電話は留守録に切り替わった。血の気が引いた。音が出たんじゃないかと思うくらいの勢いでだ。
 まさか考えていたようなことが実際に起こるなんて、本気で思っていたわけではない。今すぐ飛び出して、家に帰って確かめたい気持ちがどうしようもなく沸いて、けれど、そうは出来ない自分の立場にサンジは歯噛みした。
 その後は仕事をしていても気もそぞろで、電話に出ない理由についてを思うだけで呼吸は乱れた。外に出て事故にでも遭ったのだろうか、それとも…。何度も何度も、隙を見てはボタンをプッシュしたが、どうやってもゾロのいるところまで届かないのだ。もう永遠に捕まらないのじゃないかと思うほどの距離を感じてサンジは気ばかり焦り、普段はしないような平凡なミスを犯してまわりからは不思議がられる始末だ。
 なんとか仕事を終え、7時きっかりに店を飛び出した。電車に乗って、降りて、家までの道を待ちきれない思いで走った。
「ゾロ!ゾロ!開けろゾロ!くそ…!」
 チャイムを鳴らしながらポケットを探る手ももどかしく、サンジはゾロの部屋の鍵を取り出して部屋に入った。カーテンも開いたままの部屋には人の気配が無い。サンジは目の前が真っ暗になった。
「ほ、ほんとに…、一体どこに…」
 家具も、洋服も、何もかもそのままの様に見える。完全にどこかに行ってしまったわけではない。深呼吸をして、そんな確証にもならないことに縋ってみたりする。
「嘘だろう…」
 膝から力が抜けて足元が覚束無い。その場にへたり込み、不規則に繰り返す心臓の音を聞いていた。
 まさか、本当に最後にするつもりで、そういう気持ちでゾロは。そんなゾロの思いになど気付かずうかうかと踏み込んだのだとサンジは考えてしまって、後悔とも悲しみともつかない思いで胸は張り裂けそうだ。
「何してんだよ?」
 背後からかけられた声にサンジは緩慢に振り向き、その顔を認めて素早く立ちあがる。裸足で駆け寄って、黒い影になっているドアの外のその姿を全身の力をこめて抱きしめた。
 ああ、ゾロだ。
 そして、慌しく背中や腰をまさぐる。
「どっかに行っちまったかと思って…お前…ほんとにお前…」
 サンジは普段の余裕など見る影もなく焦ってうろたえて、声は感極まって大量に吐き出す息と混ざって掠れる。
「どこにも行きようが無くて困ってたんだよ」
「なんだよ困るって。ああ、ゾロ良かった、ゾロ。俺死ぬかと」
 サンジは腕の中に抱き込んだゾロの、頬や耳の下などに唇を押し付け後頭部を掴んで引き寄せる。
「離せ!話を聞け、馬鹿野郎」
「ああ、いいよ、もういい。いてくれたら、それで」
「何いってんだ…よ!」
 声がすると同時に、衝撃で目の前に火花が散った。耳の内側で音が鳴って共鳴し、視界がぐるりと回る。
「い…な、何…」
 ふらつきながらサンジはゾロに持たれかかった。このクソ石頭…!
「馬鹿が。落ち着け」
 ゾロは自分の部屋のドアを閉め、鍵をかけるとサンジを引き摺る様にかかえて2階に上った。
「鍵?」
 サンジは額のコブをさすりながら惚けた声で聞き返す。ゾロはまったく気付いていないサンジに呆れかえって酷く疲れたように溜息をついた。
「部屋の鍵。置いてってないから、どこにも出かけられなかったじゃねえか。しょうがねえから財布だけ持ってきて昼飯は店屋物だ」
 ゾロは言いながら玄関を指差す。そういえば空の丼がドアの脇に置いてあった。
 目覚めて、自室に戻ろうとサンジの部屋を出たゾロははたと気付いた。
 鍵、は?
 もう一度部屋に入って見まわしたが目に付くところには置いてある様子はない。サンジ自身は出かけるときに鍵をかけているから持っている。スペアキーのある場所は……知らなかった。
 サンジは呆然とゾロの顔を見つめている。
「そっか、ずっとここに…そうか。なんで気付かなかったんだ俺は?」
「知るかよ。てめえが馬鹿だからだ」
「うるせえ。ああ、でもそうだな。俺は馬鹿だ。お前が電話に出ないからもう絶対どっか行っちまったもんだと思って」
 サンジはそっと正面に座るゾロの胸元に片手を伸ばす。
「もうだめだ、俺。お前、いなくなったら生きていけない」
 そのままゾロの胸をまさぐりながら、唇をゾロのそれに寄せる。軽く触れて、次第に深くなり、そのままサンジはゆっくりとゾロの体を斜めにしていく。ゾロはそれに応えるようなそぶりを見せながら胸元のサンジの手をぱしりと叩いて顔を離すと、「メシ」とひとこと呟いた。サンジはするりと消えたぬくもりを名残惜しそうに見つめて盛大な溜息をつき、ゆらりと立ちあがった。
「俺はこんなにお前を愛してるってのに」
「うるせえな。知ってるよ」
「……やなやつ」
 サンジはしおしおとキッチンに立った。その背を見ながらゾロは苦笑し、ふいにその空気の甘さに気恥ずかしさを覚え、耳のあたりが熱くなった。きっと真っ赤だ。カーテンの隙間からのぞく空を見て脳裏によみがえった空気の匂いはゾロを落ち着かない気分にさせた。
これ以上耐えられそうに、ない。
「サンジ、下にいるから出来たら持って来い」
「あ?なんでだよ」
 そう言って振りかえるサンジの背後をゾロは急ぎ足で通りすぎ、部屋を飛び出した。
「ゾロ!?」
 サンジは勢い良く音を立てて閉じたドアをあっけに取られた思いで見つめながら、次第に込み上げてくるその感情を押さえることができず、最初はくすくすと、それからたまらず声をあげて笑った。
 なんてかわいい俺の恋人。
 いつだっていつだって。ねえ。
 あんたがそばにいてくれれば幸せみたいなんだよ、俺は。もうしょうがねえ。
 サンジはぽつりとひとりごちる。とたんに胸の中に暖かいものが満ちて、泣きたくなるほど感情が波立った。
 夕暮れの風が夜風と混ざって、ぬるんだ空気を冷ましてゆく。熱を、奪うのではなく地面深く押しこんで、閉じ込める。いらない感情などないのだと思える。まろやかに、すべてを内包した熱に生まれ変わらせてゆく。
 夕食と一緒にスペアキーを持っていこう。いらないと言っても押しつけてやろう。
 トレイを片手に鍵をかけて見上げた空は藍色を深め、星が空の火となって瞬いていた。その静かな火は、まるで…。  
アパートシリーズ9(2001/7/24)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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