KEY

 鍵を手に入れた。
 今までも別に遠慮なんかしていたわけじゃないが、際限なく入りこむことに躊躇があって、歯止めが利かなくなりそうな気がして、自然に一線を引いていた。
同じ建物の1階と2階なのだ。だからこそ、ゾロの部屋に泊まったことはない。どちらかの部屋でどんなに遅くまで飲んでいたとしても、眠るときは必ずお互いの部屋に戻るのが決まりみたいになっていた。
 でも、ゾロは、ある。一回だけ。あの、最初の日の、一回だけだ。
 引越し代が安いからだと言っていた。
 ゾロは年の瀬も押し迫った12月の半ば過ぎに、サンジが住んでいたこのアパートに越してきた。単身者サイズの小さな引越し荷物で、サンジは「ああ、なんだ野郎か」とちょっとだけ残念に思ったりしたのでよく覚えている。
 初めて顔を見たのも言葉を交わしたのも、それから1週間後のことだった。ゾロはたった1週間で部屋の鍵をなくしたのだ。
 金曜の夜、残業して仕事を片付けてから夜中に部屋に戻ってきて、部屋の前で必死でポケットをまさぐっていた、その姿を見た。サンジは仕事を終えて、いつも通りの時間に帰宅したところだった。2階の自分の部屋に上がる途中で、階段の昇り口に足をかけたまま3つ数える間くらいは躊躇しただろうか。声をかけるのに。
「鍵、ないのかよ?」
 ゾロは弾かれたみたいに勢いよく振りかえって、そして目があった。困ってはいるが、焦ってはいない。そんな表情だった。
「ああ、どこかに置いてきちまったみたいだ」
「で?宛てはあんの?終電も終ってるだろ」
「しょうがねえ。駅まで戻って安ホテルでも探すさ」
 そう言ってやっと諦めたみたいに笑ったその顔があまりにも期待の無い表情だったので、サンジは癇に障ったのだ。だが、今思えばそれはおかしい。むしろ期待に満ちた表情をしていたならサンジは幻滅してそのままその男を放置して、それで終っただろう。
「家、来るか?」
 自然とそんな言葉が口をついて出た。ゾロの顔が本当に驚いた表情に変って、サンジは高揚した。
 そういう人間は、いる。強要するわけではなく、相手の行動を一定方向に決定付ける人間。関わりたいと思わせる人間。関わって、その人間のために何かをすることが喜びだと思わせるような、そんな人間はいるのだ。好き嫌い以前に。
「…そりゃ…ありがてえけど、迷惑じゃないのか?」
「だったらこんなこと言い出したりしねえよ。どうぞ」
 サンジが階段を昇り始めると、最初は少し迷っていたらしいゾロの足音が、少し間を開けてついてきた。ふとした瞬間に笑い出してしまいそうなあのときの不思議な楽しさの感情を、サンジは今でも忘れられないでいる。
 そのときは、ゾロの部屋の鍵がこんなスゴイ宝物になるなんて思ってもみなかった。酔いつぶれて差し出した鍵を、ゾロが忘れているのを良いことに返さなかったのはサンジの方だ。どうでも良いことのようなふりをして、その実強請ったようなものだ。けれどあの男はそんなことを特別に考えたりはしないのだろうと、サンジはひとり勝手に悲しんだりしている。
 あんたの部屋に入る許可を。
 俺だけに許可をくれ。
 そうして、俺は閉じ込めよう。そんな危うさにあんたは気付いてもいない。
 ゾロの前ではいつだって物分りの良い友人のふりをして、内側は膨れ上がった独占欲が破裂寸前だ。
 俺のゾロ。俺の、俺だけのゾロ。誰にも見せたくない。
やさしく触れるだけの、居心地の良い友人関係にいつまで耐えられるのか。こんな宝を手に入れてしまって、自信などとっくに失ってしまっている。
 サンジはベッドに寝転んで、蛍光灯の光をゆるく反射する鍵をじっくりと眺めた。それからそれをそっと口元に寄せて軽く口付けた。鍵からは安い金属の匂いがした。サンジの心の片隅にある希望を軽く打ち消すような、それは現実の匂いだった。
アパートシリーズ3(2001/6/14)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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