空(から)の花

 真夏のオレンジが海の青に勢い良く弾かれて、そこかしこに太陽のかけらが散らばる。
夏島近くの海は透明度が高く澄み渡り、深度をしめすそのブルーはどこまでも濃さを増していく。遥か先に点々と見える島影が鮮やかにグラデーションを作り出す。
 のんびりと航海を続けるゴーイングメリー号の見張り台の上でサンジは双眼鏡を構えている。スーツはさすがに脱いだ。シャツは中空の風をはらんで気持ち良いほど膨らむ。船の走る速度に合わせて、風はかたちを変化させていく。
 下方に目を転じると寝ているゾロの姿があった。さすがに日陰を選んでいるのを見て、サンジの頬がわずかに緩む。しかし服は相変わらずのスタイルで、下半身黒尽くめのうえハラマキまで着けたままで、今度は溜息がもれる。
 脱げというわけじゃない。ゾロの裸自体は珍しくもない。けれど、ほんの少しでいいからこの青とオレンジに似合う格好をして欲しいなどと思うのは、おかしなことではないはずだ。後部甲板では上半身ビキニのナミとビビがサンジ手製のドリンクを片手にくつろぎ、ルフィもウソップも日差しの強さと熱風に辟易してほとんど裸みたいな格好だ。チョッパーはダウンして倉庫の暗がりで氷を抱えている。なのに、ゾロだけがいつもと変らず平然としていた。サンジはしばし逡巡したのち、ウソップを呼びつけると見張り台から降りて、男部屋に向かった。




 のどが乾いてきたので、ゾロは起き出してキッチンに向かった。歩きながらサンジの姿を探すが見当らない。空を仰いだら強烈な日差しに目が眩んだ。一瞬に確認した見張り台にも姿は無い。顔をしかめながらキッチンのドアノブをまわす。中は適度に光が遮られていて、眩んだ目にはいっそう薄暗い。ゾロは瞬きを繰り返しながら壁に寄りかかる。
「……いねえな」
 人気のないキッチンに入るのは、たいてい夜中、酒を取りにくるときだった。普段、昼間は誰かしらここにいることが多い。一番いるのはもちろんサンジだ。いると思っていたサンジがいなかったので、ゾロはひとつ溜息をついてそのまま壁伝いに座りこむ。水が飲みたいと思った。



「?どこ行ったんだあの野郎」
 在るはずの場所に求める姿が見つからず、サンジはぐるりと船を見渡す。見張り台の上にはウソップ。舳先の指定席にルフィ。後部甲板のパラソルの下にナミとビビ。チョッパーの姿はないから、多分まだ倉庫にいるはずだ。ゾロの姿だけが見当らない。 トイレかと思い様子を伺ってみたが人の気配はなかった。あとはせいぜいキッチンなのだが、そこでサンジは少し考え込む。ゾロが昼間キッチンに入ってくることは用がない限りほとんどないからだ。キッチンはサンジの領域で、ただ寝に入るようなことはしないのだ。本当に獣のような男だと思う。
 ……別にかまわねえのに、と思うが、口に出したりはしない。それこそ、意識しているのが見え見えだ。サンジはそんな胸の曇りを自覚して、それを飛散させようと頭を振り、とにかくあとはキッチンしか思い当たる場所がなかったので思い切りよくドアを開いた。
 薄暗がりの室内は、外の日差しを充分に遮っているが、こもった空気は外気とそれほど差があるわけではない。サンジは、はだけたシャツの前をぱたぱたと仰がせながら右側の壁に背をつけてうずくまるゾロに近づいた。
「何してんだ?」
 ゾロがぴくりと動く。
「……悪い、寝てた」
「風が通らねえし、ここじゃ暑いんじゃねえ?」
「ああ、出るよ」
「待てよ」
 立ちあがって、顔も見ずに脇を通り抜けようとしたゾロの腕を、グイと引いた。ゾロは引かれた腕の力を抜いてサンジの顔を見ると何か言いたげに口を開いたが、そのまま何もいわずに閉じた。すこし汗ばんだゾロの肌に吸いつくような掌の感触に、サンジはわずかに震えた。
「あ…な…んか、用があったんじゃないのかよ?」
 声が喉に絡んで張り付くのを悟られたかと思い、サンジはすぐに声をかけたことを悔いた。ゾロは腕を振り解くこともせず、ただサンジの顔を見つめている。なんて居心地が悪いんだろう。
 それからゾロは、
「水、飲みに」
 とだけ言って黙り込んだ。サンジはさすがに拍子抜けして、チッと舌打ちした。そんなことでいちいち上下する自分の気持ちが厄介でたまらない。
「で?飲んだのか?」
「いや、……っ…たし」
「あ?」
 声のトーンが落ちて聞き取れなかった。ゾロに問い返して答えが返ってくることは少なく、そのたびサンジは、ああこいつにはワンチャンスしか与えてもらえないのだと気付かされる。まったく獣の気持ちをはかるのは難しい。だが、このときは違った。
「お前が居なかったし、…」
 ゾロはそこまで言って口を閉じて、ふいとサンジから顔をそむけた。サンジは沸き立つような自分の気持ちにむせ返りながら、さらに聞き返したいのを堪えて、グラスに氷を落として砂糖水を注いだ。半分に切ったレモンを絞る。
「これ?」
 出来あがったレモン水を差し出すと、ゾロは黙って受け取って一気に飲み干した。
「まだいるか?」
 ゾロはこくりと頷いてグラスを差し出した。そうとう乾いていたらしい。今度は自分の分も作ってテーブルに置いた。サンジが座ると、ゾロは溜息をひとつついて向かい側の椅子に腰を下ろした。
 二人でいても取り立てて話すことなど無いのだが、外があまりに明るいせいで逆にいつもよりも暗い感じのするこのキッチンの様子が奇妙に落ち着きを誘った。ゾロはグラスに唇を寄せて喉をこくりと鳴らした。サンジはといえば少し汗で湿った髪を指ですきながらもう片方の手でグラスをゆるゆると摩っているだけで、やはり何を話すでもない。
 タイミングが問題なのだ。




「昨日さ」
 ゾロが二杯目をすっかり飲み干してしまったあたりで、サンジがようやく口を開いた。
「昨日あんた、俺に暑くないかって聞いたろ?」
「…?ああ」
「で、俺は確かに暑いなと思ってジャケット脱いで、それなりに夏気分なんだけどな?」
 ゾロは眉根を寄せてサンジの言葉を反芻しているようだった。何が言いたいのかと思っているのだろうが、ここでまったくわかっていないあたりがこの男の救いがたいところだとサンジは思う。
「そっちこそ、暑くないのかよ?なわけねえだろ?なのにいつもと変らずハラマキなんかしてるからそんなに乾いちまうんだろうが」
「……で、脱げっていうのか?」
「そんなことは言わねえけどよ、見てるこっちも暑ィんだよ、それ」
「じゃあ見なきゃいいだろうが。見てくれなんて頼んでねえよ」
「目に入っちまうんだよ。俺だって見たくて見てるわけじゃねえよ」
 自分の胸の中を覗きこむようにしてみると、色のない何かが広がって満ちている。それから、その中にちらちらと赤いものが見え隠れしていて、でも、それを大きな火に起こすのには少し、風が足りない。いつもいつも、足りないのだ。ゾロが吹かせてくれないせいだ。お前のせいだと詰りたい気持ちでいっぱいだ、いつも。どうしてそんな風に自分から遮るような真似をするのかとサンジは当て所無いその思いを幾度も幾度も胸のなかに渦巻かせる。言いたいことはこんなことではないのだ、いつも、いつも、いつもだ。
 ゾロは押し黙ったままサンジの様子をうかがっていたが、やがてゆっくり立ちあがった。ああ、今日もやっちまった。空振りだ、と、サンジは俯けた顔で自嘲気味に笑った。しかし、ゾロの気配がいつまでも正面にあるので、ついと目線を上に向けた。
 ゾロはサンジをじっと見すえながら右腰の刀を一本づつ抜いている。後ろの腰板に立てかけてから、ハラマキに手をかけた。片手で勢いよくまくり、器用に肩を抜く。
「確かにあちいな。すっきりした」
 何事も無かったかのように本当にすっきりした顔でそんなセリフをゾロが吐くので、サンジは自分の空回っていた気持ちがあまりにも滑稽に思えて少し惨めな気持ちになった。鼻の奥がつんと痛んだ。
「なんだよ?別に我慢してたわけじゃねえぞ?」
「…アンタね……まあ、いいや。別にハラマキを外せって言った訳じゃねえんだよ」
 サンジは震える息を細く細く、ゾロに気付かれないように吐き出してから、おもむろに隣に置いていたそれをゾロの前にさらして見せた。
「これ着ろ」
 ゾロは目を見張った。それに見覚えがあったからだ。
 白地に、赤の濃淡で描いた花がプリントされているシャツで、少し前に立ち寄った港町でサンジがゾロに似合いそうだと言って見ていたものだった。
「なんでだ?」
「聞くなよ。いいから。金取ったりもしねえよ」
 サンジは煙草をくわえるためのようにして俯いて、いいから着ろよともう一度言った。ゾロはいったいこんなサンジにどういう顔をしたらいのかわからず、ただ無表情になるしかない。
「どういうつもりかしらねえけど」
「つもりもなんもねえって!一回ぐらい俺の言うこと聞いてくれたっていいじゃねえかよ!」
 ゾロに悪気がないのは解っている。だが、何も気付いていない振りをされるのは辛い。どうしても俺にそれを言わせるつもりなのかと、サンジは叫び出しそうになる。心ではいつも叫んでいるからだ。




 しばらくシャツをつかんだまま立ち尽くしていたゾロが、ゆるゆるとした動作で自分のシャツを脱いだのが気配でわかったが、サンジは顔を上げることが出来なかった。そして今、甲板に出ていったゾロはあのシャツを着ているのに、やっぱり俺はそれを見ることが出来なくてここで釘付けになるしかないのかと緩慢に思った。
 あの、赤い花。血みたいにきれいな。
 頭の中に咲いたそれに目眩を起こしそうで、両手のひらで強く目を抑えて息を吐き出したとき、閉められたはずのドアが再び開いて、白い光がひとすじサンジの足元に差し込んで来た。


「いつまでこんな蒸したとこにいるつもりだ?」


 逆光で表情は見えなかったが、声で感じた。柄じゃないという自覚はあるらしい。サンジはうつむいたまま薄く微笑む。
 外に出ると、膨張した光が一気に押し寄せてあたりが真っ白に輝いた。その中に一瞬見えたゾロは確かに微笑んでいて、サンジはまた、厄介だ、とつぶやいた。空っぽの花が咲き乱れている、その胸の中で。
(2001/4/5)
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