空振りのスマイル

 いつからこんなふうになったのかなんて、わかるはずがない。
 いつから、同じ空気を吸うだけで不自然に胸は騒いで、その軽い興奮に身を委ねるのが辛くて幸せだと思うようになったのか、なんていうことは。
11時からのニュース番組が終って、日付もそろそろかわる深夜。ゾロはビール片手にほとんど眠りながら、ああ布団に入らねえと、などと思っていたのだが、チャイムの音を聞いて、 無理やりに覚醒した。
「ゾロー、開けてよゾロ、開けろ」
 ドンドンとドアを叩く酔っ払いは確認するまでもなくサンジだ。近所迷惑も甚だしい。ゾロは重い体を引き摺りあげてドアを開けた。途端に抱きついてきたサンジは相当飲んでい
るらしく、吐く息の酒臭さにゾロは閉口する。
「おい」
 サンジは倒れこまんばかりにゾロに体重を預けてきた。ゾロは舌打ちしながら下からサンジを抱え直して肩にもたせかける。
「あー…楽だ、ゾロ、ちょっと休ませて。階段上がれねえ」
「そんなになるまで飲むんじゃねえよ、アホ。今日は出かけてたのか?」
「……ああ」
 話しかけながら、ゾロはサンジを部屋の中に引きずっていき、ベッドの上に放った。
「ふーーー」
 サンジはゾロのベッドに顔をうずめて満足そうに息を吐いた。相当に酔っているらしいサンジを横目に、ゾロは冷蔵庫からペットボトルを取り出してサンジに差し出す。
「ほら、水」
 サンジは黙ってそれを受け取ると、気だるそうに体を起こしてキャップを外した。
「階段上がれねえほどじゃないだろ。なんだよ」
 ゾロが問うと、サンジは目を据わらせて口をへの字に曲げ、言った。
「フラれた」
「……ああ、そりゃ…」
 ひとことめは曖昧に笑って同情を買おうとしているサンジに合わせ、それからゾロはにんまりと笑う。
「ご愁傷様」
「てめ、傷心の俺になんて言いぐさだよ」
「てめえ、その女ほんとに好きだったかよ?」
「……好きな女じゃなくても…いや言っとくけど俺は女の子はみんな好きだからな。とにかく俺のことを好きな女が減るのは嫌なもんなんだよ!」
 サンジは少し口篭もりながらそう言って、ぷいとゾロから視線を外した。ゾロは溜息をつき、眠りそこねたな、と頭の片隅で思った。
 サンジと話すようになって判った事のひとつに、女癖の悪さというのがあった。約束もなく女を縛るのがうまくて、(勝手に縛られる女に同情する気は無いが)寂しいときに呼べば来てくれるような女が何人もいるようだとゾロが知ったのは、お互い部屋を行き来するようになって間もなくのことだった。ようだ、というのはゾロがそう感じているだけで、サンジに実際に問いただしたわけではないことだからだ。
「そんで酔ってんのか?」
「ばーか、そんくらいのことで俺が酔っ払うかよ」
 一体どっちだ、とまた溜息をついて、ゾロはサンジに背を向けてつけっぱなしだったテレビに視線を移した。季節に合わないほど肌を露出させた女が何人も出ているのをぼんやりと眺める。
「お前もこういうの、やっぱ好きなんだな」
 問いかけるサンジを無視して、ゾロはテレビを見ているふりをした。本当はどうだっていい。見ているわけではない。
「なあ、女紹介してやろうか?」
「……別に…いらねえ」
「なんで?」
 無神経にも程があると、ゾロはサンジに対して唐突に怒りを覚え、腹のあたりに熱がたまる。テーブルの上のリモコンを無造作に掴み、不必要に力をこめてテレビのスイッチを切って、サンジに向き直る。
「その女ってのはみんなお前のことが好きなんだろう?」
 つとめて押さえた声が震えてみっともないと思ったが、言ってしまったあとだ。サンジは酒に潤んだ目を丸くしてゾロを見つめ返す。
「な…んだよ。ムキになるなよ。ちょっと言ってみただけだろ」
 サンジはベッドの上からゾロの方に身を乗り出して、顔を近づけてくる。ゾロはそのサンジの顔を片手で押し返した。「酒臭いから寄んなよ」
 ムキになるなと自分から言っておきながら、サンジは一瞬頭に血が上って、冷静になるのは無理だと感じた。酒のせいで衝動に対する箍が緩んでいる。
「あ、あんたの…」
 あんたのせいだ、と。
 勢いに任せて発してしまいそうになったその言葉をすんでのところで飲みこみ、サンジは口を開けたまま動けない。目の前が真っ暗になりそうだ。ゾロはどうしてこんなにあけすけに無防備な顔をサンジに向けるのだろうか。勢いを止められなくても仕方がない。その気持ちの方向を知ることをサンジは恐れるつもりはないが、ゾロもそうだとは限らないからギリギリのところで躊躇するのだ。
「俺の…何?」
「………」
 サンジは唇をかみ締め誤魔化すことを試みる。次に続ける言葉を探したが、どれもうまく繋げそうにない。震える息を吐き出し、ペットボトルの水を口に含んだ。
「なんでもねえ」
 何とか言えた。だが、ゾロは怪訝な顔でサンジを見ていて、サンジはつい本音を言ってしまいたくなる。本音を言って、わかって、慰めてもらいたいと思ってしまう。
 女が他の男の元に行ってしまったのに惜しむ気持ちが全く無かった。問題だ。
 フラれたことよりそのことが少なからずショックだった。
 独占欲なら水準以上だと自負している。それなのに、だ。
 サンジはベッドから這い降り、ゾロの隣におさまると右手でゾロの肩を抱いて引き寄せた。
「おい?」
 不思議そうに見つめてくるゾロの顔を眺めて、その薄くて形のいい唇に視線は吸い寄せられる。
「慰めろ」
「はあ?」
 ゾロが嫌がって首に力を入れて離れようとしたので、サンジは反射的に引き寄せ、顔を唇が触れるほどぎりぎりまで近づけて瞳を覗き込んだ。全身で驚いてみせるゾロがサンジの肩を掴んで身を捩る。
「離…っ」
 ゾロの左の目玉いっぱいに自分の右目が映っていて、それだけでサンジはどうしようもなく高揚した。ゾロはサンジの肩を押しながら顔をくぐらせる様に首を折り、サンジにそのかわいらしい旋毛を見せて抵抗した。何を想像しているのかたやすく見て取れる。
「顔上げろ」
「なんなんだよお前」
「顔上げて、こっち見ろよ」
 サンジは言いながらゾロの頬に手をかけて無理やりに上を向かせ、目が合うとにやりと笑った。ゾロはサンジを見上げて睨んでいるが、その目の中にある戸惑いを隠し切れていない。このまま首筋に顔をうずめて、背中を床に押し付けたならゾロはどんな風に表情を変えるだろう。そして、ゾロを組み敷く自分の姿を思うと息があがるのを止められない。指が震える。
 密着に耐えかねたゾロがサンジの意図をよくわからないまま力ずくでサンジを引き剥がすと、サンジは意外にあっさり離れた。どこか陶然としている。
「ホモじゃねえぞ」
 息を弾ませながらそう言ったゾロにサンジは「気が合うな。俺もだ」と呟いて顔をあげ、にやりと笑った。そして顔を見合わせて二人でしのび笑う。
「くっくっく…」
「でもキスくらいしちまいたいよ。ダメ?」
「なんでだよ」
「さあ?酔ってるせいかな」
 全く罪の無い顔で笑って言うサンジにゾロは溜息をつく。サンジを前にするとやたらと溜息が増えることに、ゾロは随分前から気づいている。
「誰がするかよ、馬鹿」
「……チェ」
 そう言って苦く笑ったサンジをゾロは追いかけて抱きしめてやってもいいような気分になり、どうかしている、と思い力が抜けた。サンジは男で、ゾロも男だ。いくらお互い居心地がよくても、慰め合いは不毛なだけだ。
 戯れと決着をつけてしまうのが手っ取り早い。そう考えてしかしサンジはそれが悲しく、あまりに自分の感情を哀れんだせいでゾロの胸のうちにもあるそれには気付くことが出来なかった。ただゾロの眉を落とした笑い顔が寂しくて、きっとそんなふうに自分も笑っているのだろうと思い、自嘲気味にまたしのび笑いを繰り返すことしか出来なかった。
 いつからこんなふうになったのかなんて、なにもかももう自然すぎてわからないよ。
 泣きたいくらいにそんなふうに思った。
 そして、もう当分特定の女は作らないだろうな、と何も見ていない目を宙に浮かべた。
 視界の端の緑色があまりに愛しく胸が痛んで、サンジは涙を流さずに泣いた。
アパートシリーズ5(2001/7/5)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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