ひとつには旅の終り、もうひとつには

 窓のふちに手をかけ、眼下に広がる海に向かって身を乗り出すと、弧を描いて湾を旋回する風の姿がうっすらと浮かび上がって見えた。
 黄色い砂地が都市部を囲む様に広がる、乾いた島だ。海からやってくる風は強く、砂を巻き上げて内側へと向かっていく。風の通る道は黄色い靄がかかったような有様だ。
 都市部の周囲には防風林が植えられ、その内側を高い石壁でぐるりと囲んでいるので、街の中にいるかぎりそれらは生活を妨げるほどのものではなかった。そう思って宿の主人に告げると、何百年もの長い間、砂や風と戦ってきた歴史のある町なのだと、誇らしげに頷いた。住人が持つ土地への愛着というのは、なにも住みやすさだけに限ったことではない。
 ゾロとサンジは、この地で半年ぶりに再会した。お互い海に暮らしているので、連絡をとるのも容易ではない。サンジはほぼ一ケ所に定着しているけれど、ゾロは相変わらず浮き雲の様にのらくらと生きている。
「てめえときたら、その場にいるつもりで、自分が動いちまってることに気付かねえような阿呆だからな」
 そうして、久々に会うとまた賞金額がはね上がっているのだ。サンジはうんざりと溜息をつく。
「うるせえよ」
 白いシーツの上に伸びやかな体を長々と横たえ、窓際に立つサンジを眩しそうに見ながら、ゾロは苦々しく顔をしかめた。
 久しぶりに見たゾロは少しだけ精悍さを増していたが、驚くほど変わった様子も無かった。
 命のやりとりを繰り返す日々はゾロにとっては単なる糧でしかない。屠ったものたちがその血肉となっているのかと想像することは、サンジにとってはあまり気持ちのよいことではなかった。離れている間は何が起きたって、何もしてやれないのだ。
 血を流させる仕業を、否定したりはしない。そういう時代だ。サンジ自身、掛かる火の粉を振り払うために、誰かを傷つけることを躊躇ったことはない。
 世界に向かってのしてゆくためにはたったひとつの命さえ晒して生きていくほかはなく、争いは、人々の悲鳴や怒号を飲み込んで絶え間なく続く。砂が混じった風は唸って、それはなんだか人の叫び声みたいに聞こえた。サンジは静かな目で海を見下ろしながら、煙草に火をつける。吐き出した煙が風に吸い込まれていった。
 帰ってきたつもりでいるのだろうか、ゾロは。いつも、そうなのだろうか。昨日この地で会ってから、いつになくそのことが気にかかっている。
 サンジがゾロを探し、連絡をつけてそこへ向かう、ということを続けて二年になる。自分のレストランを持ってから過ごした時間と同じ長さだ。その間、顔を合わせて一緒に過ごした期間は半年もない。
 離れるたび、もう、二度と会えないのではないかと思った。
「お前、探して。俺、何度店移動してると思ってんだよ」
 声が震える。ゾロが目の前にいる幸福がじわりと胸を満たしていく。
 初めて会った時も、ゾロは迷っていた。海上レストランで働いていたサンジは、舵を失って漂流しているゾロを拾ったのだ。十五歳の頃のことだ。ゾロはまだ海に出たばかりだった。
 それから四年、ゾロは今や立派な海賊で、サンジは、独立して、小さいながらも、レストランのオーナーという肩書きを手に入れていた。小さな中古の客船を改造して作ったその海上レストランは、こうしてゾロを捕まえるための、サンジの船であり、職場であり、そして、ふたりの家なのだ。
「このあとどうすんだ?」
 ゾロが起き上がって服に手を伸ばしながら言った。
「どのあとだ?」
「あー……」
 ゾロにはいつも宛てがない。ゾロに答える事が出来ないのをわかっていて、サンジはそんなふうに問い返す。この島に来たのだって、ゾロ自身は偶然なのだ。来てみたらサンジの船があって、驚いた。
「俺は、別にない。ここにきたのも偶然だし」
「あんときのお前の顔ときたら…」
 港で会った時のゾロの顔を思い出して、サンジはくすくすと笑った。会うはずのない顔を見つけて、心底驚いていた。サンジはしてやったりと満足を覚えたが、その反面、ひょっとして自分のことをすっかり頭から消してしまっていたのかと不安になったほどだ。
「うるせえよ。連絡もなくいきなりつかまるのは初めてだったから、ちょっと驚いただけだ」
「だけどお前、すぐまた逃げちまうのかなあ」
 疲れた、とは言いたくない。ゾロが大剣豪を目指して旅を続ける限り、何も変わらなければこんな暮らしが続くのだ。
 たったひとことでいいのに。そう思っても、喉のあたりで固形化した言葉はつっかえたまま、その場で解けて無くなってしまう。
「とりあえずメシ。腹減った」
「ルームサービス、とる?」
「お前のメシがいい」
 天然め、と思ったが、それともまさか愛想だろうか?サンジは意識してしかめっ面を作りながらも、緩む頬を抑えられない。こんな顔をするから、ゾロがつけあがってしまうのだ。
「わかった。出るぞ」
 一晩のつもりだったから、島で一番いい宿を取った。今晩からは船に戻る。それからあとのことは、まだ、考えていない。
 支払いを済ませてしばらくロビーでゾロを待った。宿の主人がサービスにコーヒーを出してくれたので、ありがたく頂戴して、サンジは煙草に火をつける。
 初めて会ったときからだ。サンジはゾロから目が離せなかった。ゾロが船を出て行ったときには泣き明かした。以来、何度も繰り返していることなので、慣れたといいながら、今回もゾロが行ってしまったらやはりサンジは泣くのだろう。
 まだ、問いただした事はない。それをしていいものかどうか悩みながら。夢について。自分の存在について。ゾロの胸の内について。……これからについて。


 パンは町で買って帰った。温めてバスケットに並べてテーブルにおいた。レストラン内の厨房に一番近い席に、サンジはゾロを座らせた。続いてオムレツ、スープにサラダと、次々にゾロの目の前に並べていく。朝食だからこの程度だが、ゾロは喜んで食べた。
「やっぱ美味いな、お前のメシ」
 そう言って笑った。サンジはその顔に笑いかけながら、胸の中に、水を吸った綿のような重苦しさを感じていた。
 なるべくさりげなく。
胸の中で一度そう呟いてから、サンジは口を開いた。
「お前、これからどうしたい?」
「あ?」
 ゾロはスープを運ぶスプーンを口の手前で止め、上目遣いでサンジを見る。
「また、俺を置いてふらっと出て行くんなら、俺はもう、お前を追わない」
 言ってるそばから泣きそうだ。サンジは震えそうになる唇を噛み締めて、必死で言葉を紡ぐ。夕べのゾロを思い出した。腰を掴んで抉るとイイ声で鳴いた。お前が好きだと、きれぎれにその声で言った。会わなかった間に増えた傷の数を数えて、その一つ一つに唇を落とした。ゾロは声を詰めて震えていた。そういった全てを手放す覚悟で、サンジはゾロに言ったのだ。
「……追わねえの」
「俺がいなくなったら、お前、どうすんの?」
 カシン、とレストランの丸窓が音を鳴らした。大きめの砂粒が風に流されて当たったようだった。風は相変わらず強く、船は幾度もぎしぎしと揺れた。
「…どうもしねえ。今までとおんなじだ」
 予想した答えだったが、予想以上のダメージだった。今まで生きてきた全てが覆ってしまいそうなほどの。だが、どうにか耐えた。自分で出した答えを頭の中で一度反芻して、思い切り息を吸い込む。
「それはもうお終えなんだよ。おんなじじゃねえよ。もう、一人で行かすのをやめるんだ」
 ゾロは大きく目を開く。口に含んだスープを、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「お前がなんて言ったって。俺なんかいらねえって言ったって、俺はついていく。もう決めた」
「サンジ」
「海賊にはならねえって、十五のときに言ったの、お前、まだ覚えてたろ」
 そう言って、サンジはにやりと笑った。ゾロは溜息をつき、掌で目許を抑え、額をすり上げた。
「俺は、お前を」
「ああ」
「ついてこいなんて…」
「ついて来んな、なら、何度も聞いた」
 ゾロは俯いたまま、細く息を吐き出す。それを見ながら、サンジは続ける。
「ずっと、お前が言ってくるの、待ってた」
 ゾロは静かに顔を上げた。目が赤い。サンジは視線を緩めた。途端に堰を切ったように涙が溢れた。
「うわ…みっともね…」
 袖を上げて、慌てて拭う。ゾロがその手を掴んだ。その目を見た。サンジは必死に訴えた。視線で、声で、何をどうすればゾロは自分を必要と思ってくれる?声は切迫してひきつって、うまく出てこない。
「行っていいか?良いって言えよ。一緒に行こうって」
「一緒に行こう」
 サンジはテーブルに突っ伏した。心臓が早鐘を打つ。壊れてしまいそうだ。ずっと待っていた言葉だ。十五のときに答えそびれて以来、聞きたくて聞きたくてたまらなかった言葉だった。
「うん」
 ぱしぱしと窓を叩きながら、風に乗って黄砂が流れていく。
 この砂みたいに、どこへだって行ける。風に乗って、気ままに、お前となら。
 四年もかかった旅は、ようやく終わりをつげた。
(03年サン誕企画参加文/テーマ:「恋の試練」)
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