暁暗の月

 秋の空は透きとおって手をかざしたくなるほど暖かい。けれど、風は何故か寂しく冷たいものだ。
 ベン・ベックマン副船長は補給関係の指示を出しながら、船べりに座り込んで空を眺める赤髪の船長を見た。
「会ったか」
「ああ」
「そのわりには浮かない顔だが」
「んー、」
 ベンはそのそばにゆったりとした歩調で歩み寄る。
「思ったより、なんていうかな…」
 腕をなくしてからも、シャンクスは剣を握った。その冴えは以前のそれと同等かそれ以上と見た者達は言い、赤髪海賊団の名は以前にも増してグランドラインに轟いていた。そのことについてはミホークも知っていたはずだ、あれは七武海の男だ。
「昔話に来たわけじゃないだろう」
 きゅうきゅうと、鴎が遠くで鳴いていた。上層の雲が頭の上でさらに上を目指して伸びてゆく。船の下では港に働くもの達が小さな人形の様に蠢いていた。シャンクスはベンの言葉に小さく笑みを浮かべて、
「じゃないよ」
 と言った。ベンは静かに見返し、何かを言いかけようとして躊躇った様に俯き、口を閉じる。
「好きにすればいい、明日には出航だ」
 そう言い残して去った。その後姿を、シャンクスは、人垣に消えてしまうまで眺めつづけた。
 




 ミホークの住処を訪ねたのは真夜中もとうに過ぎた頃だった。何もかもが暗闇にとけて、自分の姿すら影でしかない、そんな闇の中を、シャンクスは海沿いに歩いた。
 灯りの無い部屋にいた。招かれて部屋に入り、窓を開け、前方の暗い海のかなたをじっと見つめた。多少の息苦しさを感じたせいかもしれなかった。夜の海を渡ってきた風が赤い髪を揺らし、部屋に入り込み、日に焼けて黄ばんだカーテンを揺らす。失った左腕のあたりを月光が通りすぎ、室内を青白く塗り替えた。漆黒の空間に月はぽっかりと浮かんでいて、それが凪いだ海のごく僅かなうねりに光を落とし、ゆったりとした波の上下をあらわにする。
 秋島である。現在の季節は初冬。空は穏やかだが、窓から忍び入る風はシャツごしに冷たく肌を刺した。
 凪いだ海はつまらないなどと気まぐれに口にしたりすると、ベン・ベックマンは不謹慎だと言って声のトーンを一段落とした。その顔を思い浮かべて、シャンクスはにやりと海に向かって笑った。暖かみと、氷が滑り落ちたような冷ややかさとがせめぎあっていた。
 風が左腕の先を撫ぜて通りすぎる。腕をなくしてからしばらくは体の平行を保つのに苦労したこともあったが、最近ではすっかり慣れて、それほど不自由も感じない。
 腕は、東の海で子供にくれてやった。もう三年ほども前のことだ。その噂を聞きつけて首を狙ってくるものは現在でも後をたたず、おかげで最近つまらない戦闘が増えたとまわりが煩い。何も無ければ退屈だろうと言えば、そう思いでもしなきゃあやってられねえな、とどこからか声が上がった。シャンクスは思い出してまた、くく、と笑いを漏らす。
 そういった海賊稼業の明朗な部分をいっさい殺ぎ落として一人で海に生きている男がいた。海賊である理由があるのかと以前に一度訊いた事があったが、「漂っていれば勝手に向こうから暇つぶしがやってくる」とあっさりと言ってのけた。その答えをシャンクスは気に入り、「そりゃあまさに海賊以外のなにものでもねえなア」と、言って笑った。そんなシャンクスを、男もまた、気に入ったようだった。
 男の名はジュラキュール・ミホークといった。鷹の目のミホークといえば、グランドラインでは災いの代名詞のような名だ。こちらに戦闘の意志がなくとも出会ってしまったら逃れられない。背中の十字の黒刀は破滅を象徴するかのように語られた。巨大な船をこともなげに粉砕し、歯向かう船員を残らずなぎ倒し、ひとつの海賊団がまたたくまに消滅する。それすらも、この男にとっては単なる暇つぶしのひとつでしかない。
「こんなところであんたに会うとはなあ、鷹の目よ」
 シャンクスは背後を振り返る。酒杯を口元につけ、ゆったりと寛ぐ黒衣の男が、そこにいた。
「そうか」
 その家は、ミホークがこの島にいる間だけの、彼の城だ。その昔近隣の夏島の実力者が持っていた避暑用の別荘らしいということで、それほど広くは無いが細かな所まで神経の行き届いた建物だった。だが、古い。何年も放置されたままの家具や調度品は色あせ、あちこち塗装が剥げかけている。絹張のソファには豪奢な刺繍が施していあるが、一部隅に穴があき、そこから中の綿がはみ出している。使用には耐えるので、気にしなければ問題はない。掃除は行き届いているようだった。人が住める程度には、修繕も施されている。管理の人間が二日に一度通ってくること聞き、シャンクスは納得した。
「廃屋に勝手に入り込んでるわけじゃねえのか」
「ふん」
 ミホークはそれを聞き流し、テーブルの上の酒を注ぎ足した。
「わかんねえやつだな、相変わらず」
「そう言う貴様こそ、物好きな男だ。本当はどこで聞きつけてきた」
「どこからともなく。噂ってのはそういうもんだよ」
 シャンクスは窓から離れ、ミホークが下半身を横たえているソファの向かいに腰を下した。風は相変わらずカーテンを揺らしつづけている。
「その腕はどうした」
「どうも。なくなっちまった」
「ふむ、それでは剣は握れまい」
「そうでもない…まあ、それに剣が握れなくても海賊は出来る」
「そうか」
 ミホークが体を伸ばして、斜め背後にある棚からグラスをひとつ出し、シャンクスに手渡した。シャンクスは無言で受け取り、テーブルのボトルに手を伸ばして親指で器用にコルクを弾くと、自ら赤い液体を注いだ。
「どんな男にくれてやった」
「腕か?」
「ああ、東の海にいただろう。そこに貴様の腕を落とすほどの使い手がいるなら、出向くのも良いな」
 ミホークは口元だけ歪めて笑った。
「ハハ、そりゃあ違う。事故だからな」
「事故?」
 通路につながる一枚板のドアが音もたてずにぱたりと閉じた。風は少し、勢いを弱める。カーテンがしおれたように垂れ下がった。
 海からの風は、潮の香りと、静寂をつれてくる。月光は貴婦人のような顔で、無遠慮に室内を照らした。お互いの表情は、危うい所で掻き消えて、あまり良く見えない。
 最初にみつけたのはミホークの方だった。船を港につけて上陸した海賊の一団に島の住人たちは慄いたが、シャンクスは轟然と頭を上げ、しかし、力の抜けた、つかみ所のない佇まいは以前と何ら変わる所が無かった。
 声をかけようとは思わなかった。なぜなら、シャンクスは片腕をなくしていた。剣を振れない男に用はなかった。いかに海賊としての、頭としての実力が稀有のものでも、剣を振れない男には興味が無い。
 シャンクスが何故この館の存在を知っていたのか、ミホークは知りたくも無かった。一年のうち、この季節にだけ訪れる、この館を。
「畑でももってんのか?」
 などと、シャンクスはわざとらしく遠回しにたずねてきた。表情は淡々としたもので、相変わらず奥のわからない男だ。ミホークは心中で嘆息する。
「せっかくだ、存分に飲んでいけ」
 そう言ってやれば、シャンクスは目を伏せて静かに笑った。
 腕を失うほどの事故とはいったいどのようなものかと、ミホークは少しだけ考えたが、すぐにやめた。シャンクスがテーブルのボトルをとって、とくとくと酒を注ぐ音がした。ことりと据えられ、視線を送ればボトルは空になっていた。青白い光に浮かび上がるグラスの中で薄桃色の液体が揺れている。背後から月明かりに照らされたシャンクスの表情は相変わらず見えない。
「腕とな」
「ん」
「腕と、あと、麦わらをくれてやった。あと十年もしたら、グランドラインでその名が聞けるようになるかもしれない。剣が使えるようになるとは思えねえがなァ、興味があるか?」
 シャンクスは思い出して愉快そうに笑い、上体を小刻みに揺らした。
「事故ではないのか」
「ああ、事故だ」
「……わからぬ」
 シャンクスは弾ける様に仰け反り、声を上げて笑った。ヒイヒイと声を引き攣らせて、終いには身を捩ってソファに倒れ込んだ。
「あー、おかしい。ハッハッハ…あんた変わらねえなあ」
 ミホークは笑い転げるシャンクスを横目に溜息をつき、目を瞑って上半身をソファに倒し、仰向けになった。言いたいなら言えば良いし、言いたくないならわざわざ聞こうとは思わない。だが、赤髪ほどの男がやすやすと腕一本を落とすほどの価値のある人間がいるのだと考えれば、多少の興味はわいた。
「女か」
「いんや、ガキだ。海賊志望のな」
「貴様のか?」
「まさか!」
 シャンクスは柔らかく笑って、懐かしむような目をした。月が角度を変え、その顔を照らした。
「俺も年をとったのかね、少しは。後から追ってくるもののことを考えるようになった」
「……」
「あいつが海に出た時、何にも残っていないくらいに今すぐ世の中を浚っちまいたいと思うことがたまにある」
 そう言って背後を振りかえり、ソファの背もたれに顎を預け、月にその顔をさらした。ミホークからは見えなかったが、おそらくこの男の一番海賊らしい顔が、そこにはあるに違いないと思う。
「俺は考えぬ。興味もない」
「ふん…まあ、それもいいよ。ただ…」
 ミホークは上半身をやや起こし、右側を下にして背もたれに体を押しつけた。シャンクスの言葉は、まるでミホークの知らない言葉だ。だが、憧れめいた響きがその中にはあった。憧れ?と考えてすぐさま打ち消したが、何者かを待つ楽しみ、というのは、常にミホークが求めている退屈凌ぎの到来と背中合わせのもののように思えた。
「あんたは誰かを待っていたり、誰かを待たせていたりはしねえのか?」
「答える必要を感じぬ。俺は、剣とともにあればそれで良い」
 シャンクスはそれを聞いてにやりと笑った。嫌な男だと、ミホークは顔を顰める。胸の内の何かを勝手に推量されるのは誰しも不愉快なものだ。
「ふーん、ま、そうだろうね」
 そう言って残った酒を飲み干し、酒杯を置いた。ミホークはその一連の動作を眺め、首を逸らして目を閉じる。
「なぜ声をかけた」
「いけなかったか?」
「嫌ならば応じぬ」
「随分久しぶりだっただろ?東の海が長かったからなあ。グランドラインの奥まではなかなか、時間がかかる」
 首を前に折って左右に髪を振ってから、右手でかきあげた。そして前髪のすきまから愛嬌のある目を覗かせて笑う。
「貴様が腕をなくしたというのは噂に聞いていた」
「へえ」
 ミホークは体を起こし、棚からボトルを引きぬく。ソファに座りなおすと、自分のグラスとシャンクスのグラスに、それぞれなみなみと酒を注いだ。
「以前にも増して鬼神のようだとな。しかし、そんな必死な貴様など話にならん」
「そうか?」
 こくりと、シャンクスの喉もとが動く。
「死んだらシャレにならないだろ、必死にもなるさあ」
 杯を持ったまま立ちあがり、ミホークの座るソファの前に建つと、テーブルに腰かけた。ミホークは見下ろされるのが気に入らず、ただ黙る。
「手合わせしたのはもう、五年も前の話だ。俺はあんたの剣を知っている。知って、生きている男だ」
「調子に乗るな」 
 シャンクスはそのままゆるゆると床に腰を下ろした。今度は見上げて、なあ、と笑う。それから、こつんとソファに額を押し付けた。ミホークが横にだらりとたらした右手が触れた。
 ミホークの纏う気配は静かだが、同様のシャンクスのそれとは違い、気を抜けば一気に喉笛を切り裂く獰猛さを常に中心においていた。気を付けながら、シャンクスはゆっくりと近づく、足音を立てないように静かに。そう具体的に注意しておかないと、いつか自分は、それを見たいがためにこの男を起こしてしまうこともあるかもしれない。猛禽の瞳。不意に真剣さを宿した目に、ミホークは不審の目を向けた。
「島にきたのはきまぐれか」
「そう思うか?」
「?」
「あんたに会いに来たんだよ」
 一際大きな風が舞い込んで、部屋の中を音を立てて走りぬけた。
「それから美味い酒にありつきに」
シャンクスは笑って立ち上がり、ゆっくりと体を折って、ソファに上半身をもたせかけて横になったミホークの額に自らのそれを押しつけた。赤い髪がミホークの頬にかかる。ミホークは真っ直ぐにシャンクスの視線を捕らえ、腕を伸ばし、その髪を梳くようにして持ち上げた。
「おっかねえ眼だな」
 右手をソファーの背もたれに伸ばして体を支え、ミホークに覆い被さる様にしながら、シャンクスはその目を間近に覗きこむ。
「失せろ」
 言葉は端から消えうせ、唇はしっとりと重なった。頬や顎に、ざりざりとした感触が触れた。こもった熱は瞬く間に内側から冷えていった。あわさった固い胸はとくとくと綺麗なリズムを刻み、ミホークは目を閉じたままそれを聞いた。
「あんたは優しいな」
 シャンクスはミホークを見下ろして呟く。
「貴様は気が違っている」
 シャンクスはもう一度口付けた。ミホークは右腕で自分の体を支えたまま、左腕を上げて、もう一度シャンクスの髪を梳く。漏れる吐息が闇の中でかすかに響いた。やがて離れても、そのまま身動きひとつせず、だまって去って行く足音を聞いていた。
 闇は濃く、月光は変わらず瞼の裏に差しこんだ。眠れないまま、夜はゆく。




 
 「お頭」
 遠くで鋭く呼ぶ声が聞こえ、反射的に顔をあげた。その向こうに馴染みの黒衣が見え、シャンクスはニヤリと口元を歪める。
「よう」
 ミホークはすたすたとシャンクスのもとに歩み寄り、その前に立って見下ろす。シャンクスは見上げる格好になり、それを気にいらない船員達が後ろから何か大声でわめいている。その後ろから、副船長の「よせ」という静かな声が聞こえた。
「そろそろ時期も終わりだ。行こうと思う」
「……そうか」
 シャンクスはゆらりと体を傾け、立ちあがろうとする。そこに、スラリと黒い刀刃がひらめいた。あたりの空気が一気に緊張する。空は高く、混じりけのない風が吹く海の上は静けさに包まれている。波はその穏やかさを船底越しに伝える。鴎の羽ばたきすらも聞こえない。天から降る弱々しい白い光は船上に辛うじて薄い影を生み出した。そこには暖かみよりも冷たさがあった。
「殺すか?」
 刃先は喉元を正確に捉えていた。ほんの少しそれをずらすだけで、ミホークはシャンクスの息の根を止める事が出来る。
 シャンクスは動かない。動かないまま、じっとミホークを見上げている。何も映っていないかのようなその目の黒は、いっそあどけない。不躾であり、無邪気だ。
 この男の、そういう無邪気さが、ミホークには貴重なものだった。そして、剣の腕を尊んだ。裏で何を思っていようとも。そもそも、一点の曇りもない人間に興味などない。
「貴様を殺せば、俺はうまい酒の味をひとつ無くすことになるな」
 シャンクスは笑って、
「じゃあ、よしとけ」
 と、目を見開いて快活に言った。
 シャンクスは、ミホークには本当に惜しいものなどひとつも無いのだと知っていた。おそらく、自身の命さえも。
 心の中は空漠たる荒野だ。心とともにあるはずのその身に持つ業は空虚では有り得ない。それなのに、だ。
 ミホークの視線は揺らがない。鋼鉄の肉体と鋼鉄の意志の元に押し込められたものを想像しながら、シャンクスは小さく笑いながら言った。
「俺は手に入れるよ。欲しいものは欲しいと言う。全部腕に抱き込んじまいたい」
 ミホークは斜めに笑った。冷ややかに、その眼はシャンクスの左腕を射る。
「それが、貴様には似合いだ」
 その言葉と同時に、シャンクスが前に出て刃を無造作に掴んだ。瞬間、ミホークは体を強張らせたが、ゆっくりと引き、背中へと戻した。シャンクスは掌を開いて目の前にかざした。手には、傷ひとつ無い。
「生かしとくか?」
「今はな」
「いつか殺すか?」
「殺して欲しくばそうしよう」
 口元を愉しげにゆがめて、ミホークは言った。シャンクスは僅かに目を細め、あらためてミホークを見上げた。自分を殺す事のできる、この世に数少ない男を。
「あんたやっぱり優しいんじゃねえの?」 
 シャンクスは立ち上がり、ミホークの横から顔を突き出して大声で叫ぶ。
「おい、野郎ども!酒だ!」
 周囲がざわりとどよめいた。ベン・ベックマンは目を伏せて笑った。
「そういうわけで、飲んでけ鷹の目」
「昼間から酒盛か」
「それが出来るのが海賊のいいところだろうが。東の海のガキの話を聞いていけ」
 ひとりでいる時とそうでない時の顔が違うわけではないのか、そんなシャンクスは、夜明け前に月光の下で見たほほえみとは全く違う顔で笑っていた。
 風は中心に向かって吹いていた。シャンクスの周囲に集まる様にくるりと輪を描いて流れ込んだ。歌声が聞こえはじめ、その向こうで「もっとまともに歌え!」と野次が飛んだ。
「そうだな…それも海賊のいいところか」
 声は風にかき消えた。ミホークはシャンクスの背中を無言で見つめた。そこにあるだけで、それはたやすく胸を刺した。
 波はたぷん、と、船を大きく揺らした。鴎がきゅうきゅうと鳴いていた、初冬の午後だ。
2002年9月発行
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