言い訳なら星の数 - fraise.4 -

 こめかみに鈍痛を感じる。
 枕に頭を押しつけたまま天井を眺めて溜息を吐くと、布団の中にこもったそれが自らの体内の熱さを皮膚に伝えてきた。
 重い腕をゆっくりとあげて掌で顔を覆い、二度三度擦ってみる。瞼の裏で光がチラつき、額の奥がじわりと痛んだ。
 窓の外は素晴らしく良い天気だ。カーテンが明るく透けている。結構なことだ。ゾロはそれを見て眩しげに目を細め、もう一度溜息をついた。
 新緑がまばゆく光る五月の始まりは、日本中がゴールデンウィークという言葉に反応して浮き足立っている。何をもってゴールデンなのかといえば、一般的に盆暮れ以外でまとまった休みがとれるのがこの時期以外にないからで、それゆえ貴重なのだろうが、休みだからこれをしなければ、どこかに行かなければ、というのは、何かに追いたてられてそうしているように感じられて、ゾロはあまり好きではなかった。隣家の幼馴染みであるサンジにそう言えば、面倒くさがりなのだとか出不精なのだとか、ひとことで片付けられてしまうのだったが。
 そのサンジはといえば、昨日から彼女と一泊二日でドライブに出掛けている。近場だと言っていたが、わざわざ渋滞にはまりに行くのかと言うと、引き攣った笑いを浮かべつつも、彼女と二人だから良いのだとでしゃあしゃあと言ってのけた。偉いものだと思う。
 今の彼女は、名前はなんといったのだったか。会ったことは。サンジはあまりつきあっている女を家に連れてこないので、その可能性は薄い。ゾロはもう一度顔を擦って寝返りをうつ。
 何か腹に入れて、薬を飲まなければ。体温計はどこに置いてあっただろう。サンジが知っているはずなのだ。この家の中の、何がどこにあるのかということを、サンジはゾロよりも良く知っている。
 携帯を取ろうとしてためらった。思い直し、布団から足を伸ばして蹴飛ばした。壁にあたって跳ね返る小さい音がした。
 せめて、水だけでも飲まなければ。

 友人に借りていた車を返して、ようやく家に戻った頃には夜の十時を回っていた。隣家の窓は暗く、出掛けているのかと思いながら、サンジも無人の家に入った。ゼフもそろそろ戻るころだ。
 なんだかんだと、連休を満喫しているんじゃねえか。
 自分のことは棚に上げて、ゾロに対して腹立たしさを感じる。あいつはいったい誰とこの二日間を過ごしたんだろう。胸の中に浮かび上がる急くような感情に呼吸が乱れた。落ち着けるように大きく息を吸い込んで、一気に吐き出した。
 旅行中に二度、ゾロに電話をした。一度は家に、もう一度は携帯にかけたが、いずれもゾロは出ず、長めのコールは空しく響いたまま繋がることは無かった。
 まさか今日も戻らないのだろうか。
 サンジはもう一度携帯を鳴らしてみた。戻らないのならそれで、そうだと知るだけでも良かった。
 サンジの家には、ゾロの家の鍵がある。高校生の頃海外に転勤になったゾロの父が、ゼフに託していったものだ。戻らないのなら勝手に入って、土産だけ置いて来たっていい。そんな言い訳をわざわざ見つけなければならないような、伸びたり縮んだりする微妙な距離感を、サンジはこの頃もてあまし気味だ。
「もしもし…」
 電話の向うで、いつもよりトーンの低いかすれ声が応えた。
「ゾロ?今どこ?」
「サンジ…」
「お前…」
「風邪ひいた。昨日から、ずっと寝てる」
 ひとつ舌打ちをして、サンジはすぐに立ちあがった。玄関まで走り出て、気付いて慌てて戻り、ゾロの家の鍵を取って飛び出した。
 玄関ドアを開け、右手の階段を駆け上がる。家の中は真っ暗だ。階段を上がってすぐ右側がゾロの部屋だ。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開いた。
「ゾロ?」
 暗い部屋の中を見渡すと、ベッドの位置でゾロの頭がもぞもぞと動いた。サンジは部屋に足を踏み入れ、そろそろと近づいていく。
「熱は?」
「はかってねえ」
 久々に声を出したからか、ゾロはそう言ってから激しく咳き込んだ。サンジは呆れたようにため息をつく。案の定だ。
「体温計は台所の、食器棚の右の引き出し。電話すりゃ良かったのに。ていうか、俺したぞ?鳴っただろ?なんで出なかったよ」
 ゾロは寝返りをうって壁の方を向いた。サンジはその後頭部を軽く小突く。
「メシ…は食ってねえな。まってろ、今なんか作ってくる。あと、薬も」
 サンジの金髪が淡く光って、かすかにその存在を示す。ゾロはそろりと見上げて、小さく安堵の息を吐いた。
 帰ってきたのは、隣家の引き戸の音でわかった。でなければ、やはりまた、電話には出なかった。女と一緒にいる幼馴染みに、男の自分が風邪をひいたなどとわざわざ伝える必要なんかどこにもない。
 油断した。普段、まったく気にしてなどいないことが、こんな風にふいに明らかになるのは気分が悪い。ただの幼馴染みにしか過ぎない、などと改めて考える事はバカバカしいし、無駄だ。そんなものをあっさり飛び越えたところに存在を許しながら、お前を一番に考えたりはしない。お前も、俺を。ゾロは腕を上げて目を覆った。サンジが電気をつけていったので眩しい。
 お前がいるから。お前がいるせいで。
 そんな言い訳を。

 ほどなく、サンジはやわらかく煮たうどんと薬を持って、再び階段を昇ってきた。差し出された蒸しタオルを受けとって顔を拭う。気持ちがいい。
「ひょっとして、遠慮した?」
 頭が重くて、サンジの声が少し遠くに聞こえる。温かいうどんは胃袋にしみた。薬を飲んで一晩寝れば、きっと熱は下がるだろう。
「ま、いいけどさ。ヘンな気の回し方しやがるぜ」
「電話したところで、お前の返事なんか想像つく」
 ゾロは時折咳き込みながらぼそぼそと話す。声は相変わらずかすれている。サンジは瞼を半分落として、その声を聞いていた。帰ってくるまで五時間運転し通しだった。布団に入ったらすぐにでも眠れる。
「ふうん。なんて?」
「『そんなことで電話してくんなあほ。薬飲んで寝てろ』」
 ひゃひゃひゃ、と、わざとらしい笑い声をあげて、サンジはゾロの寝ているベッドに寄り掛かった。そして首を仰向けて、下からからかうような目でゾロを見あげた。
「そうだなー。電話じゃそんな返事しかしねえな、多分」
 そしてきっと、赤い顔をして眠っているゾロの姿が目の前をちらついて何を見てもうわの空で、きっと彼女を怒らせたに違いない。
 サンジは目を閉じて薄く笑う。ゾロがうどんをすする音がする。少し柔らかく煮すぎただろうか。
「なあ、うまい?」
「味わかんねえ」
 ゾロはやや顔をしかめ、それでもうどんを食べつづけている。サンジは声を立てずに大きく満足げな笑みを作る。
「とにかく食って、薬飲んで寝ろ。あ、それと俺、泊まるから。布団、勝手に出すけどいいよな?」
 サンジはゾロの返事を待たずに立ち上がり、トレイをさげて、コップと薬を手渡した。

 ゾロの部屋に泊るのは久しぶりのことだった。サンジは布団の中で、やや落ちつかずに何度も寝返りをうつ。体は疲れているのに、軽い興奮の中で眠気はなかなかやってくる気配がない。すぐに眠れるはずだったのになんてこった。
 隣のベッドからは寝息が聞こえている。少し苦しそうに、鼻を鳴らしたりしている。
 さっきはゾロの肌に触った。
 体を拭いてやろうかと言ったらムキになって嫌がったが、最後には諦めておとなしく拭かせた。うなじと背中を拭いただけで、手にしたタオルは奪われてしまったけれど。
 サンジは腕を抱き込むようにしてうつ伏せになり、枕に顔をうずめる。
 待ってた。
 獣が暗がりで息を殺して回復を待つように、じっと動かないで、当然のようにこの手が差し伸べられるのを、ゾロは待っていたのだ。
 布団の端をぎゅっと掴んで引き上げる。胸を支配するその確信が波となって幾度も打ち寄せて、その波に押されるままに動き出しそうな衝動をサンジは必死で押さえ込んだ。この歓喜をわかる奴がほかにいるか。いったいこいつは熱に浮かされた頭で何度俺の名前を呼んだんだ、ちくしょう。
 苦しそうな呼吸の下で、ゾロは相変わらず咳が止まらない。時々小さく唸ったりして、また咳き込む。サンジはたまらず布団から這い出てゾロのベッドに近づく。
 ゾロはこちら側を向いて、体を丸めて眠っている。サンジはのびあがって、背中をさすってやった。
「サンジ」
 サンジのTシャツの胸元をぎゅっと掴んで、ゾロが息を吸い込みながら呟いた。耳の内側がぐらりと揺らぐような感じがして、咄嗟に覆い被さるように抱きしめていた。
「ゾロ…ッ」
 耳元で吐息まじりに囁くと、ゾロの体があきらかに震えた。サンジは背中にまわした右手をせわしなく上下に動かす。左手で髪を梳きあげ、汗ばんだ額をそっと撫でた。
 耳元に熱い呼吸を感じて、ゾロの意識は不意に浮き上がる。サンジが何か言っているような気がしたがよく聞こえなかった。意識とともに瞼をうっすらと開いてみると、間近にサンジの胸元があった。なぜだかひどく安心して、首の力を抜いてそこに額を押し当て、また目を閉じた。
「あつい…」
 そう言って、またコンコンと小刻みに咳を繰り返す。サンジは名残惜しそうに額をもうひと撫でしてから、ゆっくりと離れた。そして、ひたひたとやわらかく頬を叩く。
「辛ぇか?」
「…ふ」
「寝ろよ、…いるから」
 返事はなく、かわりに、再び寝息が聞こえはじめる。
 寝てしまえる奴は幸せだ。俺はいったい何がしたいんだ。サンジはどっと疲れてその場に突っ伏した。
 

 窓からは白くて力強い陽光がさし込んでいる。ゾロは誘われるようにふらふらと起きあがり窓辺に立った。
 ぼうっと霞んだような脳裏の映像を巻き戻しながら、ゾロは昨夜の夢のイメージを追うが、それは掴めそうでいてそうでなく、やがて曖昧に広がって大枠の中で溶けてしまった。
 目覚めるとすでにサンジの姿はなく、蒲団は上げられ、カーテンも開いていた。
 目の前には抜けるような青空が広がっている。サッシを開けて、新鮮な空気を吸い込むと、いくらか気分が晴れた。熱はすっかり下がっている。少しだるいのは二日間も何も食べずに寝ていたせいだ。まったく、サンジが来てくれて助かった。
 唐突にある考えが浮かび、ゾロは自分に対して苦笑する。おそらく、疲れているとか、病み上がりのくせにとか、なんだかんだと言って拒むだろうが、かまうもんか。俺が出掛ければついてくるに決まっている。
 サンジを誘って出掛けよう。ゴールデンウィークの最後の一日。街には人が溢れているだろうが、男二人入り込む隙間くらいどこにだってあるはずだ。右斜め下で黄色い頭がゆれたのが目に入った。見上げて、サンジが眩しそうに笑っている。
「メシ持ってきた」
 ゾロは曖昧な笑みを向けて頷く。
 どうやって切り出そう。言い訳ならば、いくらでもある。
100000HITリクエストその2「ゴールデンウィーク」。(2003/6/10)
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