離れない - fraise.3 -

 テーブル上には清潔感と冷感の中間で丁度良く整えられた色合いのパンフレットが、何冊か重ねられている。それらを次々と手に取り、ゾロにはどれも似たり寄ったりに思える写真を眺めながら煙草を吸う幼馴染みの姿は、ここ最近の定番だ。
 サンジは一見して意外なほど真剣に見入っている。ゾロは先ほどから台所の入り口に立ってしばらくそれを眺めていたのだが、サンジはまったく頭をあげようとしない。
「決まらねえの?」
「お、なんだ?メシ食いに来たか?」
 本気で気付いていなかったのかどうか、サンジはそう言ってようやくゾロを見た。
「そういうわけじゃねえけど」
 などと言いながらもゾロの手は無意識に胃袋の上をさすった。朝起きて昨日買っておいた調理パンを食べたが、空腹感ははっきりとあった。
「俺もまだなんだ、昼飯にしようぜ。パスタでいいか?」
 サンジは立ちあがり、水を入れた鍋をコンロに掛ける。読みかけのパンフレットがぱさりと音を立てて、テーブルから落ちた。ゾロはゆっくりと屈んで、それを拾い上げる。
「改築すんのか?」
「あ?いや、しねえよ」
「なんだ、最近見てるからてっきりすんのかと思ってた」
「してえんだけどさあ。ジジイがうんと言わねえし。悲しいかな、金を出すのはジジイなわけで」
 サンジは手早く切ったアスパラガスとトマトを、アンチョビと大蒜と唐辛子を炒めたフライパンに放り込む。ジュッと音がして、食材の香りがキッチンに広がり、ゾロの食欲をおおいに刺激した。その中に茹であがった麺を入れて、モッツァレラチーズ、塩胡椒を加えて混ぜ合わせ、皿に盛りつける。何度見ても鮮やかな手際の良さだ。
「おら。てめえはちょっと家にこないとすぐ野菜不足になんだから、もっとちゃんと食いに来いよ、昼も」
「あ?来てるだろ」
「最近は来てねえよ。夜もたまにじゃねえか」
 サンジは席につき、フォークに手を置いて、ゾロを下から睨むようにして見つめている。ゾロは黙って椅子を引いて皿を置かれた席に腰を下ろす。サンジの向い側だ。湯気がもくもくと、間に立ち上る。
「そうだっけ?」
 ゾロはごまかした。サンジの科白はまったく真実だ。けれどサンジはそれ以上その事については追求してこず、二人はそのまましばらく無言で、出来立てのパスタをかき込んだ。
 ずるずる。すすすす。
「風呂をどうにかしてえんだ。あとキッチンも。料理人のキッチンじゃねえよ、ったく使いにくい」
 確かに、築三十年のこの家は古い。ゾロの記憶のうちでも一度も手を入れていないはずだ。あちこちガタがきているようだし、家電等も古めかしい。たとえば最新の物に買いかえれば電気代は三分の二になるだとか、ケーブルやスカパーや、DSL回線のことまで、サンジはゼフにいろいろ言っては返り討ちにあっているのだ。サンジが自室で使っているノートパソコンの接続はPHSだった。ゾロの家に来てはADSLを羨ましがっている。今時どこの家だってそうだろうというと、サンジは項垂れて口を尖らせ、その顔つきで不機嫌を訴えるくらいがせいぜいなのだ。
「じいさん、なんかポリシーでもあんの」
「さあ。やりたきゃてめえが自分でやれ、の一点張りだからなあ、クソジジイ」
「らしいっちゃらしいけど」
 手放したフォークが、カチン、と空になった皿の縁で音を立てた。
「ごちそうさん」
「おそまつさま」
 ゾロはキッチンを出て続きの居間に移り、座椅子にどっかりと腰を下ろす。サンジはその様を横目で見て軽く笑みを浮かべながら戸棚からゾロの湯飲みを出した。
 これを使うのは久しぶりだ。夜だとつい晩酌になってしまうし、それでなくてもゾロは最近夕飯を食べにこないのだ。何故だか訊いてみたい気もするが、あまりうるさく言うのも躊躇われた。サンジは湯飲みをゆっくりと温め、自分の分と二つ、日本茶を注いだ。
 お盆を持って居間に移動すると、ゾロは、サンジが置きっぱなしにしていたパンフレットをキッチンから持ってき、眺めていた。
「どんなのにしたいんだ?そんなに大掛かりにやるつもりなんかねえだろ」
「ねえよ。つうか、予定は無いんだって」
 サンジは苦笑しながら別のパンフレットに手を伸ばす。
「いずれはこういうのにしなくちゃなんねえよなあと思ってるだけ。ジジイがヨボヨボになったときのこととかさ、考えるじゃん」
 そう言って、サンジはバリアフリー商品のシリーズが並ぶページを開いてゾロに見せた。
「…ああ。確かにここん家の風呂だと、考えねえとダメだろうな」
 サンジの言葉を聞くまでは考えた事も無かったが、確かにそうだ。ゾロはそのページをのぞきこみながら、サンジの感情や行動をおぼろげに理解した。
「仕切りを取っ払うのか?」
「まあ、そういうのもおいおい。つってもジジイ、まだまだピンピンしてるしよ。こんな事考えてるなんてばれたら蹴り飛ばされて怒鳴られるだけだろうけど」
 だが、そういったことを考える人間は、ゼフの周りにはサンジ以外いないのだ。俯いて頬にかかる髪をゆっくりとかき上げる指先を見つめながら、ゾロは思い出す。
 この男には親がいない。
 ほんの子供の頃だった。今でも覚えている。サンジの父方母方の親戚が居並ぶ中で、まったく赤の他人の自分が、サンジの隣を一度も譲らなかった。父親は止めなかったし、ゼフも許した。サンジは泣いてはいなかったが、我慢していたというわけでもなかった。ゾロは、あの時のサンジは、両親とともに、自分の葬式をも行っていたのではないかと今は思っている。
当時はもちろんそんなことはわからなかったけれども、とにかく傍にいなければいけないと、それだけをかたくなに思っていた。
「でもなー。どうせ新しくすんならジャグジーとかにしてえなあ。窓を広くしてさあ、星とか見える感じに」
 能天気な呟きに、ゾロは思索を中断し、目元だけでふわりと笑って溜息をついた。サンジはその顔を見て、「なんだよ」と口を尖らせる。
「いや、そうだな。あとどうせならでかい方がいいな。二人で入ったり出来る方がいいだろ」
 その言葉にサンジは目を丸くした。
「二人!?」
「あ?ああ、それくらいのでかさの方が」
「二人って、誰が、誰と」
 サンジは驚いた顔のまま、なぜか性急に答えを求める。ゾロの方もなぜだか焦って、焦っている事実に混乱する。それほどおかしなことを言った覚えはない。いや、おかしかっただろうか。
「だって…お前だっていずれ嫁さん貰ったり、そんで子供が生まれたり、するだろうよ?」
 サンジは口をあんぐりと開け、ゾロの顔を見つめた。呆然、とはこんな顔だな、とゾロは思い、湯のみに手を伸ばして茶を一口すすった。まろやかで、苦味がない。
「俺が結婚して、この家に住んで、子供が生まれるんだ。ああそっか、…へえ」
 サンジもゆっくりと湯飲みに口をつけ、ゾロを見て言った。
「奥さんは誰だろうなあ?すごい美人でさ、俺のこと愛してんだろうなあ…子供は当然めちゃめちゃ可愛くってさ」
 ゾロはなんとなくサンジから視線を外して、庭の緑を見つめた。この家の庭には一日中日が差し込むので、草木が良く育つ。住人達は料理ほどにはそこに神経を使わないので、野趣溢れる、という形容の似合う庭だ。草むしりなど年に何度も行わないのであろう。
「俺に子供がいたら、お前にもいるのかな。そんで、まだ隣にいんのかな?」
 そして湯飲みに顔を半分かくしたまま、目線だけをゾロに向けて、そう問う。
「いるんじゃねえの?まあ、…だとしたらいい加減長い付き合いだなあ、俺ら」
 そう言って庭から視線を外してサンジを見ると、サンジは少し怒ったように視線を外した。
「いまさら…」
 屋内はしんと静かで、なんの音もしなかった。互いの心臓の音が聞こえそうなほどだ。あたたかで、規則正しい音だ。なんだか、そのサンジの呼吸を浴びて眠ってしまいたいような気が、ゾロにはした。そして、すぐにそれを実行に移した。
「寝ていいか?」
「寝れば」
 サンジが湯飲みを片付けようと立ち上がりかけたところへ、ゾロが手を伸ばした。
「いろよ」
 手首を掴んで、引き寄せた。
「ゾロ?」
「いろ」
 サンジは戸惑いを隠しながら、その場に座った。「なんだよ」と呟いた声は、震えていた。そしてゾロが掴んだ方と反対の手を額の上に置いた。ゾロは目を瞑り、呼吸を深くした。
「ひでえ奴」
 サンジはゆっくりと額から髪を撫で、囁くように言った。
「離れないなんて保証がどこに…」
 聞こえないように、そこだけは声を低くしながら。
(2002/11/3)
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