fraise

「ゾロ?」
 名前を呼んで、隣の部屋に続く襖の陰から顔を覗かせると、案の定ゾロは夢の中だった。初夏の夜、室内から漏れる明かりは中途半端に途切れて消える。闇は濃く、どこか開放的な匂いがする。涼やかな風が網戸越しに入り込んで吹きかかり、さぞや寝心地は良いことだろう。サンジは持ってきたアイスコーヒーをトン、と和室の飯台の上に置き、その下に半ばもぐる様にして寝ているゾロの顔を眺めた。
 瞼は上下が触れ合う程度の軽さで閉じられ、寝息は小さく規則正しい。ビデオは巻き戻しおわって、テレビは音もなくただ真っ黒な画面を映し出している。風呂も使った。眠ってしまってもなんら差し支えはない。ゾロは身動きひとつせず、綺麗な首筋をこちらにさらしている。それを横目に見て、サンジは布団を敷くために奥の間へと向かった。
 ゾロとサンジは幼馴染だ。幼馴染といっても、普通いわれるそれよりは少し、親密かもしれない。お互い口もきけない頃から一緒になって遊んでいたから、今ではまったく空気のような存在だ。
 隣家であるゾロの家は剣道の道場で、昔はサンジもよくそこに通った。剣道を習っていたわけではなく、九歳で両親を亡くしたサンジには、家以外に長い放課後を過ごす場所が必要だったからだ。道場は、師範だったゾロの祖父が五年前に他界してからはすっかりさびれ、今は時々、ゾロが竹刀を振る音が聞こえてくる以外は、全く使われていない。
 ゾロの両親は随分昔に離婚した。サンジは、ゾロの母親については遠い昔の記憶がうっすらあるだけだが、父親の方には随分可愛がってもらった。仕事の関係で海外で暮らしているゾロの父は、半年に一度帰ってくるかどうかで、今ではめったに会う機会はない。ゾロは高校生になってすぐの頃から、もう四年もひとりで家を守っている。
 そんなわけで、こんなふうにサンジの家でゾロが寝てしまう事は珍しくもない。反対にサンジが泊る事もしょっちゅうだ。昔からそうだ。客間の布団には、もはやすっかりゾロ専用となっているものさえある。サンジは押入れを開けてそれをひっぱり出し、クリーニングに出してあったシーツの袋を破った。まっさらなシーツはピンと張って、清潔な匂いがした。
 リビングと続きの和室で、ゾロは相変わらず眠っている。飯台の下にもぐるようにして眠る癖は、ほんの子供の頃からずっと変わっていない。サンジは傍らに立ってゾロを見下ろして言った。
「起きろ、コラ」
 足を肩先に当てて、揺する。ゾロは「ん」と軽く反応したが、目は開かない。
「布団敷いたぜ」
「……ここでいい…」
 かすれ声で、返答するが、わかって答えているのかどうかは疑問だ。
「だあめだ。ちゃんと寝ろ。風にあたりながらじゃ風邪ひくぞ」
 ゾロは薄目を開けてサンジの顔をみとめると、両腕を上に向かってゆっくり上げた。
「甘えてんな。起きろよ」
「引き摺っていい」
「ふざけんなてめえ」
 サンジの声に笑いがまざるのを感じてか、ゾロは目を瞑ったまま口元だけで笑った。
「眠ィ。目、開かねえ」
 サンジは唇をきゅっと尖らせるように閉じ、黙った。こんなゾロの姿もこれまで何度見たかわからないが、最近は黙って甘やかすと、あとできまって自分が落ち込む。むしゃくしゃして、物に当るようなこともしばしばだ。何故なのか、心当たりはないわけではない。考えたくもないことだが。
「そんな顔してもダメだぜ。ほら、あっち行って寝ろよ」
 サンジはゾロの手を両手で掴んで、くい、と引き上げる。ゾロはゆっくりと上体を起こした。
「あー、気持ち良く寝てんのに、なんで起こすんだよ」
 そう言って、くあ、と欠伸をしながら、ぼりぼりと頭を掻く。
 飯台の上に置いたグラスは汗をかいて、下に小さく水が溜っている。ゾロはそれに手を伸ばし、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。サンジは最初、そのゾロの仕草を突っ立ったまま眺めていたが、ゆっくりと真っ暗な庭へ視線を転じた。夜風はひらひらと漂いながら、室内の空気に混ざりこむ。緑の匂いだ。少しだけ湿り気を帯びていて、ひんやりと気持ちが良い。
 部屋が余っているんだから、と、中学一年の夏に初めて、別室に布団を敷いた。言い出したのはサンジだった。その時はただ、ふたりで暑苦しく同じ部屋で寝る事もないと思っただけだった。それまではまだ、サンジの部屋に布団を敷いていたと記憶している。
 最後に一緒のベッドで眠ったのはいくつの時だったろう。
「一緒に寝よっか、たまに」
 サンジのそのひと言に、ゾロは平らかな目を向けた。
「エアコンあるし。セミダブルだから、寝れる」
 ゾロは考えるようなそぶりで庭のほうに向き直る。べつにここでもいいのに、と思っているのだとサンジには手に取るようにわかる。
「ここはだめだ。窓は閉めるし、毛布はもってこねえよ」
 先回りしてそう言うと、ゾロはチ、と小さく舌打ちした。
 サンジは何の気なしにそんな言葉を口にしたことを、ひどく悔いていた。なのに、ゾロが「やっぱり和室で寝る」と言い出しやしないかと思い、動悸は早まる。どこを見ていいのかわからず視線が定まらない。
「んじゃ、先行ってる」
 ゾロはのそりと立ちあがり、サンジに空のグラスを渡しながら、欠伸混じりにそう言った。サンジは耳の下あたりが異様に熱くて仕方がない。胸が痛くて息が詰まる。
 グラスの表面は濡れていて、ぬるんだ水が掌をつたった。サンジはキッチンに行ってそれを洗ってしまうと、和室に戻り、テレビを消した。それから、窓を閉めて鍵をかける。サッシはするすると音をたて、風はまた、ひそやかに押し出されていった。そして静まり返った夜の中から、灯りがひとつ、ぱたりと消えた。
(2002/6/20)
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