DEPTH

 目を覚ますと、薄墨をを滲ませたかのような暗くぼやけた部屋の様子にゾロは体が浮いているような感覚を覚え二度、三度とまばたいた。思考をめぐらせ、ああサンジの部屋だ、ベッドの上だ、と思い、一度瞼を閉じ、またゆっくりと開いた。
 喉の渇きで口内がねばついてどうも具合が悪い。ゾロは出ない唾液を無理やりに絞って飲み込んだ。目だけを動かして時計を見ると、午後7時を回ったところだ。
 隣の熱が気になった。サンジはまだ寝ていた。寝乱れた髪が耳や首筋に触れてその近さにゾロの胸は小さく騒ぐ。規則正しく上下する胸元から首、顎のラインに視線を移しながらゾロはまた眠りに誘われそうになっていた。
 暑い。
 首筋から胸元、額も、じっとりと汗ばんでいる。エアコンは効いているが酒に浸った体の熱は一向に引かず、腕が触れ合ったその部分はお互いの汗が浮いて交じり合っていた。
 ゾロは何故二人とも上半身裸なのかと訝りながら首を折って自分を見下ろす。下はジーンズの釦が外れて、ファスナーは半分ほど下りている。暑さにTシャツを脱ぎすて、飲みすぎて膨れた腹をくつろげたのだとは容易に想像がつくのだが、寝る寸前の様子を思い出そうと試みてもそれはうまくいかず軽く歯噛みする。判らないのは不安だ。胸の真中あたりを冷たい水が落ちていくような感じがする。
 先に起きるなんて損だ、と、何故かそんなふうに思った。
「ん…」
 サンジが寝返りを打って、ゾロの肩に唇が触れた。ゾロは反対側の腕を頭の下に入れて、サンジの方に顔を向ける。長い睫がぴくりと動き、サンジはまるでゆっくりと開く夕顔のように目を覚ました。
「……」
「起きたか」
「ああ…うーーー」
「飲み過ぎだ」
 床に転がっているビールの空き缶やボトルの様子をざっと見て、昼間から一体どれほど飲んだのかとゾロは我が事ながら呆れる思いだ。
「なんで裸?」
「知るかよ」
 残照が淡く映し出す室内はなんだかガラス越しの世界のようで現実感が乏しい。ブウン、と、少し型の古いエアコンの動きだす音がした。
「…ああ、思い出した。お前が先に脱いだんだ」
「暑かったからだ」
「うん、暑かった。あんな暑い昼間からばかばか飲んでりゃあそりゃ体温も上がる」
 サンジが喋ると肩に触れた唇が動き、肌を少し湿らせた。その感触がゾロは気になってしかたがない。
「馬鹿が泣くからだ」
 サンジが抗議するように右手をまわしてゾロの脇腹を小突き、鼻から大きく息を吸って吐きだした。それが皮膚をかすめ、音は耳に篭って聞こえ、ゾロは重い溜息をつく。
「だるい。動きたくねえ。暑い」
「寝てれば。ていうか離れろ」
「ゾロ…」
 サンジは離れるつもりなどなく猫撫で声で名を呼び、ことさらにゾロの肩に唇を押し付けてきた。ゾロは曖昧に相槌を打ちながら天井を睨みあげて顎を上げ、首を支えにして軽く体を伸ばした。動く気になれないのはゾロの方も同じだ。
 サンジはそのゾロの肢体に目を奪われ、これで無意識なんだから手に負えないと心の中で毒づく。唇が触れている肩をちらりと舐め、再び右手で今度は脇腹を嬲る様に触れた。ゾロは案の定反射的にその腕を掴み、やんわりと触れたその手の感触に耐えかねた様についに体を起こした。
 サンジが不満そうにうめくのには構わず、ゾロは掴んだ手を反対に放った。サンジがひき止める様にもう一度腕を掴んだが、ゾロを阻むほどの力は無い。無言でそんな掴み合いを繰り返すうちにお互い口元に笑みが浮かび、ゾロは起こした体をまたベッドに沈め、二人はくくくと笑いあった。
「腹減ったよ」
 笑い声でゾロが言った。サンジは右手をさらに伸ばしてゾロの体にまきつけて、きれいに浮き出た腹筋をなぞりながら低く囁く。
「お前、そう言えばなんか出てくると思ってるだろう?」
「違うのか?」
 吐く息がかかって首筋が熱く、ゾロは声を上擦らせた。
「……俺も情けねえよなあ…」
 サンジはしおれた声で呟き、だるそうに体を起こした。男二人の動きに抗議するようにベッドが軋んで音を立てた。
 冷蔵庫の中身を確認してサンジがキッチンに立つのを見届けて、ゾロは散らかった空き缶などを拾い、袋に放りこんだ。二人でよくもこんなに空けたものだと感心するほどだ。大量のアルコールは体の芯に残り、まだ当分抜けそうにない。

 キッチンから包丁がまな板を叩く小気味よい音が聞こえてくる。
「ゾロ」
「ん?」
「好きだよ」
「………」
 ゾロは心臓が止まるかと思うほどの痛みを感じて、思わず胸を押さえた。ゆっくりと呼吸をして、自分さえ誤魔化すように驚きは隠した。
「…口にしちまえばあっけないもんだな」
 無言でいるゾロに、サンジは話しかけるでもなく呟いた。声には抑揚が無く、ゾロは一体どういう神経なのかと疑う。きっとその顔は笑っているのだ。
「なあ」
「そんなこと言うな」
 自分の口から出た声があまりに弱々しく、ゾロは頭を抱えた。情けなさの極みだ。
「…言うなよ、何を変えようってんだ。俺にどうしろって言うんだよ」
「別に、なんにも」
 そのままサンジは黙って、開け放った引き戸越しに聞こえる食事の支度をする音だけが耳に届いた。ゾロはなぜか取り残されたような気持ちになり、その痛みに途方にくれた様に唇を噛んだ。


 冷麦に葱と生姜、それから揚げ茄子と枝豆。つるりとした白い麺を終始無言で、二人で貪る様に最後の一本まで食い尽くした。
 食べてしまうと沈黙だけが部屋の中を横行した。後片付けをすませたサンジがまたビールを出してきて、二人は再び無言で飲み始めた。沈殿した静寂にゾロは息苦しさを感じる。ぬるみ淀んだ水底の、自ら動くことの出来ない泥みたいな気分だと思った。重苦しく、新鮮さなどかけらも無く、何ひとつ生み出すことの出来ない腐った泥。心臓はこんなにも強く脈打っているというのに。
「好きってなんだ」
 蒸し返すのには多少なりと勇気がいった。無かったことにされるのではあまりにも居たたまれない。サンジが、うっすらと微笑んだのがわかってゾロは顔から火がでそうな思いだ。
「知りたいか?」
 声は低く押さえられて、喉に絡んで囁くようだった。サンジはビールを飲み干して缶を置き、向かい側のゾロの座っているソファの背もたれに手をかけて正面から見下ろした。
「そういうわけじゃねえ、ただ」
「ただ?」
 照明がサンジの体で隠れて、黒い陰がゾロの視界を阻む。ゾロはサンジの肩に手をかけて俯き、視線を外した。
 サンジは追うようにゆっくりと腰をかがめて俯いたゾロの唇を下方から舐めあげる。
「お前、ずるいよ。ただ、何?」
 ゾロは答えず、目を絞り顔を仰け反らせた。サンジはその露わになった顎に歯を立て、舌で舐る。そのまま唇に触れ、細く差し入れる。そして一度離れて、頬から耳元へと唇を這わせていく。
「ただ、てめえと、一緒にいるってのは、こういうことかと思った、だけだ」
 目を瞑り、眉根を寄せながら切れ切れにそう言ったゾロに、サンジは急激に体内の血の温度が上がったかのように目を眩ませた。もう止まれない、と思った。ゾロがそれでいいと言うのなら、サンジは。
「俺は…俺はもうずっと」
 息を荒げて、サンジはむしゃぶりつく様にゾロに覆い被さりその体を掻き抱く。
「ずっとお前を抱きたくて、抱きたくて」
 首筋に舌を這わせながらジーンズの上から中心を握りこむと、ゾロがはっとして息を呑んだ。瞑った目元が震えていた。サンジは両手でゾロの顔を包み込んで深く口づけ、舌を吸い上げる。
 ゾロは口腔をサンジに犯されながらどうしようもなく自分自身が覚束無く感じてゆっくりと目を開けて視線を漂わせ、そしてサンジを見た。サンジもゾロを見ていた。薄く開いた瞼の奥の瞳はうっとりと優しく、その深さにゾロの心は乱れた。それ以上見ていられず、再び目を閉じてこんなことを許すのはお前だけだ、お前だからだ、と頭の奥で叫んだ。
 ゾロの腕がサンジの背中に回り、首の付け根を捉えた。もっと深く、とゾロがサンジを引き込む。くぐもった喘ぎは互いの中に溶け、荒く継がれた呼吸が纏わりついて周囲に撒き散らされた雑音をひとつひとつ掻き消していった。
 熱に浮かされたようにただひたすらに求め応えた。けれど、胸の中に渦巻く嵐の行方は杳として知れないままだ。熱風の中に翻弄される小船はやがては岸辺に辿り着くことが出来るのだろうかと、その不安を抱えながら二人はお互いにしがみつきあった。暗闇の中で確かなものはあまりにも少なかった。
「泣くな」
 サンジが言って、ゾロの目を唇でぬぐい、揺さぶりを早めた。
「泣くなよ。泣くな」
 怖くないといったらそれは嘘だ。サンジは指をゾロの柔らかい髪に差し入れ緩やかに滑らせた。思い切り泣けば良いと思った。泣いて、全部見せてしまえばいい。
まだ岸辺は見えない。まだ、まだだ。
 それは果てしなく遠く、遠いことが救いだった。サンジはゾロの目を覆ってしまいたいと思った。見つけてなど欲しくは無い。翻弄しつづけなければいけない。気が遠くなりそうだった。
「サンジ……ッ」
 ゾロが小さく叫んで息を詰めた。同時に、サンジはゾロの中で果てた。
 もう何も見なくてもいいと思えるほどにお互いのなにもかもがひとつで、その幸福感にサンジは酔った。
 まだ宵の口だった。空には月が白々しく浮かんでいた。もがく腕を伸ばせば振り払われることだろうと思いながら、そんな救いなど求めはしないと、サンジは伸ばした腕でカーテンを引いた。




 小船の中でふたりきりだ。
アパートシリーズ8(2001/7/14)
2001.9.23発行(文庫版/2003.5.3)
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