チェリー

 唇の上から甘い水が滴り、顎を滑り落ちながら濡らした。ゾロはそれを指で拭う。べとべとする。
 強い日差しに夏の匂いを嗅いだ。キッチン裏で海を眺めているうちにいつのまにか眠ってしまっていた。
 照り返しに瞼をぎこちなく持ち上げて見上げた頭上に広がる、抜けるような青空。サンジの金髪がそこにちらちらと漂って映りこんでいた。風に踊る波の真ん中をざあざあとかきわけて、船は相変わらず楽しげに進んでいる。
「甘ぇ」
 濡れたところをぺろんと舐めて思ったとおりのことを口に出すと、隣でサンジが声を立てずに笑う気配がした。そして、唇に触れさせた赤い実をゾロの口に押し込んだ。
 

 砂糖で煮て瓶詰めにするといって、少し前に立ち寄った島で、サンジは通りがかった農家の畑からダークチェリーを買った。バケツに五杯もあったから、かなりの量だ。それの種取りをさんざん手伝わされたのを思い出した。
 サンジが十字に包丁を入れ、それを受けとって、小さな器具ではさんで抜き取るのだ。細かい仕事は慣れないせいもあって、最初のうちは随分時間がかかった。途中でチョッパーやウソップも加わって、なんやかやと言いあっているうちに終わってしまったので、それほど苦痛ということも無かったけれど。
 サンジはその輪の真ん中にいて、ときどき話に加わりながらも、ずっと静かな様子で包丁を握っていた。煙草をくわえたまま、口許はうっすらと微笑んでいた。
「瓶に詰め終わって、これは余っちまった分」
 器に盛られた実は日に照らされてきらきらと反射をまきちらす。受け取ると、ガラスの底はひやりとして冷たい。
 メインデッキの方から、賑やかな声に混ざって、かちかちと金属が器に触れる音が聞こえてくる。パラソルの下にいるナミとロビン、車座になって甘いチェリーを食べる男連中の姿が浮かんだ。
 ジャムも作ったし、濃縮シロップは水で薄めたりソーダで割ったり、当分楽しめるぜ。サンジは捲り上げた袖を下ろしながらそう続けて、煙草を銜えた。
 ゾロはチェリーをひとつ、口に入れた。果汁の甘さが溶けて口の中に広がる。
「お前のは」
「キッチンでつまんだ」
「ふうん」
 日差しに熱をはらんだ頬を、風がいたわるように撫ぜていく。ゾロは器を持ったままキッチンの外壁にもたれて、大きく伸びをした。
「あー、夏みてえな太陽」
 サンジはジャケットを脱いで肩に担ぐようにして指先に引っ掛ける。煙草の煙が風に乗って流れていく。その背景に広がる青空は確かに見覚えのある夏の色をしていた。日差しに感じた夏の匂いは幻の感覚ではなかった。そうだな、と答えるとサンジは振り返って笑い、また前を向いた。
「でもまあ、チェリーの時期だしよ」
 遠くを眺めながらぼそっと呟いたサンジの顔を横目で見ると、煙草を銜えた口許がわずかに微笑んでいて、その顔は、種取りのために包丁を握っていた、あの時の顔の記憶と一致する。
「好物か」
「ん?」
「これが」
 もぐもぐと口を動かしながら問うゾロに、サンジは困ったような顔で笑いかける。
「おめえは?」
「べつに」
 はは、と気の抜けた笑い声を返し、サンジはゾロの隣に腰を下した。日差しがさえぎられ、ゾロの顔に影がかかる。
「これは俺の仕事だったんだ。これくらいの頃」
 これくらい、と、サンジはてのひらを水平にして、頭のもう少し上の高さに掲げた。
 夏、日差しが強くなってきた頃に、ゼフが大量にチェリーを仕入れてくる。バケツいっぱいのチェリーは、バラティエの倉庫兼作業場に大量に運び込まれた。種取器はあったけれど、ひとりでそれを全部剥くのは骨の折れる仕事だった。
「朝からはじめても、忙しい時間は厨房の手伝いに入ったりすっから、全然終わらなくてよ」
 黙って海を見る口許はかすかに震えていた。ゾロは少し驚きながら、残っていた最後のチェリーを口に運ぶ。
「仕事終えて寝る前にさ、また倉庫に戻って種抜いてたら、じじいが、来て」
 いったん切ると煙草をくわえ、吸い込んだ煙を一息に吐き出し、サンジは肺の中を空っぽにする。そして、膝の間に顔を埋めるようにして、小さく言った。
「仕事の遅ぇ野郎だとかこれだからチビナスはとか、ぶつぶつ言いながら、包丁入れだすんだよ。いっこいっこ、あのでっけえ手で、ちっこいチェリーにさ。はは」
 ゾロはバケツで溢れ返った倉庫の中に小さな椅子を据えて、ちょこんと腰掛けて作業する幼いサンジを想像した。そして、その傍らに座って包丁を握る、ゼフの大きな背中を。想像はしたが、何も言わなかった。サンジはただ思い出したことを口に出してみたくなっただけだ。
 ゾロにも、そういった幼い頃の思い出はあった。あったが、口に出して誰かに聞かせたいと思ったことはあまりなかった。第一、思い出すこと自体少ない。だが、サンジのように季節とつながった仕事をしてすごせば、その季節ごとに、小さな思い出は数え切れないほどあることだろう。そしてそれを思い出すことも、口に出さないまでも頻繁にあるのだろう。季節ごとに、それらはきっと、簡単によみがえってくる。
 夏と思っていたものが冬になったり春になったりするグランドラインでは、今度いつ食べ頃のチェリーに出会えるかはまったくわからない。サンジが再びそのゼフの姿を思い出す日がくるのかどうかも。
 隣で俯く黄色い頭。ぱらぱらと風に舞う髪。
 船の速度は一定を保ち、顔にかかる風量はかわらず心地よい。
 しばらくしてサンジは顔を上げ、何も言わないゾロを見た。聞いていたのかいなかったのか、食べ終わった器を足元において、腕を組んで首を俯け、目を閉じている。もう夢の中だろうか。くすりと笑いが漏れた。
「こうやってるとほんとガキみてえ」
 サンジは子供の頃のゾロを想像しながら、その頭をくるりとひと撫ぜした。すると、そんな風にゼフにくるりとやられた感触が胸によみがえって、なんだか切なくなった。
「…元気でやってっかな」
「当然だろ」
 寝ていると思ったゾロの口からそんな言葉が漏れて、サンジは思わず手をひいた。
「てめ…」
 真っ赤になったサンジの顔を見て、破顔一笑、日差しの下できらめくゾロの顔を、サンジは自棄になったように強引に引き寄せた。ゾロは腕を支えてそれをはずそうと一度もがく。それから手を伸ばしてサンジの頭をくいと引き返し、二人で顔を寄せて笑いあった。

 次にチェリーに出会ったら、多分、この笑顔を思い出す。
(2004.4.4)
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