分岐

 どんないい女もダメな男といるとダメになる。
 と言ったのは誰だったか、考えてみたが思い出せなかった。サンジの胸は悲しみに濡れ、息を吸うと気道から肺が冷たく痛んだ。
「痛い」
 声に出すと、ウソップはサンジを斜めに見上げて、しっしと追い払うように手首を振った。
「お前向きじゃねえ」
「向いてるとか向いてないじゃねえんだよ」
 煙草をひとくち吸い、煙を吐き出す。ゆるりと風にのって紫煙が流れるのを目で追った。窓が開いている。ちょうど人ひとりがギリギリ抜け出せる程度の幅だ。
「つかまったかな」
「どうだかな」
 相手の男をどうにかしろ、とまでは依頼されていない。
簡易キッチンにパイプベッド、小さな椅子が二組とテーブルがあるだけという、物の少ない、ガランとした部屋だった。女はかろうじて下着をつけただけのねじくれた体を無残にさらして転がっていて、胸元から滴る黒々とした血が唯一の華やぎのように室内を彩っている。ウソップは傍らにしゃがみこみ、両手をあわせて拝むような真似をする。
「趣味悪ィな」
「形ばかりでもな」
「男はどうすんだ」
「ロビンが追ってる。あとで連絡あんだろ」
「俺にやらせろ。死ぬほど後悔させてやる」
 カタン、と部屋の奥で物音がした。サンジとウソップは同時に振り返って顔を見合わせた。サンジは口許に人差し指を立ててもう一度視線だけを動かす。ウソップが頷くと体を翻し、足音を忍ばせてところどころへこみのあるアルミのドアへそっと近づき、耳を押し当てた。なにも聞こえない。
 サンジは顎を上げてふうっと煙を吐き出すと、脚を振り上げ、がん、とドアを蹴りあけた。水の腐った匂いが鼻をついて、たまらず顔を顰めた。浴室だ。中に入り、閉められたままのシャワーカーテンを思い切り引き開け、息を呑んだ。
狭いバスタブの中には男が一人、縛られて脚を折りたたんだかっこうで転がっていた。
「……な」
サンジは男に視線を固定させたまま、手探りで浴室の照明スイッチを入れた。そして、薄暗い豆電球の下に照らされた男の髪色を見た。
「………、…ゾロ?」
 男はわずかに反応し、目を開けようとした。目脂ではりついた瞼がぱりぱりと音をたてるかのように震える。
 後ろ手にされ、足首に巻かれたロープと繋がれている。傷だらだけだ。結び目はかたく、サンジは早々に解くのを諦め、肩に担ぎ上げた。
「いってえどういうことだ……なんでお前がここにいる」
 最近見ないと思ったら。
「おめえ、こそ」
見かけなくなって一週間はたっている。いったいそのうち何日ここに放置されていたのか。水気のない乾いた舌をもぞもぞと動かし、ひび割れた声で言う。
「喋るな」
 ウソップが立ち上がり、訝しげな顔でサンジを見ている。
「知り合いか?」
「ちょっとな」
「ひでえな」
「チョッパーんとこ運ぶ。こっち任せていいか」
「いいぜ。じきナミとフランキーが来る。女運び出せば終わりだ。そいつ、死ぬ前に連れてってやれ」
 生きていようが死体だろうが、女を探し出しさえすればいいという仕事だった。
「そうだな」
 そして肩の上の男はといえば、死ぬことはないだろうが、今にも死にそうではある。


 三日のあいだ、少しの食事と薬をのむときと、時々用を足す以外、ゾロは眠り続けた。
トイレのときには、サンジの肩にすがって歩く。まだ手がよく動かないうえ指先に力が入らない、下穿きを脱がせるところまでサンジの手が必要だった。何度かもの言いたげな視線をむけられたが、結局はゾロもサンジも、自分から何か話そうとはしなかった。
 チョッパーが薬を持ってようすを見に来た。熱はまだ下がりきっていないが、ゆっくり回復してきているらしい。
「サンジ仕事は?店は閉めてるのか?」
「夜だけあけてる」
「そうか。みんなお前と連絡取れねえっていってたぞ。店に押しかけてくるぞ」
 電話には出ないようにしていたし、サンジから連絡を取った相手はチョッパーだけだ。
「こいつが目をあけたらナミさんには連絡するよ」
「こいつ、誰なんだ?」
「ゾロだよ」
「どういうやつなんだ」
「それはオレにもよくわからねえ」
 チョッパーは心配そうに青い鼻を鳴らし、とにかくあたためてこまめに着替えさせろと言いおいて出て行った。
 ゾロはアパートの隣の住人だ。カフェバーを営むサンジとは活動時間帯が似ていて、ちょことちょこと顔をあわせるうちに口をきくようになった。店を教えると顔を出すようになり、閉店までだらだらと飲み続けるようになるのに、それほど時間はかからなかった。夕食がてら来ていると知ってからは、適当に腹にためるものを用意しておいてやるようにすらなっていた。
 なにをしている男かは知らなかった。ゾロだって、サンジをただのバーの男だと思っていたはずだ。間違いではない。サンジは自分を料理人以外のものであると思ったことがないからだ。仲間内でやる仕事についてはあくまで協力者というスタンスで、サンジが表に立って動くことはない。ゾロのことを知らなかったのは、だからなのかもしれない。
 チョッパーの持ってきた薬を持ってベッドルームにむかう。サンジのベッドに横たわるゾロの寝息は、初日に比べれば幾分おだやかだ。顔色もわずかながら戻ってきている気がする。
 ベッド脇に腰をおろし、ひたひたと頬を叩いてみた。
「起きろ。薬だ」
 薄目を開いて、うう、と唸る。どこに力を入れても体が痛むらしい。 
 背中を支えて体を起こさせる。とろとろのオートミールをスプーンで差し出すと、明らかにこれじゃない、という顔をする。それでも食べなければならないことはわかっているらしく、ひとくちふたくちと飲み込んだ。
 舌に薬をのせてやり、コップを口許まで運んで水を含ませる。ゾロは微かに上向いてこくりと喉を上下させ、それからじろりとサンジを睨む。
「わかってんのかよ。オレがいなかったらおめえ、死んでたんだぜ」
「……しにゃあ、しねえ」
 がらがらに掠れた声で、強がりを言う。
 視線が絡む。その中に強く問いかける疑問があるのを感じる。
 なぜあそこにいた。お前は何者だ。おそらくサンジの目の中にも存在するであろう、その問いかけ。
なのに声には出さない。おたがい。
言えば変わってしまう。きっと何か、いままでと違う関係に。それがわかっているからサンジは問えなかった。惜しんだものはただひとつ、特別親しいというわけでもない隣人との距離だけだ。
「死なねえなら、よかった」
 そう言うと、ゾロは微かに目をみはった。だが体を起こしているのはつらいらしく、ぐったりとサンジの腕に体重を預けてベッドに倒れこんだ。
「しなねえ」
「死にそうになったことは?」
「かぞえきれねえ、な」
「そうか」
 ゾロの頭の下で腕を枕に押し付けられながら、サンジはゆるりと背をたわませた。ゾロは一瞬目を開けてサンジの目の中を覗き、鼻から息を吐きながら閉じた。何かをあきらめるような仕草だった。
今ゾロの命を握っているのが自分なのだということを、サンジは強く感じた。真っ暗な広い海の只中に小さな波にも揺れる筏を浮かべ、溺れずに生きて戻るすべについて考えるとき、手近なものをつかみ合うのは自然なことだ。ゾロはおそらくこの手を離すまい。動けるようになるまでは。
 胸に熱いものがじわりと広がった。それは、目の前の命に対する何がしかの欲だった。眩暈を堪えるようにぎゅっと目を閉じ、サンジは折りたたんだ背をそのままゆっくり前にたおしてゾロの頭を抱え、大きく息を吐きながら虚脱した。
「寝ちまいな」
「ど、け」
「かわいそうにな」
 呼吸がすこし弾み始めている。体のいずれかの部分がサンジの重みで痛むのだろう。
「どうにでも、しろ」
「……よくわかってんじゃねえか」
「よく、あることだから、……な」
「そいつは聞き捨てならねえな」
 無関心をよそおうもの言いに腹の底がカっと熱くなった。
「眠い」
「寝ろっつってんだろ」
「起きたあと……、どうなってっか、わからねえ」
「あんだけ寝といてかよ」
「おめえの、気配なら、わかる」
 その言葉に息を呑む。同時に、ずくりと重い衝動が腰の辺りから背筋をはいのぼった。この衝動は怒りによるものなのか、それ以外のものか。この際はどちらでもよかった。それを決めるのは自分なのだとサンジは瞬時に理解していた。
 ゾロは目を開いたまま、静かに表情を消した。
サンジは覆いかぶさったままの姿勢でわずかに距離を保ち、額や頬やこめかみに深く残る傷跡をひとつずつ撫でた。
「なんであそこにいた?」
「……、さあな」
 惜しんだ距離は、これだろうか。
 知ることによって失う距離が、これなのだろうか。
 右手で顎を掴んでおさえ、視線を合わせた。ゾロの気配は穏やかなままだ。距離を変える必要があるとして、それがなぜ、こういうことになるのか。
 いいのか?と頭の中で声がした。ゾロにか。それとも自分に問うものなのか、サンジにはわからなかった。いいのか。サンジは答えに迷ったまま、吸い寄せられるようにその唇にくちづけた。熱い口の中をさぐると丸まった舌が押し返した。包むようにして絡ませる。ゾロはこくりと喉を動かして流れ込んだ唾液を飲み込み、鼻から息を吐いた。
「ん」
 合間に微かに響く水音に脳みそを痺れさせながら、はたしてこれは自分が望んだことなのだろうかと考える。考えながらも、体の奥からわきあがったどろりとしたものが、隅々まで広がっていくのを感じる。角度を変えてくちづけながら腰骨に指を這わせると、ゾロは肩をピクリと跳ねさせた。
「よくあることなんだろ」
「……ああ、」
 呼吸の合間にこたえるゾロの薄い耳介をなぞりながら、深夜のカウンターでうつむいたその顔を思い出す。首の角度や、少し上げた目線。それからこの耳だ。
自らの劣情を煽ってやまないそれらにサンジは存分に触れた。そうするうちに姿をみなかったこの数日の焦燥までもが身のうちによみがえってきて、目の前に横たわる力ない姿に憎しみすら覚えるありさまだった。
「クッソ……、おめえいつかほんとに死ぬぞ、バカヤロウ」
「じゃあ、おめえが」
 ゾロは顎を上げて仰け反りながら新鮮な空気を求めて口をあける。そして歯を食いしばって震えながら動かない腕をわずかに上げ、サンジの首に巻きつけ、ひきよせた。耳に熱い息がかかる。
「ゾ」
「おめえが、死なねえように、しろ」
 おれを、と続いた言葉は吐息に消え、ゾロは意識を再び手放していた。
 サンジは呆然としながら、踏み込んだことによって垣間見たゾロの持つ闇の深さに指先が冷たくなっていくのを感じていた。
 失ったものを懐かしむことすら、もはや遠かった。
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