あとになってきづくこと

 いらっしゃいませ、といつもどおり発した声は、最後のほうが少しかすれてしまっていた。そのことに男が気付いているはずはないものの、サンジは、不自然に心臓がざわめいているのが顔に出てしまってはいないかとの焦りから、ひときわ大きく笑みを作った。
 男の視線が僅かに向けられ、そっと細められた。常連らしい自然な目配せだった。サンジは不自然に大きく笑ったまま、軽く顎を引いただけの頷きを返した。
 ウエイターの案内で男は奥のテーブル席に向かった。テーブル席は四つある。手前の二つは埋まっていたが、男はひとつ置いて、壁際の一番奥まった席を選んだ。つれの人が座るのを待ち、男は向かい側に腰を下ろした。サンジの位置からは男の背中が見える。
いつも一人でやってきてカウンター席に着き、軽いつまみと酒で腹を満たしていく男が、初めて連れてきた連れであるその相手は、女性だった。とびきり目を引く容貌というわけでもなく、派手さはないが、落ち着いた雰囲気の笑顔は悪くない。三十才を少しこえたあたりだろうか。それなら、男との釣り合いを考えても丁度いい年頃だろう。
……結婚。
 するのかなあ、とぼんやり思う。なにしろ今日は金曜日ときている。磨いていた手元のグラスから、きゅきゅ、と興ざめするほど清々しい音がした。
 ゆるやかな音楽の流れる店内をまるで泳ぐように滑らかに動くウエイター、手招く、普段より少し着飾った客、目の前に繰り広げられるいつもと変わらぬ光景をひとつひとつ確かめるように見つめ、サンジは手元のグラスを置くと、溜息をひとつ吐いた。そして、その溜息の出所について、僅かに思案にくれた。
 男の名はゾロという。週に二度、多ければ三度店を訪れるのを見かけるようになって、半年ほどになる客だ。やってくるのはいつも平日の夜で、九時から十時という早くも遅くもない時間帯だった。駅から家までの帰り道にあるから、気が向けば寄るといった感じのようだ。家は近くにあるらしいが、土日に訪れた事は一度もない。
 土日は彼女が作ってくれるのと気まぐれに一度たずねて、まさか、と苦笑いされた事がある。
 反応が面白くてその理由を聞いてみたら、自分のところに来てくれる女などいないという、男の様子からは想像しがたいほどネガティブな発言にあい、サンジはとても驚いたのだった。驚きすぎて、女性ならば千の言葉を尽くして誉めそやす事も厭わないサンジが、よりによって男の見てくれや性格を褒め称えるという、かつて覚えのない行動に出てしまったほどだ。彼は苦笑して礼を言ったが、はっきりと面食らい戸惑っていた。何故そんな事を言ってしまったのかと自分でも思うが、同い年の男のやる気の無い発言にむかついた、というあたりが、理由としては多分正しい。
 お前はなんで、とは聞かれなかった。だが、同世代でひとり身の男がまわりに少ないからこういう話は中々出来ない、と俯きかげんではにかむように笑ったその顔がひどく印象に残っていて、その時の事はその後幾度も思い返した。その意見にはサンジも同感だったし、カウンター越しに男とぽつぽつ交わす会話は楽しかった。電話もメールも知らないままだけれど、友人だと思っていた。それも、自分よりはやや寂しい境遇にあるらしい、同情すべき同年輩。
 ようするに、サンジは高を括っていたのだ。
(いるんじゃねえか、ちゃんと。相手)
 サンジ自身、彼女と呼べるような女はいないが、それに類する付き合いのある女性はいる。それも複数。たとえば昨日は店の定休日だったから、年下のガールフレンドに連絡をして一緒に食事をした。あわよくばの期待は裏切られたけれど、その前の週はナンパがうまくいっていたし、週末の夜は友人たちと楽しくやったりもした。
 なんとなくだったが、あの男はそういう付き合いも薄そうだという感触をサンジは持っている。親しい友人は何人かいるだろうが、土日に店にやってこないのはほとんど寝たおして近所のコンビニで弁当を買って食べているからなのだと勝手に決め付けてもいる。それだけに、女性を伴って食事をするという行為には何か正当な理由があっての事だと確信出来た。浮ついた関係なんかではなく、きっと将来ををしっかりと見据えた建設的なおつきあいなのだ。
 顔がなんとなく憮然としてしまうのは否めない。先を越されたという悔しい感情も少しはあるが、自分と似た状況のその客に抱いていた親近感が幻だった事を突きつけられたようで、なんとなく面白くない。
 ゾロのその背中の向こう側に女性の穏やかな笑顔がかすかに見え、また、ため息が出た。



 翌週は一度も顔を見せなかった。そのさらに翌週になって、何事もなかったような顔をして、ゾロは店を訪れた。もう来ないのかな、と半ば諦めの心境にあったサンジは少し驚き、あれ、と思わず声を出した。それを聞きつけたのか、ゾロは口許を僅かにゆるめてカウンター席に近づき、サンジの立つ位置から斜め前あたりに腰を下ろした。すわり心地を確認するように体を揺すり、落ち着くと、サンジに視線を送ってくる。サンジは、親しげに笑って見せた。
「……いらっしゃい。久しぶり」
「おう」
「なんにする?」
「ビールと、あと適当に…なにか」
「魚は?適当でいいなら真鯛なんかどう?いいの入ってる」
 勧めると、ゾロはそれでいいと言って俯き、テーブルに両肘をついて額の前で手を組み合わせた。
 マリネとサラダをそれぞれ小さな器に盛り、ビールを注いで差し出す。その間にも、ちらちらと様子を伺った。ゾロは大きく息を吐き出して顔を上げると、首をぐっとそらして天井を睨むような顔つきになった。
「どうした?なんか疲れてるか?」
 サンジがやや戸惑いつつそう言うと、ゾロはいつもの開けっぴろげな、それでいて無感動なまなざしでサンジを一直線に見、そうか、そう見えるか、とつぶやいた。その口元が微かにほころんでいるのに気付き、サンジはなんとなく落ち着かない気分になったが、もちろん表情には何一つ出さなかった。長年培ったプロ根性の賜物だ。そうして、あえて苦く笑って見せた。
「なに笑ってんだよ。人がせっかく心配してやってんのに」
「はは、そうだな。悪い。いや……べつになにもねえんだが…」
 ゾロはそう言ってジョッキをぐいと持ち上げ、一杯目を勢いよく飲み干した。そしてマリネのズッキーニを手持ち無沙汰な様子でつつく姿を見ながら、サンジはこっそりと小さく息をつき、思い切って口を開いた。
「こないだの……あの彼女は今日はいないのか?先週は一度も店に来なかったから、うまくやりやがってと思ってたんだけど」
 話したくないわけではないはずだ。きっかけがつかめないなら水を向けてやるべきだ。サンジは職業柄、視線を読んだり相手の求めを想像する 事には長けているつもりだったし、そういう立場にある人間だという自覚もあった。口が滑らかになるようにと、二杯目のビールをついでやる。ジョッキを受け取りながら、ゾロは、おめえは、と口を開いた。
「俺?」
「ああ。ひとり身だっつってたけど、まったくいないわけじゃあねえんだろ?」
「そりゃ、ガールフレンドならいるけど……でも特定のひとはいないんだ。そっちはなんだよ。この間のひとはそういうんじゃないんだろ?」
 ゾロは、ああ、と生真面目に頷き、 「ありゃあ見合いだ」
と言った。
「へえ?!」
 サンジが思わず素っ頓狂な声をあげると、ゾロはふい、と横を向いた。頬が僅かに赤らんで見える。
「その帰りだった。上司にねじ込まれて断れなくてな。食事だけの予定が、もう少しと言われて。俺はあまり店を知らないし、ここならいいかと思って」
「そうだったんだ……」
 ゾロは頷き、家の近所にある気に入ってる店だとつれてきたら、彼女のほうはすっかりその気になってしまって、話を断るのに苦労した、とひょうひょうと言った。
「いい人そうに見えたけど」
「まあ、…だったんじゃねえかな」
「だったって……とりあえずつきあってみればいいんじゃないの?」
「先週はつきあった。何度か。だから来られなかったんだが」
「あー、そっかそっか……大変だったろ」
「まあな」
 ゾロはそう言いながらがっくりと肩を落とし、大きく溜息を吐いた。そうか、断ったのか。心の中で確認するように呟いた。途端に胸が軽くなったような気がした。そんなに先を越されるのが嫌だったんだろうかと、やや情けない気持ちがこみ上げた。
「結婚、ねえ……」
「べつにしたくねえわけじゃないんだが」
「そうか」
「おめえは?」
 ゾロがまた、聞いてきた。
「なんで結婚してねえ。お前なら機会はいくらでもあっただろ?」
 女好きでならしてんだろ。ゾロはビールを勢いよくあおりながら言う。
「あー。まあ、なー……」
 苦笑しながら言葉を探していると、ゾロは目だけで相槌を打つような顔をして、それでその話は終わり、というふうにさっぱりと眉を上げ、片頬で笑ってみせた。
「まあこの年まで何もないとは言わないけど」
「俺はたいしてなにもねえけどな」
「またまた……」
「寂しいもんだぜ」
 俯くゾロの顔を見て、サンジは、そんな事はないだろうと思った。面倒ごとが片付いてすっきりした、というのがありありとわかる顔をしていた。なので、言った。
「嘘ばっか」
「あ?」
「まあ、俺も似たようなもんだけどね」
「……ふうん」
「じゃねえだろ。俺がひとりに決めちまうと悲しむレディが大勢いんだよ」
「どっちだよ」
 苦笑しながら、どっちでもいいけどなと言う。じろりと薄目で見下ろすと、ゾロはまったく意に介さない様子で真鯛のグリルにナイフを入れていた。サンジははあ、と息を吐いた。
「箸、やろうか」
「ああくれ」
 手渡すときに、人差し指同士が微かに触れた。サンジは、つきん、と肩の辺りに痛みが走るような感覚を覚え、息を止めた。動きも、同時に止まった。ゾロは俯いたままだった。
サンジさんちょっと、と厨房から声がかかった。肩越しに振り返り、おう、と答えると、サンキュ、とゾロが小さく呟くのが聞こえた。
「……ゆっくりしてって」
「おう」
「あー、あとな」
 ゾロが真鯛から目を離す。
「まあ結婚とか、しばらくやめといたら?」
 言うと、ゾロは目を丸くしてサンジを見た。
「なんか寂しい気がすっから」
 ゾロは言葉の意味を判じかねてか、困惑した顔つきで、「なんでてめえに」と言いかけ、口をつぐんだ。そして、さらにふさわしい返事を思いつけないのだろう事にわかりやすく首をひねり、それを目の端にみとめたサンジはアッハッハとわざとらしく声をあげて笑った。料理長!と、厨房の奥から咎めるような声が響いた。
 
 
 その晩、サンジはゾロの番号とアドレスを手に入れた。
(2008/7/5)
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