目を閉じて

 「雲が見えたわ!」
 空気の微妙な変化に気付き、見張り台に立って四方に目を凝らしていたナミが、身を乗り出し、下に向かって声を張り上げた。
 サンジはキッチンから出、空を振り仰ぐ。青空は僅かに濁っている。肌に感じる風はにわかに強まって、海上の水分を集めながらかけあがっていった。
 この暑さから解放されるのならなんだっていい。
 水を。
 ここしばらく雨のない、気温ばかり高い海域を渡って来たゴーイングメリー号にとって、それは待ち詫びた邂逅だった。
 ルフィが快哉を叫びながら甲板を走り、船首の羊に飛び乗った。ナミが上から「危ないわよ!」と叫ぶ。声は揺れた。上空では風が唸っている。
「嵐か?」
 のんびりした足取りで階段をおりながら、ゾロがナミを見上げて問いかけた。サンジは視線だけそちらに向ける。背後からロビンが近づいて「違うわ」と声をかけた。
「スコールよ。あっという間だから、準備しないとね。船医さんと狙撃手さんには伝えたわ」
 ナミがするすると甲板に下りてきて、慌しく女部屋に向かう。ロビンもそれに続いた。
「私達は中にいるから、お好きに!水の確保も忘れないでね!」
「持ってきたぞ!」
 ナミの声にかぶさるように、チョッパーが男部屋からタオルを大量に抱えて出てきて言った。そのまま階段を駆け上がり、キッチンに飛び込む。それに少し遅れて、ウソップが風呂場から石鹸やシャンプー、それに洗剤なども持ち出してきた。
 サンジはにやりと笑い、煙草を海に放った。
「たしかに、ずっと水がなくて風呂どころじゃなかったからなあ」
 すべてが女性陣優先のこの船では、こんな状況では男達はせいぜい湯をわかして体を拭く程度だ。すでにそれで一週間ほど過ごしていた。この海域に入ってからの日数とほぼ同じだ。
 ぽつりぽつりと、黒いしみが甲板に現れ始めた。風はさらに強く吹きつけてくる。
 ゾロがサンジの隣で腹巻を取り、シャツを脱いだ。
 ルフィはすでに全裸だ。それで船首に立って前を向いている。まったく恥じらいのかけらもない。チョッパーが隣でそれに倣っている。
 空はいよいよ暗くなり始めた。サンジはキッチンに戻って上着と靴を脱ぎ、シャツとズボンだけでドアの外に出る。ややあって、ひたひたとなめるように、甲板を水の束が黒く染めていった。音を立ててうちつける雨に、五人の男たちは気勢を上げた。
 甲板に白い泡がゆらゆらと行ったり来たりしている。ルフィは全身泡まみれだ。それを指差してウソップが腹を抱えて笑っている。サンジもつられて笑いながら、自らもシャツの上から石鹸をこすりつけた。
 ふと気付いて見渡すと、ゾロの姿が消えていた。前方ではしゃぐ三人を横目で見ながら、サンジは後方への階段を上がる。
 体が洗えないことも手伝って、もうずっとゾロとは寝ていない。
 どちらからも、何も言わなかった。このまま忘れた振りをして済まそうと思えば出来てしまいそうなほど、夜をともに過ごさなければ接点は薄い。サンジは故意にそうしていたのだったが、ゾロの方に、寝ない事への特別な意識があるかどうかはわからなかった。これくらいのことは、ゾロにとってはどうということはないのかもしれないと、望んだわけでもないのにわかってしまった。
 日がたつにつれ、お互いの位置付けはますます曖昧で、もともと何か約束が必要な間柄でもなし、一時の熱の恐ろしさには今更ながらに感じ入る。触りたい、と思った気持ちには嘘の介在する余地などないことくらい、とうに自覚はしていたのだけれど。

 みかんの木の下は雨がほんの少し弱まる。ゾロはそこをよけて座り込み、全身に雨を浴びていた。サンジはゆっくり近づき、上からシャンプーを降りかけてやる。ゾロは片目を開けて見上げた。
「ひでえ格好だな、てめえ」
 ゾロはサンジを見て薄く笑いながら、髪に指を通して洗い始めた。サンジはずぶぬれのシャツに溶けかけた泡を纏って、情けなく笑っている。
「おめぇもな」
 右手を伸ばしてその髪に触れると、柔らかく指に絡む。ゾロは軽く頭を振って、その指から逃れた。雨は頭上から打ち据えんばかりに降り注ぎ、まったく容赦がない。姿は水煙の向うに紛れた。
 海上は白くけぶっていた。灰色の薄靄が海面を這うようにして広がりながら浮き上がって雲と重なり、世界はまるで大きく閉じられた檻のようだ。
 サンジはゾロから離れて手摺に腰をおろし、シャツを脱ぐと、それで泡を拭いながら体をこすった。そして叩き付けるように放ると、豪快な雨の旋律の中に、びちゃりと不愉快な音をたてて甲板にはりついた。
 ゾロは頭をぶるりと振って立ち上がり、目を瞑ったまま上向いた。しばらくその立ち姿のまま、雨を浴びて顔や頭についた泡を洗い流した。そうして気のすむまで流してしまうと、俯き、両手を上げて顔から頭部をいちどきに拭い、正面のサンジへと目線を上げた。 
「何見てんだよ」
「いや、色っぺえなあと思って」
「……は」
「シャンプーとってくれよ」
 声でうかがえる表情はにやけた笑い顔だったが、サンジの姿はうっすらと白くぼやけていて、確かめる事は出来なかった。ゾロは視線を凝らす。足下にはわずかに液体の残ったボトルが転がっている。それを拾い上げ、サンジに近づいて投げ渡した。
 目に見えるものはすべてあやふやに隠しておきながら、神経を無理やりに研がせることを怠らないらしい。雨というやつは。
 輪郭を雫が伝い落ちる感触に肌が粟立つ。ゾロは胸中で毒づきながら、額に貼りついて目を覆う金色の髪をそっとはらった。
「さわんなよ」
「なんで」
「触りたくなるだろうが」
「触れば」
 驚いて見上げると、灰色の空と同化したような苦しげなゾロの笑い顔があった。サンジはすとん、と手摺から腰を落とし、甲板に座り込む。嬌声がみかんの木を越えて響いた。空気がざわめく。
「洗って」
 背後の手摺に入れ替わる様に腰をおろすと、ゾロはサンジの髪に手を差し入れた。柔らかく馴染む泡と、絡みつく髪の感触。サンジはその指の動きを陶然と追った。
 雨がだんたんと勢いを弱めていることには二人とも気付いている。やがて風の向こう側から薄い日差しが海上を白く照らしはじめるまで、雨に奪われずに残ったわずかな体温を分け合うだけの、それくらいの時間はまだ、残っているはずだった。
 奪い合うのではなく、補い合うような、そんな触り方もあったのだと今更思い出して、どことなく気恥ずかしく、お互い顔は見られなかった。背中をむけていて良かったとサンジは思い、ゾロは、いったいあとどれくらい洗っていればいいのかと少々途方にくれた。
 ゾロの指はやわらかく動いて、時折小さく音を立てた。その動きは別の何かを思い起こさせ、サンジはそわそわと身を捩る。くすぐったい。
「動くな」
「だってお前…お前がそんな風に俺に触るなんて、なんかムズムズしちまって」
「…阿呆」
 泡は力なく体の表面をすべって透明に溶けた。サンジはその感触にすら、もう我慢が出来ないでいるのに、ゾロは知らん顔だ。あとで覚えてろばかやろう。その声はゾロの耳には届かない。
 雨は降りはじめた時と同じように唐突にあがった。空は瞬く間に晴れ渡り、大気の檻は消えうせ、鮮やかな色彩の世界がそれにとって変わった。視線を転じればまだ濡れたままの甲板と、歓喜の残骸の散らばりばかりが目についた。
 ゾロはしばらく無言で晴れた空を見あげ、それからその場に寝そべって上半身を太陽にさらし、乾かしながら目を閉じた。
 ルフィがサンジを呼んでいる。
 サンジは意味をなさない叫びのような声を返事がわりにひとつ響かせ、身を翻す。そして去りぎわに不意をついてその横たわる胸の間に唇を落とし、ゾロを慌てさせた。濡れた髪が額や頬に貼りついてにぶく光っていた。
 笑うサンジの背中ごしに見えた太陽が、もう一度、と強く瞬いた。
100000HITリクエスト4「サンジの髪を洗うゾロ」
2003/5/23)
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