このてのひらの光
アラバスタ、と、ひとこと口にするたびに胸がぎゅうと痛むせいで、サンジはここのところかなり参っていた。毎日これではとても身がもたない。
眉間を険しくして消え往く航跡を眺め、肺いっぱいに煙を溜め込む。そして脱力し、手摺に突っ伏すようにもたれかかって、一息に吐き出した。煙は足元に白くわだかまり、一瞬で消える。
それはグランドライン随一の大国の名だ。砂と風が戯れながら空に昇って散らばり、夢のようにわたりゆく。その空は荒々しくも優しい寛容を誇り、大地を包み込むように青く、広かった。あの国はもう、この澪のはるか彼方だ。
その名はこの船の中にいる面々それぞれの胸の中に等しく、特別な響きを持っている。おそらくこの先、この海賊団が海を往く限り、ずっとだ。
サンジにとってももちろんそうだった。ビビの住む国であるという事を差し引いても、アラバスタのことは忘れられそうに無い。
ゾロとキスをしたのだ。
人気の無い深夜の回廊で、静かに、憚る様に声を落として二人で話した時のことだ。
戯れのようにかわしたキスには意味など無かったけれど、サンジ自身があのとき欲していた生きているものの熱の記憶として、深く胸に刻みこまれてしまっている。
対してゾロの方はといえば、ごくささいな、例えば出会いがしらの事故程度にしか思っていないようで、まるで何事も無かったかのように、サンジに対する言動もアラバスタ以前とそれほど変わるところはない。
サンジは別段、この胸のつまるような感情のかたちをあきらかにしたいと思っているわけではない。しかし、そう思う心の底の方でゆらゆらと、寂しいと思っちゃいけないのか、などというゾロへの問いが撓んで揺れている。とても直接ぶつける勇気はないまま、無言の問いかけは空しく殻の内側に響くばかりで、為すところ無く船の進むに任せていたら、じりじりとそのまま日ばかりが過ぎた。
ぐい、と手摺に額をすりつけ、反動をつけて顔をあげ、背を思いきり伸ばした。見上げた空はのっぺりと白く、味気なかった。とてもあの、砂の国まで続いているようには感じられない。
仲間が一人減って一人増えた船の暮らしはそれほど大きな変化も無く、面白おかしく平穏に過ぎていくばかりだ。実際にはどれほど胸中に嵐が吹き荒れていようと。
サンジは、そんな日常の中にある自分の姿を、出来るかぎり変えたくはなかった。
ゾロもそうなのだ、きっと。
海に放った吸殻は、矮小な放物線を描いて泡だった海に吸い込まれていった。
今更仲良く笑いあったりすることの不自然さについて考える。そもそも、どうしてあのコックと自分は、単純で素直な会話が成り立ちにくいのだろう。
原因は、コックにある。ゾロはそう思っている。
サンジが船尾の手摺にもたれてじっとしている姿を、ゾロは階段を昇りきる数段手前で足を止めて見ていた。
空気に酔う、ということだってある。自分でさえそうなのだから、サンジのようなどちらかというと酔いやすい質の人間は仕方がないと思う。あんなふうに命を拾ったような戦いのあとで人肌を求める気持ちならば、ゾロにだって、理解は可能なのだ。
けれど、今現在、時に自分に向けられる視線については、苛立つばかりだ。盗み見とも異なる、気付かれたいのか気付かせたくないのか、どちらともとれる、不躾で控えめな視線だ。
俺がそれに気付かないわけがねえだろう、馬鹿が。
そう思っていても、それ以上ゾロにはどうすることも出来ない。自ら動く理由も見出せず、けれど無視を決めこむ事も出来ずに、こうして様子を伺ったりしている。サンジが何を考えているのかわからないからだ。
違う、そうではない。
ゾロは目を伏せる。まぶたの裏に、風に踊るサンジの金の髪がふわふわとゆれている。知りたいと望むわけでもない。
ため息をひとつこぼし、あと一歩を踏み出すための言い訳を探してみたが、うまい言葉が思いつかない。そうこうしているうちに、サンジの方がゾロの視線に気付いてしまった。
「……よう、何?」
声の調子は軽い。それを聞いて首のあたりから力が抜けたのに緊張していたと気づかされて、ゾロはむすりと表情を曇らせる。
「べつに」
ゾロは甲板へと踏み出し、サンジの隣で、そっと手摺を掴んだ。
「あのさあ」
サンジは懐に伸ばしかけた手を止める。ゾロはゆっくりとそちらに視線をむけた。
「試してみたいんだけど」
サンジはふっと息を吐き出し、肩を軽く上下させる。腰で立ついつもの姿勢に落ちつくと、向き直ってゾロを見た。口許にはにやついた笑みを浮かべている。風になびく髪が、見えている方の目までもバラバラと覆う。弱い太陽光がやわらかくその色を浮かび上がらせていた。ゾロは片眉を上げて答える。
サンジの手がのびて、そっとゾロの首すじを撫ぜた。ゾロはぴくりと首をすくめ、その腕を掴む。反対側の手が耳から頬にかかった。
「そのままだ、動くなよ」
「離せ」
ゾロは肩を捻ってサンジから体を背けようとしたが、その前にサンジの腕がゾロの腰を引き寄せていた。目の前が陰る。
「動くな…」
あわさった唇はあのときと同じ熱で、指先は、あのときよりももっと、切実だった。どくん、と胸が大きく鳴って、頭に血が上る。ゾロはサンジの肩を力いっぱい掴んだ。サンジの口づけがいっそう深くなった。
「…ん…っ」
ゾロが仰のくようにして斜めに逃げると、サンジはそのまま頬に唇を滑らせ、耳元にくちづける。
「やめろ、…馬鹿」
「だったらなんで…!」
囁くような叫びに、ゾロは目をぎゅっと瞑った。
「用も無いくせに俺を見て、わざわざ俺の隣に来た理由を言えよ…なんでだよ…」
サンジの腕がゾロの背中を強く抱いて引き寄せた。ゾロはふらふらと片腕をあげ、サンジの首に回す。サンジは軽く笑った。吐息がゾロの肩でふるえた。
こいつの考えていることがわからないだと?ゾロは脳裏で自問する。
わかっていたじゃないか。わかっていて、その懊悩を解く鍵を自分が持っているのを知っていて、てのひらに握りこんだまま未だ見せないでいるくせに、何を。
わけもなく何かを殴りつけたいような衝動が体中を駆け巡る。それは、目の前にいるこの男に向かっていないことだけはたしかだ。
「俺、好きみてえなんだよ…」
情けない声だ。みっともなくつっかえて、喜びと悲しみの間を振り子のように行き来する感情が出させる声だ。
「わけわかんねえ、なんでてめえなんだよ。なんでもっと、ナミさんとか、ロっ、ロビンちゃんとか…!」
顔を伏せたままサンジが背中を掴んで離さないので息が苦しい。掴んで引き剥がせば容易く逃れられることを知りながら、ゾロはそうしなかった。
かわりに、膝を緩め、甲板に体を投げ出した。そうしてゆっくりと、てのひらをサンジの胸に当てた。
眉間を険しくして消え往く航跡を眺め、肺いっぱいに煙を溜め込む。そして脱力し、手摺に突っ伏すようにもたれかかって、一息に吐き出した。煙は足元に白くわだかまり、一瞬で消える。
それはグランドライン随一の大国の名だ。砂と風が戯れながら空に昇って散らばり、夢のようにわたりゆく。その空は荒々しくも優しい寛容を誇り、大地を包み込むように青く、広かった。あの国はもう、この澪のはるか彼方だ。
その名はこの船の中にいる面々それぞれの胸の中に等しく、特別な響きを持っている。おそらくこの先、この海賊団が海を往く限り、ずっとだ。
サンジにとってももちろんそうだった。ビビの住む国であるという事を差し引いても、アラバスタのことは忘れられそうに無い。
ゾロとキスをしたのだ。
人気の無い深夜の回廊で、静かに、憚る様に声を落として二人で話した時のことだ。
戯れのようにかわしたキスには意味など無かったけれど、サンジ自身があのとき欲していた生きているものの熱の記憶として、深く胸に刻みこまれてしまっている。
対してゾロの方はといえば、ごくささいな、例えば出会いがしらの事故程度にしか思っていないようで、まるで何事も無かったかのように、サンジに対する言動もアラバスタ以前とそれほど変わるところはない。
サンジは別段、この胸のつまるような感情のかたちをあきらかにしたいと思っているわけではない。しかし、そう思う心の底の方でゆらゆらと、寂しいと思っちゃいけないのか、などというゾロへの問いが撓んで揺れている。とても直接ぶつける勇気はないまま、無言の問いかけは空しく殻の内側に響くばかりで、為すところ無く船の進むに任せていたら、じりじりとそのまま日ばかりが過ぎた。
ぐい、と手摺に額をすりつけ、反動をつけて顔をあげ、背を思いきり伸ばした。見上げた空はのっぺりと白く、味気なかった。とてもあの、砂の国まで続いているようには感じられない。
仲間が一人減って一人増えた船の暮らしはそれほど大きな変化も無く、面白おかしく平穏に過ぎていくばかりだ。実際にはどれほど胸中に嵐が吹き荒れていようと。
サンジは、そんな日常の中にある自分の姿を、出来るかぎり変えたくはなかった。
ゾロもそうなのだ、きっと。
海に放った吸殻は、矮小な放物線を描いて泡だった海に吸い込まれていった。
今更仲良く笑いあったりすることの不自然さについて考える。そもそも、どうしてあのコックと自分は、単純で素直な会話が成り立ちにくいのだろう。
原因は、コックにある。ゾロはそう思っている。
サンジが船尾の手摺にもたれてじっとしている姿を、ゾロは階段を昇りきる数段手前で足を止めて見ていた。
空気に酔う、ということだってある。自分でさえそうなのだから、サンジのようなどちらかというと酔いやすい質の人間は仕方がないと思う。あんなふうに命を拾ったような戦いのあとで人肌を求める気持ちならば、ゾロにだって、理解は可能なのだ。
けれど、今現在、時に自分に向けられる視線については、苛立つばかりだ。盗み見とも異なる、気付かれたいのか気付かせたくないのか、どちらともとれる、不躾で控えめな視線だ。
俺がそれに気付かないわけがねえだろう、馬鹿が。
そう思っていても、それ以上ゾロにはどうすることも出来ない。自ら動く理由も見出せず、けれど無視を決めこむ事も出来ずに、こうして様子を伺ったりしている。サンジが何を考えているのかわからないからだ。
違う、そうではない。
ゾロは目を伏せる。まぶたの裏に、風に踊るサンジの金の髪がふわふわとゆれている。知りたいと望むわけでもない。
ため息をひとつこぼし、あと一歩を踏み出すための言い訳を探してみたが、うまい言葉が思いつかない。そうこうしているうちに、サンジの方がゾロの視線に気付いてしまった。
「……よう、何?」
声の調子は軽い。それを聞いて首のあたりから力が抜けたのに緊張していたと気づかされて、ゾロはむすりと表情を曇らせる。
「べつに」
ゾロは甲板へと踏み出し、サンジの隣で、そっと手摺を掴んだ。
「あのさあ」
サンジは懐に伸ばしかけた手を止める。ゾロはゆっくりとそちらに視線をむけた。
「試してみたいんだけど」
サンジはふっと息を吐き出し、肩を軽く上下させる。腰で立ついつもの姿勢に落ちつくと、向き直ってゾロを見た。口許にはにやついた笑みを浮かべている。風になびく髪が、見えている方の目までもバラバラと覆う。弱い太陽光がやわらかくその色を浮かび上がらせていた。ゾロは片眉を上げて答える。
サンジの手がのびて、そっとゾロの首すじを撫ぜた。ゾロはぴくりと首をすくめ、その腕を掴む。反対側の手が耳から頬にかかった。
「そのままだ、動くなよ」
「離せ」
ゾロは肩を捻ってサンジから体を背けようとしたが、その前にサンジの腕がゾロの腰を引き寄せていた。目の前が陰る。
「動くな…」
あわさった唇はあのときと同じ熱で、指先は、あのときよりももっと、切実だった。どくん、と胸が大きく鳴って、頭に血が上る。ゾロはサンジの肩を力いっぱい掴んだ。サンジの口づけがいっそう深くなった。
「…ん…っ」
ゾロが仰のくようにして斜めに逃げると、サンジはそのまま頬に唇を滑らせ、耳元にくちづける。
「やめろ、…馬鹿」
「だったらなんで…!」
囁くような叫びに、ゾロは目をぎゅっと瞑った。
「用も無いくせに俺を見て、わざわざ俺の隣に来た理由を言えよ…なんでだよ…」
サンジの腕がゾロの背中を強く抱いて引き寄せた。ゾロはふらふらと片腕をあげ、サンジの首に回す。サンジは軽く笑った。吐息がゾロの肩でふるえた。
こいつの考えていることがわからないだと?ゾロは脳裏で自問する。
わかっていたじゃないか。わかっていて、その懊悩を解く鍵を自分が持っているのを知っていて、てのひらに握りこんだまま未だ見せないでいるくせに、何を。
わけもなく何かを殴りつけたいような衝動が体中を駆け巡る。それは、目の前にいるこの男に向かっていないことだけはたしかだ。
「俺、好きみてえなんだよ…」
情けない声だ。みっともなくつっかえて、喜びと悲しみの間を振り子のように行き来する感情が出させる声だ。
「わけわかんねえ、なんでてめえなんだよ。なんでもっと、ナミさんとか、ロっ、ロビンちゃんとか…!」
顔を伏せたままサンジが背中を掴んで離さないので息が苦しい。掴んで引き剥がせば容易く逃れられることを知りながら、ゾロはそうしなかった。
かわりに、膝を緩め、甲板に体を投げ出した。そうしてゆっくりと、てのひらをサンジの胸に当てた。
100000HITリクエスト1「『まじろぎと明滅』その後」
(※2002年8月発行「見渡す限りブルー収録」)
(2003/5/13)
(※2002年8月発行「見渡す限りブルー収録」)
(2003/5/13)
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