うまく笑えないなら笑えないなりに

◇◇


 つきあうことになった。



 八月の終わりだった。その日の、じりじりと焦げるような日差しや夕方の緑を渡る風とともに、東堂の頬の紅潮や湿った荒い息を思い出して、巻島は頭を抱えた。背中を丸めて膝に額をおしあて、肺が空になるほど大きなため息をつく。
 冷静に考えればつくづくありえない話で、急激に展開した関係についてゆけず足踏みをしているような自分を、巻島は自覚している。好きだと言われて漸くそのことに思い至った不慣れな自分を恥じる気持ちもあった。
 東堂には迷いがない。自分の気持ちを信じることにまったく躊躇がない。そういうところも巻島にとっては好ましく映る部分だったが、巻島自身、こうと思ったことならば最後まで貫く気質の持ち主なのであり、東堂を好きだと感じる自分の気持ちを疑おうなどとは微塵も思っていない。
 ただ、状況を俯瞰で想像してみると、やっぱりなんだか、おかしなことのような気がする。夏のインターハイの山頂で隣にいたあの男と、自分が、なぜ今、こんなことになっているんだろう。何かの間違いとしか思えない。
 などと頭ではいろいろ考えるものの、実際は電話の向こうから聞こえてくる声にぎゅっと胸を詰まらせたりしてめまぐるしく変わる感情に引きずりまわされるばかりで、巻島はなんだかもう、いっぱいいっぱいなのだった。
『どうした巻ちゃん?』
気持ちがコントロールできない。奇妙な疾走感とともにどんどん昂ぶっていく。恋っていうのは、こういうことをいうんだろうか。
(とかなんとか……アホっショ)
 自分の思考に赤面しつつ、巻島は左手の携帯をぐっと握った。
「……なんでもねえヨ」
 以前から電話やメールのやり取りは頻繁だったし、その内容もさほど変わってはいないが、なんとなく耳に届く声が甘い。蕩けるような声でやさしく名前を呼ばれて、いたたまれなさに携帯を放り出したことも一度や二度ではない。鼓動が速まったり体温が上がったりで、電話を終えるとぐったりと疲れていることもしばしばだ。
こんなことが続くから、時々やめようかなんて出来るはずもないことがちらりと頭をよぎる。そのたび巻島は、自分の覚悟が足りていない事実を突きつけられるような気がして、落ち込んだ。
『ならいいが、予定は大丈夫なんだな?』
「ああ」
 久しぶりに登ろう、と連絡してきたのは東堂だった。
 インターハイのあとは、あの日、八月の終わりのあの日に、勝負ともつかぬラフな登坂を一度行ったきりだ。久しぶりのことだし、巻島としても楽しみで、待ち遠しい気持ちだった。
 新学期が始まって一ヶ月が過ぎようとしていた。
 インターバルとしては、インハイ前とさして変わらない。
 月に一度か二度のレース。示し合わせての練習。インターハイに照準を合わせて、だいたいそれくらいのスパンで勝負を繰り返してきた。
 電話を切り、壁にかけたカレンダーを眺めながら、巻島は指を折る。
 好きだと言い合って、触りあって、そういう関係になったというのに、これは。
「長すぎだろォ…」
 千葉と箱根は遠い。会いたいと思ったときにすぐに会える距離じゃないということが、今の巻島にはひどくもどかしい。
(こんなはずじゃなかったショ)
 自分はもうちょっとクールだと思っていた。相手をいくら好きでも、感情やペースはコントロールできると思っていた。集団を引いて山を登るときに回転数を維持しながら最適なペースを生み出すように、冷静に。
なにしろ相手はあの東堂なのだ。これまで競争相手として、それから少し毛色の変わった友人として、飽きるくらいそばで見てきたあの顔が望んだときに近くにないことが、そういう日々が、こんなにも味気なく感じるようになるなんて、思わなかったのだ。
自分の執着の深さや感情の昂ぶりに、というか浮かれっぷりに戸惑いっぱなしだ。
相思相愛から始まる恋愛など巻島には初めての経験だった。東堂を思って胸に生まれる感情のすべてが、驚きの連続だった。
 


 巻島が東堂に好きだと言われたのは、八月の終わりのその日、巻島が練習のためによく登っていた地元近くの、そこそこの高さの山の頂上でのことだった。
 インターハイが終わって、東堂からの連絡は途絶えていた。
それまで二日とおかず電話で話していたというのに、ぷつりとそれがなくなって、巻島なりに自分にとって東堂がどういう存在なのかを考えていた頃だった。
それだけに、連絡もなしにいきなり会いにやって来た東堂にどういった態度で接するべきか、すぐには決めかねた。東堂の考えていることも想像できなかった。
夏は終わりつつあった。余韻のようなぎこちない空気の中でかわしたやり取りの果てに、手を繋いで違う関係に一歩踏み出すことを、二人で確認しあって、選んだのだ。
あとになって考えてみれば、急坂でブレーキをかけて無理やり藪に突っ込んだとか、そんな事故みたいなものだったと巻島は思う。だが冷静に振り返れば、なるべくしてなったとしか言いようがない流れが、出会ってからの月日の中に、確かに存在していたような気もする。
「東堂とか?」
 昼休みの部室だった。三年がここを昼休みの溜まり場に使っていることを知っている後輩たちは、この時間用がなければ訪れない。
 埃っぽいうえ古びた機材や備品に染み付いた汗の匂いが充満して快適とは言いがたいが、慣れ親しんだ空気に気持ちがゆったりと落ち着く。
ここ数日、巻島はひとりでここを使っていたが、今日は先に金城が来ていた。先客がいたのは久しぶりのことだ。最近自転車には乗っているのかと聞かれ、今週末に登る予定だと答えると、金城はさらりとした口調で確認してきたのだった。
うつらうつらしかけていた巻島は、目をしょぼつかせながら軽く頷き返した。
「ショ」
「そうか」
「お前は、福富とそういうハナシねえの?」
「ないな。連絡先も結局知らないままだしな。向こうからも特にそういうアクションはなかったが」
「ふーん、そんなもんかねェ」
 巻島が連絡先を東堂に教えたのは二年の春のことだった。梅雨に入る少し前。連絡は、すぐに来たんだったか、それとも少しは待ったのだったか。わりあいすぐだった気はするが、正確に思い出せない。
「おれはひとりで走るほうが性に合っているだけだ。福富も案外そうなんじゃないか?」
 ふーん、と答え、巻島はぽりぽりと顎のあたりをゆびでかく。
「ま、お前ら二人で会ってるって聞いたらちょっと驚くけどナ。会うなら今じゃなくて、もっと前からそういう機会はあったっショ」
 金城は同意のつもりなのか、眼鏡越しの目を伏せたまま口許だけで笑みをつくり、それきり何も言わなかった。
 いずれにしろ、もうすべてが終わっていた。大学に進めばまた試合で戦うことがあるだろうが、高校生の間にしか出来ないことがあるなら、彼らのその機会はもう、永遠に失われたも同然だった。
 きっかけならあった。それを生かすどうかは、個人の選択次第なのだ。
(オレらはそれを生かすことになんの疑問も持たなかったんだなァ……)
 当然のようにずっと二人で山を登ってきた。会おうといって断ったことはお互い一度もない。雨が降ろうと風が強かろうと、多少のことなら無視して登った。月に一度かせいぜい二度のことだ。貴重だった。千葉と箱根はそれくらい遠い距離だということを、お互いがイヤというほど知っていた。
 そうなのだ。知っているはずだった。なのにここへきて改めてその距離を思い知らされるはめになるなど、われながら呆れた話だ。
「それとこれとは意味が違うからなァ」
「何の意味だ?」
 呟きに問い返されて、巻島はクハ、と自嘲気味に笑った。
「さあ、なんだろな」
 ベンチに横になって目を閉じると、馴染みきった埃っぽい匂いが強まった。
金城は相手の懐に入るタイミングを知っていて、近づくのも距離をとるのも巧みだ。それは技術ではなく性格によるところが大きく、彼自身が実際どうしたいのか伝わりにくいところがあるけれど、巻島にはそこが気楽だった。
(こいつが誰かを好きになって我慢がきかないとか、想像つかねえなァ)
 でも、好きになったらまっすぐ真摯に、粘り強く、それこそ自転車でゴールを目指すときのように、相手に向けて自分を表していくんだろう。
 ということは自分は、自分で思っているほど、自転車に乗っているときも冷静じゃなかったのかもしれない。
とくに、東堂と走っているときは。
 夏の箱根で東堂を追って走った数キロを思いだし、巻島は寝たふりをして腕で顔を隠しながら、ひとり顔を赤らめた。丸わかりだ。きっとあれもそうだったのだ。今わかった。もしかしたらもっとずっと前から、東堂に対して普通とは違う感情を抱いていたのかもしれない。
「どこを登る予定なんだ?」
「こっち来るってよ。泊まりだ」
「そうか……仲がいいな」
「クハ、やめてくれ。都合がいいだけっショ」
 東堂は土曜の午後にやってくることになっている。その晩は巻島の家に泊まって乗るのは翌日、日曜の午前からという予定だった。そうしたいと東堂が言ったからだが、言わなくてもたぶん、巻島のほうからそうしたらいいと言い出していただろう。
「小野田の練習にも付き合ってくれるって言うからヨ」
 金城はふと目を上げて、大きな瞳を丸く開いた。
「そうか、それは有難いな。よろしく伝えてくれ」
「あいよ」
巻島は軽く右手を上げると、そのまま顔の上におろし、深く息を吸った。この昼はもう、眠ることは出来そうになかった。



◇◇


 玄関の外でずぶ濡れの。



「諦めて電車でくりゃよかったっショ」
「そうは言っても、途中までは晴れていたんだ、いけるかと思うじゃな……ックショ!」
真夏のように暑い日もたまにはあるが、最近では曇り空の朝方など、少々肌寒いように感じるときもある。
 東京駅までは電車でそこから自走という、前回来たときと同じパターンだった。一度走っていれば時間も短縮できると踏んだのだろうが、午後早いうちからぱらぱら降り出した雨にたたられ、東堂が巻島家に到着したのは、すでに午後五時近かった。
外はもう随分暗い。
「明日は晴れるかな」
「さァな、いいから、とりあえず風呂いけ」
 荷物を預かり、濡れたジャージを脱がせてバスタオルで軽く体を拭かせ、巻島は東堂をバスルームに案内した。
「中のもんどれでも適当に使え。ちゃんとあったまってこいヨ。体もよくほぐせ」
「巻ちゃんのシャンプーはどれだ?」
「どれでもいいっショ」
 東堂の黒い髪は濡れてつややかに光り、長い前髪の先端から透明な滴がいくつも垂れ下がっている。そのうちのひとつがぽたりと落ちて、巻島の手首を濡らした。
水のにおいがした。
 前髪から覗く目が巻島を見てかすかに笑った。口許も一緒に。そして巻島の反応を待たずに、東堂は濡れたTシャツに手をかけてぐいとまくりあげると、頭をするりと抜いた。下から、綺麗に筋肉のついた胸元と白い腹があらわれる。
 あたたかな体臭が水の匂いに混じってふわりと漂い、巻島はそわと胸を波立たせた。下唇を噛んで足元に視線を落とし、両手の指をぎゅっと握りこむ。
「バスタオルはそれでいいだろ。オレはリビングにいるからよ」
「うん、いろいろすまんな巻ちゃん」
 東堂がズボンのボタンに指をかけるのを横目に見ながら、巻島はバスルームをあとにした。
 


登ろうと言ってきたのは東堂だったが、この日にしようと提案したのは巻島だ。土曜の午後から家人がすべて出払う予定で、日曜の夕方まで誰もいないことがわかっていたからだ。
夕食用の肉と野菜が、冷蔵庫に入っている。焼いてたれをつけて食べるくらいなら男二人でもなんとか出来るだろうという母親の配慮だ。あとは何でも好きにしなさいと言いおいて、両親はバタバタと昼前に出かけていった。
コーヒーを入れていると、東堂がリビングにひょこりと顔を出した。
「巻ちゃん?」
「入れショ。……ほら、」
湯気の立ち上るマグカップを渡してやる。東堂は受け取って、巻島が指差したソファに腰を下ろした。
 窓の外はすっかり暗くなっていた。雲は相当厚ぼったいようだ。
「明日はどうなんだ?」
 風呂に入る前に言っていたことを再度持ち出し、東堂はマグカップを手にしたまますぐに立ち上がった。窓際に向かって進みながら、携帯を弄りだす。
「晴れるってヨ」
「ほんとか?」
 ネットのニュースで確認したので、おそらく間違いないだろうと言うと、東堂は納得したというように、そうかと頷いた。
夕食の用意があること、夜はとくに何をするとも予定を立てていないこと、明日は昼前に小野田と待ち合わせていることなどを、巻島は手短に告げた。
「ありがとう。だがおかまいなくだ。そうだ、これを先に渡しておくべきだったな」
 そう言って、部屋の隅に新聞を敷いた上に転がしてあるリュックサックから、ビニル包みをひとつ取り出した。
「つまらないものじゃないぞ。箱根といえば温泉だからな。ひと晩お世話になる」
 受け取って中を見ると、どうやら温泉饅頭らしかった。
「ショ…、あとで食おーぜ」
 巻島は礼を言って乳白色のビニル袋からがさがさと取り出し、キッチンのカウンターに置いた。
 どうやら東堂は気付いているのだろう。巻島はそっとため息をここぼす。
 なんとなく、東堂の顔が見られない。目があえば逸らしてしまうし、ソファに座った東堂の視線が自分の背中を見ているのがわかって、振り返るのすら躊躇してしまう。
 なんなんだこれは。
「巻ちゃん」
「ん」
「オレ相手に人見知りすんなよ。寂しいだろ」
 ニヤニヤ笑われている気配に背を向けたまま、歯を食いしばり、渋面を作る。
「頼むからこっちに来てくれ。巻ちゃんを前にしてなんでオレはひとりでぽつんと座ってなきゃならんのだ?」
 じろりと目だけで振り返ると、少し顎を上げて、東堂が挑発的に笑っていた。つられるように巻島は唇の片側を吊り上げた。自分の中から抜け落ちてふわふわと頼りなく目の前を漂っていたものが戻ってきたような、不思議な感覚だった。そして、東堂の言葉でやっとそれを取り戻すような、そんな自分に少し苛ついた。
 巻島は自分のマグカップを手にリビングに移動すると、東堂の隣にゆさりと腰を下ろした。
 ソファの前には大画面の液晶テレビが置かれているが、今は何も映していない。室内はとても静かだ。
 東堂がコーヒーを啜る。こくりと飲み込む。腕を動かすと鳴る衣擦れの音。そういったひとつひとつをつぶさに拾ううち、冷蔵庫やその他家電の電子音なんかが、いちいち耳につきはじめる。
巻島はそれに加わるのを恐れるように浅い呼吸を繰り返しながら、東堂の気配を探り続けた。相変わらず顔は見られず、苛立ちは募るばかりだ。
 そんな巻島の内情など知らぬそぶりで、東堂がころんと右肩に頭をのせてきた。あたった瞬間びくりと肩を震わせたが、はあ、とひとつ息を吐くと、そのまま許した。
「どうした」
 東堂が含み笑いで聞く。巻島は少し決まり悪く答えた。
「どうもしねえショ」
「巻ちゃん」
 東堂はそのままくるくると頭をこすり付けるように動かす。肩骨の上に骨が擦れあうようなかすかな痛みと重みを感じる。
「なんだよ」
 左手を上げて東堂の額の辺りに触れ、そのまま後方へ押しやる。東堂が顔をあお向けて、くすくすと笑った。
「好きだぞ巻ちゃん」
 とっさに声が出せず、心臓がどくんと大きく脈打ち、巻島の顔は見る間に赤らんだ。
「わっはっは」
「バカ東堂」
 左手のひらで自分の顔を覆ってガクリと項垂れる。東堂の頭が肩から背中のほうへとなだらかに落ちてきた。
「まーきーちゃん」
 そして両脇から腕を差し入れて腰に回し、ぎゅっとしがみついてくる。
「会いたかったぞ」
 巻島はとっさに返事をためらったが、東堂は気にした様子もなく続けた。
「一ヶ月だ。レースに出るのも練習走行もだいたいそれくらいの間隔だったはずなのに、この一ヶ月は本当に長かった。長くて長くて、このまま二度と会えなかったらどうしようかと思ったほどだ」
 巻島はぷっとふきだし、クハハと笑って体を揺らした。東堂が組んでいる腕の下で、下腹がひくひくと動いている。
「お前はいつも大袈裟すぎるショ」
「巻ちゃんだってそうだろう、違うのか?」
 東堂の吐き出す息が腰にあたっていて、そこだけ熱い。
 前で組まれた手の上を、ぽんと、叩いてやる。
「違わねぇナ」
 回した腕の輪っかを少しづつ縮められ、東堂の抱きしめる力が強くなった。
 巻島は腰をずらして半身だけ振り返ると、横になって見上げてくる東堂の額をさらりと撫ぜた。その目はやわらかく笑っている。目じりを親指で擦り、そのまま髪の中に差し入れてくるくると回した。東堂の手が、その巻島の腕にかかった。それから、指そのものが意思を持った何かの生き物のように、肘から二の腕へじわりと這い登ってくる。
「東、堂ォ」
 捕まれたそこをぐいと引かれて、巻島は東堂の上にのりあげるみたいに上半身を折りまげながら、肘をついてソファの縁を押してつっぱった。長く伸ばした髪の先が、ソファの上でゆるい渦巻き模様を作る。
 東堂の顔が近い。
「オレを前にして油断するなよ」
「……油断じゃねえ、ショ」
口をへの字に曲げて答える。東堂はにやりと笑って両腕をふわりと上に伸ばし、巻島の首に巻きつける。仰向けになった東堂の上に、今度は引き寄せられるまま倒れこんだ。
 東堂が鎖骨の間に鼻をつけて、すう、と息を吸い込む。
「巻ちゃんのにおいだ」
 答えるように、巻島は東堂の髪に鼻先をうずめた。
「巻ちゃん」
 東堂が目を閉じた。重なった胸で互いの鼓動が混ざり合っている。
「巻ちゃん、ドキドキすごい速さだな」
「うるさい」
「オレもだぞ」
「わかってるショ」
 だまれ、と言いながら、巻島は東堂の唇を塞いだ。東堂はすぐに口を開き、巻島の唇を味わうように柔らかく挟み込む。その動きを何度も繰り返す。
 一度顔を上げ、角度を変えて深くあわせると、東堂はゆっくり鼻から息を吐き出した。同時にその体からふわりと力が抜け、柔らかくしなった。
 浅く深く探り、内側を舐めあっているうちに、頭の奥がじんじんと熱く痺れてくる。
もっとと思い、くっつけばくっつくほど、飢えのようなものが体の奥に開いた破れ目から染み出してくる感じがした。ずっと堪えていたもの。あの日から体の奥でほとほととあふれるまま湧き出し続けていた湿っぽい感情の、これが、正体なのだと思った。
「巻、ちゃ」
 東堂が、は、と顎を挙げて息を継ぐ。
「箱根……っ」
 それを追いかけながら、巻島は小さく叫んだ。
「とおい、ショ!」
「千葉も、だろ……っ」
 もどかしい。もっと会いたい。会ってこうして、いちぶの隙もないくらいくっつきあいたい。そう思うのに、そこにはまだまだ、手が届かない。
 頭を抱えあって深いキスを繰り返すうちに、ふたりはソファからぽとりと落ちた。
上になった東堂が、巻島の顎の下に唇を押し付けてくる。首筋をたどり、肩から胸元へ。洋服の裾から手を差し入れられ、ひやりとした感触にぴくんと体を跳ねさせる。
「は、」
巻島は顎を上げて息を逃がしながら、東堂の髪をくしゃりとやわく掴んだ。
「とお、どう」
 肌の上を這う東堂の手の感触にぞくぞくと背筋を震わせ、おぼつかない呼吸の合間、名前を呼ぶ。胸の上でくるくると撫で摩るようにされ、突起をつままれる。
「あ」
 腰が浮き、踵で床を引っかくようにバタつかせた。肩をぎゅっと掴むと、東堂が低く呻いた。
 耳元に聞こえる荒い息が自分の吐き出すそれと混ざって、体は湿り気を帯びた空気に重く包み込まれていく。
 たとえば電話を切ったあとの静寂。
東堂の低い呟き。名前を呼ぶ声。それが耳の中に残響して、いたたまれなさに頭をかきむしりたくなるあの瞬間。たしかに自分は、不安を覚えていたのだと巻島は思った。
 次に会ったときどんな顔をして何を言えばいいのか。それは初めてふたりきりで練習走行に出かけた日の緊張感にとても良く似ていた。同じ気持ちだと思った。東堂を相手に今更またそんな気持ちを覚えるなど、想像もできなかった。
(アホくせえ)
どれほど思い悩もうと会ってしまえばあっという間だ。登って、走り抜けるだけだ。次に会うときにはまた元に戻っているんじゃないかなんて、そんなこと、あるわけがなかった。巻島は小さく、クハ、と笑う。
顔を見れば、メールより電話で話すよりももっと、好きだという気持ちでいっぱいになった。もっと高く飛べるような、もっと遠くまでいけるような。目の前に無限の空間が広がっているような感覚。ただふたりで自転車に乗っていただけのときのそれよりももっと明るく鮮やかで、力強く、意思を持った約束のようなものに、体も心も支配されているみたいに思えた。
 本当はもっと別の道を選んだ方が良かったんじゃないかと思う気持ちもまだ、巻島の心の片隅にはたしかに存在する。
 巻島は長い腕を東堂の背中に回し、きゅっと抱きしめた。東堂は少し驚いた面持ちで顔を上げ、巻ちゃん、とちいさく呟くと、背中から肩へ手を回して、ぎゅっと抱き返してきた。
「じんぱち」
 東堂が、長く大きく、ため息をつくのと同時に、巻島にかかる体重がぐっと重みを増した気がした。


 ああお前もか、そうなのかと、巻島は熱くなった頭の片隅でぼんやりと思った。



◇◇


峰ヶ山に登るときは、いつも不思議と晴れている。



「いい山だな。なぜ今まで案内してくれなかった」
 登り終え、山頂で休憩を取りながら、東堂は眼下を見渡して言った。
「おれはしょっちゅう登ってるショ。どうせお前と登るならあんまり登ったことのない山がいいと思ったし」
「それはそうだ」
 東堂は笑った。二年の夏頃から、次はあそこへ今度はここへと可能な限り足を延ばし、関東近郊の評判の山にはあらかた二人で登っていた。
 海から駆け上がる風が緩やかに木々をざわめかせている。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、ふうっとゆっくり吐き出した。久しぶりに限界まで回したせいか、まだ息が整わない。
 東堂はどうやらそうでもない。おそらく引退後も毎日、インハイ前とそれほど変わらないペースでトレーニングを続けているのだろう。巻島は気を紛らわすように大きく肩を上げ下ろし、首をぐるんと回した。
「少し鈍ったか、巻ちゃん」
 見透かしたように東堂が言った。巻島は下唇を突き出して不服を訴える。
「おめーんとことは違うショ。おれは引退してんだよ。大体今日は小野田に付き合ってもらったんだし、オレはいんだよ」
 その小野田は、東堂と巻島の勝負に巻き込まれたかたちで、オーバーペースのまま登りきり、駐車場のコンクリートの上に屍のように倒れている。
「メガネくん平気か」
「ほっときゃすぐケロっと起き上がってくるっショ」
「そうか……しかしさすが巻ちゃんだな。よく鍛えている。千切れなかっただけでもたいしたもんだぜ」
「……クハ」
 たしかにな、と巻島は思う。
小野田の練習だという意識は頭の片隅にあったものの、隣に東堂が走っていて加減など出来るわけがなかった。おそらくギリギリだったとは思うが、自分と東堂の勝負に、小野田はほとんど最後までついてきた。春の初めの頃を思えば大変な進歩だし、その進歩のスピードは驚異的だ。
「けどまあ、小野田にはすまねえことしたショ」
「何を言うんだ巻ちゃん。現高校トップクライマーのスピードを知る機会などなかなかないぞ!幸せものだメガネくんは!」
「自分で言うな自分で」
 やわくツッコミを入れつつ、それにもまた巻島は納得していた。自分と同じレベルで登れる高校生は東堂しかいないし、東堂にとっての自分もそうだ。こんな機会はそうあることじゃないし、この先あるかもわからない。
「だがまあたしかに、小野田にはいい経験だったかもナ」
「そうだろう!巻ちゃんも一度箱根で真波と登ってくれよな。ギブアンドテイクだ」
 そうだなァ、と呟きながら自分の腕を掴んで、ぐんと大きく伸びをした。
 東堂の腕が狙い済ましたように、巻島の脇あたりに触れてくる。そのままスイと腰に回され、巻島は腕を伸ばした姿勢のままで、ぴたりと動きを止めた。
「おい」
「ん?」
「離れろっショ」
 東堂はきかず、にまりと笑うと、逆にぐっと力をこめて巻島を引き寄せた。勢いのままバランスを崩しかけ、腕を東堂の肩に回してしがみつくような格好になる。
「てめ」
「油断するなと言っただろう」
 ぱっと手を離して、東堂は笑った。憎らしいほど快活で、照れも躊躇も、微塵も感じさせない笑顔だ。漸くおさまった鼓動のスピードが再び速まる。
 上から見下ろす小野田はまだ、死んだように大の字に寝転がったままだ。
(おいおい……浮かれすぎだろ裕介)
 腰から手は離れたけれど、肩が触れあう近さのままで、そのかすかに触れる温かみを手放せないでいるのはむしろ巻島のほうだった。東堂はそれをわかっているのかいないのか、やはり少しだけ触れさせたそこから、離れるそぶりは見せない。
 手を繋ぎたいと強く思った。本当にどうかしているが、事実だ。
 巻島は反対側を向いて、ふっと息を吐き出した。胸の真ん中を大きな石塊で塞がれているみたいだった。なんだかずっと息苦しい。
 もう少ししたら、東堂はまた箱根へ帰っていく。
「小野田」
 巻島は静かにそっとそこから離れ、小野田に声をかけながら、少し下の駐車場に向かって短い階段を下りていった。視線を背中に感じたが、東堂が動く気配は感じなかった。
「巻島さん」
 小野田は眩しそうに薄目を開け、肘を立てて体を起こした。
「無理すんな。まだしんどいなら寝とけ」
「いえ、もう大丈夫です」
 言って、はあーっとため息をつく。
「すごかったです。僕、ほんとうについていくので精一杯で」
「あー……悪かったナ」
 巻島はぼりぼりと頭をかきながら、決まり悪く答える。
「いえ、ほんとに、なんていうか……ほんとに有難うございました。東堂さんも」
「礼には及ばんよ」
 声に驚き、背後を振り返る。東堂が近くまでおりてきていた。
「こんなときまで音をたてねえのかおめーは」
「当然だろう、わはは。……メガネくんはしかし、よくついてきたな。正直驚いたぞ」
 小野田はいえ、と頭をかき、ラストついていけなかったし、まだまだですボクは、と照れ笑いの中に悔しさを混ぜ込んだ複雑な顔で東堂を見上げていた。
(欲が出てきているっショ)
 いい傾向だった。
 小野田にとっての走る目的が、「みんなと走る」ことなのだとしたら、そろそろ自分自身の探求へとシフトしてもいい頃だった。自分の走りを極めるために試行錯誤し、時には孤独になることだって必要になってくる。
 隣に立つ男をちらりと見やった。
(そういやァ、こいつと会ってから、そういう気持ちとは全然縁がなかったな)
走りを研ぎ澄ますことは、東堂に勝つことと常に同義で、東堂に勝ちさえすれば走りが進化しているのだと信じられた。高校三年間、ふりかえればとても恵まれた環境で幸せな競技生活を送れた。
ぎゅっと胸の辺りを掴み、巻島は漏れそうになったため息をこらえる。
東堂、東堂、東堂。思い返せばその記憶の多さに圧倒されそうになる。
「どうした巻ちゃん?」
 隣で笑う男の余裕ぶった笑い顔が憎らしく、巻島は右手を上げてぴしゃりとその額を叩いた。
「いたいぞ!」
「ヘンな笑い方すんな」
「ヘンとはなんだ。ハコガク一の美形を捕まえて」
「よく考えたらその基準おかしいっショ。すごいのかなんなのか全然わからねえ」
 巻島の言葉に合わせて、小野田が「ほんとだ」と噴き出した。
「メガネくんまで」
 東堂が額を抑えてむうと唇を突き出す。その目がゆるく眇められ、ひらりと瞬き、瞳がとろりと横に流れる。
巻島の心臓が、とくんと鳴った。
「あとで覚えてろよ巻ちゃん」
「……クハ、なんのこと、だヨ」
「まだ昼を過ぎたばかりだ。べつに練習が終わったからって今すぐ急いで箱根へ戻らなきゃならないわけでもないからな」
 ふわりと熱の波が首から頬へと這い上がるような感じがして、巻島は腕を上げて頬から口元をぐいと拭った。
 東堂は小野田の視線を意識している。
巻島も同様だ。本当ならこの場でその額に口付けてやったっていいと思っている自分を巻島はわかっていたし、東堂も同様に自分に対して何がしかの行為を我慢しているのは、わずかに離れた二人の隙間に漂う熱が物語っていた。
 仕方がない。なにしろ自覚して間もない。自重なんて出来るわけがない。何もかもが、真っ只中で、真っ盛りなのだ。
 自転車に向かう小野田から離れて、巻島と東堂もそれぞれの愛車に向かう。
「巻ちゃん」
「ん」
「迷うなとはいわんよ」
 東堂が脈略なく、突然そんなことを言った。
「巻ちゃんが今の状況をどう思ってても、オレの気持ちは変わらんからな」
 巻島はそんな東堂の顔を、ただ凝視することしか出来ない。
目を少し和らげ、唇をキっとむすんで両端を少しだけ上げる、いつもの東堂の笑い方だ。
会えない時を過ごす間、巻島がこの先に広がる世界や道筋について様々に思い巡らせたように、東堂もきっと考えたのだろう、彼なりに。
そのうえで尚、そんなことを言ってみせる。
「やっぱばかショ、お前」
「む。バカとは何だ」  階段を上りきったところでぐいっと肩を寄せて近づくと、巻島は半歩だけ前に出て振り返り、首を傾けると、驚き顔のその真ん中めがけてちゅっと唇を押し当てた。  
(2011.1.9発行コピー本/2013.3.17文庫再録)
[TOP]