着地する音

 巻ちゃんチョコいるか、と書かれたメールの文面を眺め、巻島は返信しないままそっとクリアボタンを押した。
 時計を見るとそろそろ20時というところだった。この時間にやってくるなら今夜は泊まるつもりだろう。
 現在の彼女らしき存在がちらりと頭の隅をよぎったが、そもそも東堂の交友関係は幅広すぎて巻島にはどこがどう繋がっているのかさっぱりわからない。さほど興味を持ってみているわけでもないが、ひと月ほど前に飲み会の席で一緒になったさばさばしたショートカットの明るい美人は、あれは単なる友達だったのか。そうは見えなかったが、自分の勘違いだったのだろうか。
 いきなりチョコレートだなど、いるもいらないもない。とびきり好物というわけでもないし甘党でもない巻島にしてみれば、積極的に欲しがる理由もない。そう思って無視を決め込んでいたら、再び携帯がなった。
『とりあえず行く』
 なじみの文面にため息をこぼす。これについてはいつだって、積極的に断る理由がない。ゆえに、断ったことがない。
 だから返信はしなかった。少し迷って、ドアの鍵を開けておいた。

 東堂はほどなくやってきた。いつものように騒々しく、ドアを開けた瞬間に、大声で「巻ちゃん」と呼びかける。勝手にスリッパを出して勝手にリビングに入ってきて、コーヒーを淹れてくれんか、と言いながら手に提げてきた紙袋をぽんとソファー前に置いた。上着を脱いでハンガーにかけ、手を洗うために洗面所にむかう。
「いくつもらったんだよ」
 コーヒーをセットしてキッチンから戻り、袋を指先で少し開いて中を覗き込む。少し遠い声で、「さあ」と返事があった。
「数えてない」
 リビングに戻ってきた東堂はソファに腰を下ろしてゆったりと背中を倒し、宙を見上げていた。キッチンにいる巻島には、その表情まではわからなかったが、普段より少し、ぼんやりしているような気がした。
「メシは」
「食べてきた。巻ちゃんは?」
「とっくにすんだショ」
「そうか。なら酒のほうがよかったか」
「あとで好きなだけ飲めばいいショ。ほら」
 巻島は両手にマグカップを持ってきて、ひとつを東堂に差し出した。
 東堂はひと口飲むとカップを置き、どれでも好きなの食っていいぞ、と言いながら、紙袋から次々に小さな包みを取り出した。巻島が目で数えた限りでは18個。色とりどりのラッピング。きらきらと光を反射するリボン。カードつきのものもある。
「なんで家なんだヨ」
「捨てるわけにもいかんだろう」
 答える気はないようだと思い、巻島はため息をつく。
「始末に困るなら受け取らなきゃいいショ……」
「巻ちゃんはいくつもらった」
「……もらってねえよ」
「嘘だろ」
 嘘だ。クラスメイトから義理でいくつかと、告白込みで昨日ひとつに、今日ひとつ。数でいえば東堂にはまったく及ばないが、巻島だって広い目で見ればそれなりだ。
「中学生じゃあるまいし、数でどうこうとか、ねえっショ」
「もらったんだな?」
「しつこいショ。おめーはこんだけいっぱい貰ってんだしそんでいいっショ」
「これよりは少ないか?」
「あー……少ねえな」
 マグカップに口をつけると、たちのぼる湯気がちりちりと鼻先をかすめる。すこし啜る。喉を滑り落ちる濃い味わいに、体や心がとろりとほぐれていくのを感じる。
「なにあんの」
 巻島が包みのひとつに手を伸ばすと、東堂も手近な包みをかりりと開けた。





「なかなか減らんな」
 手を付けられないままの大量の小箱が並んだテーブルを見て東堂が言った。いくつか食べたが二人ともすぐに飽きてしまい、すでにコーヒーから酒に移行していた。ソファに背中を預けて並んで床に座り、焼酎の入ったグラスを傾けている。
「誰か欲しがってるやつにやればよかったのに」
 自分が最初についた悪態のことは棚にあげ、それが出来ないからこうしてここへ持ってきていることも承知の上で巻島は言う。東堂は片頬を軽くゆがめて、はは、と笑い、そうもいかんだろう、と小さく言った。
「おまえ、彼女いるんじゃなかったの」
 少し躊躇うように俯き、東堂は口を開いた。
「彼女になるのかなーと思ってる子ならいたんだ。誰もいないならつきあってくれと言われていたしな」
 そう言うと、グラスの底に残った酒をくいと飲み干し、濡れた唇をきゅっと引き結ぶ。
 テレビはつけていないし、音楽も鳴らしていない。グラスをテーブルに置く音、液体を流し込みながら喉が鳴らす音。冬の夜はそんな些細な音を自らのどこまでも深く暗い静寂の中に飲み込んでいく。
「だったらなんでこんなとこにいんだヨ」
 クハ、と笑い声を立てると、東堂が拳でぽんと巻島のわき腹をつついた。巻島も折り曲げた肘を軽く肩にあててやり返す。
「そんなに貰ってっからだろ。相手がいるなら受けとってんじゃねーよ」
「しかし、せっかく考えて用意してくれたものを受け取らんわけにはいかんよ。ほとんど義理とかノリで、そんな深刻なものじゃないんだし」
 巻島はグラスをあけ、ボトルを持ち上げてなみなみと注ぎ、再びグラスを満たした。透明な液体が氷の隙間を滑り落ちていき、その向こうにはに華やかな包み紙の色が溶け合って滲んでいる。
「呆れられたか」
 東堂はすぐには答えず、言葉をさがすように手にしたグラスをじっと眺めていた。
「荒北がな」
 底を支えて手の中でもてあそぶように転がしながら、低い声で呟く。
「あ?」
「こいつとつきあうとこんなのばっかだぜと彼女に言ったんだ。そうしたら、無理だ、と」
「あー……」
「あっさりしたもんだったぜ」
「……正解ショ」
 ひどいな巻ちゃん、とぼやくように言って、東堂はグラスを持ったまま背後のソファに後頭部をがくりと預けた。顎を上げて喉をそらし、うう、と呻く。
「俺を思ってくれる子たちを無碍にしたくないだけなんだがな」
「そうかよ」
 どこまでが本音なのか。開き直りもあってか、東堂の声にはかすかに笑いを含んでいた。巻島は少しホッとし、軽く笑いながら調子を合わせる。
「クハ、だとしても、彼女がダメだと思ったらそれで終わりショ。つきあう前でよかったじゃねーか。おめーならすぐ誰か見つかるんじゃねーの」
 巻島が言うと、東堂はしばらくじっとテーブルの上の包みのあたりに視線を落として考え込むような顔つきになった。巻島の視線をちらっと横目で確認し、そっとグラスを置く。
「おれ、そんなに軽くない」
 額に当てた手を擦り上げ、カチューシャからはみ出した前髪をかき上げながら俯く。斜めに背を向け、テーブルに片肘を突いて額を支え、巻島の方を見ないままで、絞り出すような声を出した。
「軽くないよ、巻ちゃん」
 東堂の背中は力なくたわんでいた。まっすぐに坂を登っていくぴんとした背中の面影は、そこには見当たらなかった。巻島は膝を立てて正面を向いたままでそこへ手を伸ばしかけ、そっと指を握りこんだ。触れることは躊躇われた。巻島は手を床に下ろした。東堂が今晒しているものの意味を知るにはそれしかないとわかっていたからこそ、動くことが出来なかった。
 拒むように向けられた背中は、その実届くことのない何かを待っているようだった。
 一番近くにいるはずの男が、なぜかひどく遠い存在のような気がした。
 無音の空気は部屋を満たすように厚ぼったく膨らみきって、耳ばかりか目までも塞がれるような錯覚にとらわれ、巻島はしばらくの間、声をかけることすら忘れていた。
バレンタインを書こうと思ったのですが……無益。ほとんど初期設定のない話ですが、巻ちゃんは新開と同じ大学で東堂は荒北と一緒というのだけは決めてあります。他はあんまり考えてません。いつか新開も地味に出てくる、はず。(11.2.15)
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