立ち止まる、この距離で

 濡れた土に敷き詰められた色とりどりの落ち葉の間、黒々と寒々しい木立の隙間を縫うように、アスファルトの坂道がうねりながら伸びている。
 今年の紅葉もそろそろ終わりだ。空気は渇いて冷たく、透明に澄んで、雲間から差す薄日をやわくつつみこんでいる。
 巻島は首筋にそっと触れていく冷気にぴゅっと肩をすくめ、グローブを念入りに引き上げた。近場ではシーズン最後のヒルクライムレースが行われる朝、  スタート前の集合地点には続々と人が集まり始めている。
 総北高校から出場するのは、巻島以外では一年生が一人だけだ。レース経験がほとんどないため、引率してきた監督は彼についている。巻島はいつスタートの声がかかってもいいように、ひとりで淡々と機材の点検をこなし、ウォーミングアップもすっかり済ませてあった。
 東堂は、そういったことを見計らったようなタイミングで訪ねてきた。
「どうだ巻ちゃん調子は。ここ最近だいぶ冷え込んでいるが風邪などひいてはおらんだろうな?」
 箱根学園と書かれた淡い青のジャージの胸元をピンとまっすぐに張り、顎をくいとあげて、東堂は揚々と巻島に笑いかける。
「まあまあショ。体調もいいぜ」
 巻島が平坦な声で言い返すのへ、東堂は満足そうにうなずく。
「シーズンラストだしな。今日は勝たせてもらうよ」
「クハ、そりゃこっちのせりふショ」
 春のはじめにレースで出会ってから、東堂と巻島はレースで顔を合わせるたび、勝ったり負けたりを繰り返している。そればかりでなく、インターハイが終わって夏休みに入った頃から、自主練習と称してともに山に登るようになっていた。
 関東一の強豪校である箱根学園の次期エースクライマーという肩書を持つ東堂は、当然ながら他校の生徒や自転車関係者から一目置かれている。  彼と拮抗した実力を持つ巻島も、クライムスタイルや見かけの奇抜さと相まってそこそこ知られる存在ではあったが、洗練された東堂の走りとの比較から、物珍しさで語られることの方が多かった。
 あたりのざわめきが大きくなった気がして、巻島は周囲を見回した。携帯電話を取り出して時計を確認する。ぼちぼち受付が終了する頃だろうか。
「行かなくていーの?」
「今日はオレだけなんでな。気楽だ」
「へえ、珍しいナ」
「東堂、ちょっといいか」
 会話を遮るようにして背後からかかった声に、東堂が振り返った。足元で枯葉を踏みしめる音がかさかさと鳴る。巻島もつられて視線を上げた。  声の主はレースでよく顔を合わせる他校の生徒だった。クライマーらしく細身で、明るい髪色のはきはきしたやつ、という印象で、  ともに表彰台に上がったことも何度かあった。けれど巻島は、挨拶すら交わしたことがない。
(知り合いだったのか)
 話しかけられて応対している東堂は、どうやら彼と交流があるらしく、軽く笑みさえ浮かべている。
 こういうことは初めてではなかった。東堂は巻島と比べると交友関係は幅広いし、顔見知りも多い。自分のほかに連絡を取り合っているものがいたとしても別段驚きはしない。
 ぼんやりと立ったまま所在無げに見ていると、ちら、と視線を送ってきた彼と目があった。
 なんとなく逸らして、足元に視線を落とす。色褪せた芝生の上に、深い色に染まった枯葉がランダムに散らばっている。
 なぜ挨拶すらしたことがないのかというと、相手が話しかけてこないからだ。巻島から話しかけることなどまずないし、そうなれば接点など生まれようもない。
 この男に限らったことではないが、そういう連中も、東堂にはよく話しかけていた。実力もさることながら、東堂にはそういう相手をひきつけるような何かがあるように感じる。
 そういうのをカリスマっていうんだろうか。ふいに思って、巻島は顔を顰めた。
(このうるさい男にそんなものあるわけないショ。煩いから目立つだけっショ!)
 なんとなくムカムカと腹が立ってきたので、巻島は話が終わるのを待たずに踵を返して歩き出した。理由のわからない苛立ちに押されるようにずんずんと進むうちに、ふたりの立っている場所からだいぶ離れたあたりまで来ていた。
「巻ちゃん!」
 なのに、すぐ間近で軽く息を弾ませた声に呼び止められ、驚いて振り向く。
「なに……」
 追いかけてきてるっショ、と言いかけて、そのまま飲みこんだ。もうスタートまで30分を切っている。むこうの用が済んだなら自分のスペースへ戻ったらいいのに。巻島は戸惑いながら、きょろきょろと東堂を避けるように視線を動かす。
「なにって、……なぜ勝手にいなくなってる。話が終わってなかっただろ?」
「いや、だって、長そうだったショ」
「そんなことはない。それに、少しくらい待ってくれてもいいだろ」
「次の自主練のことなら、それこそあとだっていいショ」
「……だが、帰りだと会えないこともあるからな」
 会えなくたって、電話でもメールでも、打合せなんかできる。そう言おうと思って息を吸いこんだら、さっきの奴がこちらを見ているのと、目が合ってしまった。
「あいつ、いいのかよ。なんか用だったんじゃねえの」
 こっち、すげえ、見てるけど。
「用というかな……来週どこかで一緒に走らないかと言ってきた」
「へ?」
「最近レースのたびにやたら声をかけて来るなとは思ってたんだが、オレがお前と走ってることをどこかで聞いてきたらしい」
 どきっとして、見返す目が引き攣る。
「へえ……」
 それで、どうすんの、と思いながら、なんとなく聞き返すことは憚られた。あの相手と東堂を取り合うかのような錯覚を、すぐさま覚えたからだ。
 東堂がそちらへ行くなら、再来週だっていいし、もっと先だっていいのだ。そもそも各自の練習の隙間をぬっての個人練習なのだから、必ず実行しなければならないというものでもない。
 けれど、来週は一緒に走れないのかもしれないと思うと、膨らんだ何かが急速にしぼんでいくような感じがした。焦るような、なにか心細いような、不思議な気分だ。
 離れた場所でこちらを窺う男にもう一度視線を送る。彼は目をそらし、くるんと背を向けて行ってしまった。挨拶もろくにしたことのない男だったけれど、これからもそういう機会は訪れないような気がする。巻島は睫毛を伏せて溜め息を吐くと、ちら、と下からねめつけるように東堂を見た。東堂は気づき、ぱっと目を大きく開いて、ニッと笑った。
 運営スタッフの集合指示の声がかかりはじめていた。緩慢だった人の流れが急速に一定の流れに沿って動きはじめるのを、巻島は目の端で確認する。
「おめーは気楽だナ……」
「なんの話だ?おっと、さすがにそろそろ戻らねばならんな。帰り、時間がなかったらメールする」
 東堂もそう言って、右手をさっとあげると、はおっていた上着の裾を翻して立ち去った。
 不自然な鼓動はゆっくりとおさまりはじめていたが、一度動揺を覚えてしまえば、あっさりもとどおり、とはいかない。巻島は前髪を書き上げて溜め息をついた。レース前だというのにまったく気分が高揚してこない。
 東堂のせいだと思う。けれど、それは変だ、とも思う。巻島は眉間にしわを寄せて小首をかしげる。自分でもよくわからない。
 選手の皆さんはスタート地点に集合してください、と運営スタッフの声がくり返し響いている。巻島はのたのたと足を速め、マシンを置いた場所にむかった。


* * *


 レースは東堂が勝った。巻島は斜度の上がるあたりで少し遅れ、結局それが最後まで響いた。途中僅差まで詰め寄ったが、足はラスト100メートルのところで終わってしまった。そのせいで、後ろに張り付いていたもう一台にゴール前で抜かれ、3着に落ちた。
 巻島を抜いて2着に入ったのは、今朝東堂に話しかけてきた、例のやつだった。
 表彰台ではふたりが調子よく話すのを横で黙って聞いていた。東堂はやっぱ速いよ。オレも頑張ったんだけどなあ。今日こそ勝てると思ったけど無理だったよ。当然だ 。だがまあ、お前もなかなか速かったぞ。何しろ巻ちゃんを抜いたんだからな。今日は調子が良かったし路面のコンディションも向いていた。謙遜までしてみせているところが珍しい。
 東堂は一方でなんだかんだと巻島にも話を振ってきた。けれども巻島はそれへぶっきらぼうな答えを返すばかりで、三人での会話はまったく弾まなかった。負けたのは自分に原因があるからで、東堂も例のやつも関係ない。これではなんだか、思い通りにいかないことを拗ねている子供のようだ。わかっているのにうまく気持ちがコントロールできない。胸の内側がドロドロとして重苦しく、そこから気をそらすのに必死で、早くその場から離れることばかり考えていた。
 東堂は怒っているだろう。表彰台を下りて、こういったレースでよくあるように擦れ違いで会えないまま帰ったら、来週か再来週と口約束で決めた自主練の話はこのまま立ち消えになるかもしれない。だがそれならそれで東堂はあの男と走りに行けばいいのだし、特に問題などないのだろう。そうしたらもうそれきりになって、電話もメールも、来なくなるかもしれない。
 おめでとう、今日はやられたけど次は負けねえショ。ふたりにむけて笑顔でそう言いさえすれば、それで済む話だ。わかっている。
 けれど出来ないし、しない。溜め息まじりに思う。そんな心にもないことを言ってみたところで、どうせ笑顔は歪むし、逆効果だ。
(しょうがねえ、だいたい、こうだし)
 表彰台を下りて監督と一年が待つ場所にむかって歩き出すと、後ろから声がした。
「巻ちゃん」
 振り返ると、東堂がすこしのわだかまりも感じさせない顔で立っていた。
「やはりどうもすぐに出ねばならんようだ。夜電話するから待っててくれ」
 部の車両が置かれたあたりを指さして、すこし慌てるようなそぶりで言う。急いでいたのだろう。え、あ、と巻島がまごついている間に、ではな、と手を上げて行ってしまった。相変わらず風のようにさらっとしていて、そして人の話を聞かない。
 かといって、話すことなど何もないのだった。無理に口を開いたところできっと下手な皮肉しか出てこない。しかも絶対につうじない。ただ勝手に巻島が、いじけたような気持ちでいるだけなのだ。東堂はきっと意味すら分からない。
 なんとなく惨めな気がするのは、負けたからじゃない。巻島は瞼を半分落とし、仏頂面で俯いた。
 今年最後のレースだったのに、朝の冷たい空気を吸いこみながら感じた楽しい気持ちは、すっかり消えていた。負けて拗ねて、勝手にイライラして落ち込んで、自分で台無しにした。
 帰りの車の中で一年から三位おめでとうございますと言われ、どーも、と半笑いでと返すことしか出来なかった自分に、巻島は心底嫌気がさしていた。


* * *


 いったい何を怒っているのか。そもそも怒っているんだろうか。怒っているとして、何だって怒ったりしなきゃいけないのか。
 不快感は、胸のなかに湿った雪のように重く降り積もっている。水分をたくさん含んだ溜め息が部屋の床に沈殿して冷気を放っているかのように、室内は肌寒い。
 巻島は先ほどからずっと、椅子の上に両足を抱えて座り、デスクにのせた携帯のライトが着信を告げて点滅しているのを、じっと見つめている。靴下を履いていてもつま先が冷たい。エアコンの電源は入れたばかりで、部屋が温まるまではまだ少し時間がかかりそうだ。
 帰宅して食事をすませ、ゆっくり風呂にも浸かったのに、気分は晴れないままだ。電話に出てもきっとまだ不貞腐れたような言葉しか出ない。そういうのがいやで、手に取るのを迷っているうちに電話は切れた。ホッと息をついたのもつかの間、すぐにまた着信音が鳴った。今度はメールだ。巻島はのろのろと携帯に手を伸ばし、ぱちんと開く。
『来週、千葉近辺の山でどうだ?』
 目に飛び込んできた文面をじっとりと見つめる。この一文から東堂の今の心理をうかがえるほどの洞察力は、巻島にはない。巻島はこの夜何度目かの大きな溜め息をつき、返信の画面に『OK』とだけ書いて、送信ボタンを押した。
 袋小路に入り込んだような気分だった。これは喧嘩でもなんでもない。自分の気持ちを扱い兼ねている巻島だけの問題だ。
 唇を噛んで膝に額を押しつけ、あー、と低く声を出して唸った。次にかかってきたらさすがに出ないと、今度こそ東堂は変に思うだろう。問われたところで説明できるような心情ではないし、正確に伝えられるだけの話術もない。
 そもそも、この不機嫌の原因はいったい何なのだろうと考えながら、朝の光景を思い出す。最初はふつうに話していた。ふつうに出来なくなったのは、一度あの場を離れてからだ。それを考えると原因は一つしかない。
 電話が鳴った。巻島は一瞬躊躇したが、仕方なしに通話ボタンを押した。
「よォ」
「やっと出た。風呂にでも入っていたのか?」
「いや……ここら近辺って、どこの」
「できればお前のホームがいいんだがな。どこか案内してくれんか」
「ホームって……」
 裏門坂はさすがに無理となれば、峰ヶ山しかない。というか、そんなことよりも……
「……来週って、あの、あいつと行くんじゃねえの」
「あいつ?」
「今日、2位だった……」
「ああ、あの話なら朝のうちに断ったぞ。なんでだ?」
 聞いた途端、息が止まった。胸にどっと溢れた安堵と疲れにこめかみがびりびり痺れ、全身がぐったりと重くなった。悶々と溜め込んだ悪い想像はまったく東堂をバカにした杞憂でしかなかった。わかっていた。わかっていたけれども。
 何も断ることはない、と思う。東堂にとってもべつに悪い話じゃなかったはずだ。
「いや、だってヨ……」
「そもそも巻ちゃんとの練習だって、部活で手いっぱいなところに無理やりねじ込んでるようなものなんだぞ? 他の奴と走る暇があるなら二週続けてお前と走るよ。巻ちゃんだってそうだろ?」
「あ、ああ……」 
 思わずうなずいたが、同時に唖然とした。ぽかんと口を開けたまま、二の句がつげない。体の奥から発する熱でじわじわと肌が染まっていくのを感じ、うわーうわーと頭の中で叫びながらたてた膝に額を擦りつける。
「つーかおまえ……よくそんな恥ずかしいこと平気で言えるショ」
「む? 恥ずかしい? そんなことよりもあいつ、オレの走りが羨ましいらしいぞ。無理もないが、そんなことを面と向かって言える神経もよくわからんと思わんか」
 おめーが言うな、と小さく呟いたが、たぶん東堂には聞こえていない。
「天から与えられた才に憧れられてもな。羨ましかろうが、真似たところでオレのようにはなれんのだし、そんな奴と走ったところでオレが得られるものなど微々たるものだろう。そう思わんか?」
 まさかとは思うが。
「おまえそれ、あいつに言ったのかヨ……」
「だいたいのところな。変な顔をしていたが」
 東堂の怖いところは、これが天然じゃないところだ、と思う。本気で思っていて、その言葉の持つ効果もわかっていて、そのうえで言ってのける。それでどう思うかは受け取る側の度量の問題で、東堂には関係がない。他人の多少の悪感情など意にも解さない。それだけの実力と、自分への揺るぎない信頼。
(天から与えられた……ねェ)
「そんな無駄口をたたいている暇があるならまわして回して、自分の走りを磨くべきだ」
 それもおめーが言うな、と思いつつ、もはや声に出す気にもならなかった。巻島の胸中に、あの彼のことをいくぶん気の毒に思う気持ちが芽生えはじめていた。だが表彰式のようすを思い出せば、彼は彼でその言葉にある程度納得していたのかもしれない。そこまで言われてなおああいった態度をとれるのだから、  きっとさっぱりしたいい奴なのだろう。
 そう思うと、レース前から今までの自分の感情や態度がひどく子供じみて思えて、頭をかきむしりたくなる。
 次に彼に会ったときにはせめて挨拶くらいしよう、と心に刻んだ。それでたぶん、帳尻はあう。話を続けられるとは思わないけれど、挨拶くらいは。
「メアドを聞かれたから、それくらいならと教えたけどな。巻ちゃん、あいつに興味があるのか? 負けたからか?」
「うっせえ」
 電話のむこうで、東堂がワッハッハ、と豪快に笑う。
「わかるぞ巻ちゃん。照れているのだろう。だが本心だ。巻ちゃんとの練習は楽しみで、いつも待ち遠しくて仕方ない」
「オレ、おめーのそーゆーとこほんとキライ」
 率直なのはわかりやすくていいが、こういうことを恥ずかしげもなく言うから、ときどきどういう顔をしていいかわからなくなる。
「聞き捨てならんな。そんなことよりどうなんだ、来週。大丈夫か?」
「あー、……いいショ。こっちにくれば。ホームコース案内するっショ」
「やった!」
 胸の中はいつの間にかほかほかと温まっていた。寒さで縮こまっていた手足も、すんなりと伸びてゆったり広がっている。我ながらゲンキンなことだ、と、呆れる思いだ。
 東堂の言葉や態度にこんなふうに影響される自分というのを改めて自覚すれば、そわそわと落ち着かない気持ちが芽生えるし、何だか少し、こわいような気がする。
(……しょーがねえ、ショ)
 だって初めてなのだ、こんな相手は。こんな言葉をくれる、ともだちは。こんな自分の思考も眩暈がしそうなほど照れくさいが、一緒に走ることと同じくらい、こんなささいなやりとりが楽しく、待ち遠しく思っていることくらいは、認めなければ。
 ずっとひとりで走ってきた。隣を走るのはいつも、風ばかりだった。
 耳もとに東堂の声を聴きながら、巻島はふうと小さく息をついて目を閉じる。
 早く来週になればいいのに。
「来週が待ち遠しいな、巻ちゃん」
 東堂が巻島の思考をなぞるように、静かな声で言った。  
2年の冬。嫉妬する巻ちゃんを書きたかったんですけど、どっちかというとコミュ障巻ちゃんの話になった。すごくつまんない気がするけどとりあえずUP。
あとどうでもいい設定なんですけど、例のやつはたぶんホモです。(13/11/9)
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