そこにそっと

 巻島の住む部屋は彼の母親が賃貸用として都内に持っていた不動産のひとつで、大学生の一人暮らしにしてはかなり贅沢なつくりの1LDKだ。
 巻島に言わせると「べつに普通ショ」ということになるのだが、この男はおそらく地方出身の友人の部屋に遊びに出かけたりすることはあまりないのだろう。他の連中がどういった暮らしぶりかということにもさしたる興味はなさそうだ。
 と、田所は思っている。
 そして、巻島のそれがある種の用心深さからくるものであることも知っている。この部屋が広くて交通の便のよい、いわゆる使い勝手のいい部屋でありながら、友人達の溜まり場と化すようなことにならない最大の理由は、巻島自身の社交性の乏しさによるものなのだということも、よくわかっている。

 この前に田所が巻島の部屋を訪れたのは、梅雨の時期だった。久々に一緒に個人練習で走ったあと、汗を流して着替え、食事に出るまでの少しの時間だったから、もしかしたら単なる思い違いに過ぎないのかもしれない。そう思いつつ、田所は部屋の中をきょろきょろと見回した。
「何かおもしれえの?」
 立ったままであちこちに目を配って落ち着かない様子の田所にポカリの缶を差し出しながら、巻島が言う。
「んんー?いや、なんかあるんじゃねえかと思ってナ」
 プルタブをかちりと引きながら、巻島はソファに腰を下ろした。田所はテーブル前に重ねたクッションにどかりと座ると、胡坐をかいた。
「珍しいもんなんか何もないっショ」
 笑い混じりの巻島の声を聞き流しつつ、田所はテーブル上に置かれたあるものをじっと見つめる。
 それじゃあこれは、いったいなんなんだろう。
 たぶん髪をとめるやつだが、なんと呼ぶのだったか。オレンジ色。幅はあまり広くない。巻島がこういったものをつけているのを見たことはなかった。巻島のものでなければ、これは誰のだ。こんなものをつけるのは、
「巻島」
「んーー?」
「おまえ今、彼女いんのか?」
「クハ、いねえっショ。おめーは?」
「訊くな。じゃあこりゃなんだよ」
 田所は手を伸ばして、そのオレンジの物体をつまみあげた。田所の太い指に挟まれたそれは、どことなくほっそりと華奢に映る。
「あー、それ。あいつの」
 田所が視線で聞くと、巻島はどことなくおどけたような顔つきで肩をすくめた。
「東堂ショ」
 言われて、そういえばあの男はたしかこういうのをしていたな、と思い出す。
「近いのか?」
「箱根と千葉よりはな」
「よく来るのかよ」
「まあなァ、つか今朝もいたショ。次の日朝錬がない日はよく来てるぜ。ヒマなんだろ」
「入り浸られて……」
「んなわけねえっショ。近くにいるとかなんだとかでよく泊まってくけど、あいつなら出てけっつったら素直に出てくし、こっちがだめな時は断る、し……」
 じっと見ていたから目が合った。巻島はぱっと目を大きく開くと、ぱちぱちと瞬いた。そうしてくるりと斜めに視線を逸らし、ポカリに差したストローをくわえる。
「……断ったことねえんだな、たく……」
 巻島は人差し指で顎の辺りをぽりぽりとかき、唇をきゅっと窄めた。
「どうだったかねェ……」
 シラをきろうとしている巻島の手前、田所はガハハと笑って見せたのだったが、巻島に問題がないのなら田所としては何を言うつもりもなかった。東堂と巻島のライバル関係については先から承知しているし、そもそも巻島の交友関係なのだから、巻島の勝手だ。
 手の中のカチューシャをくるくると回して、なんとなく自分の頭にはめてみる。それはみょん、と横に広がって、反動でやや上に持ち上がった。巻島がクハハ、と独特の笑い声を上げる。
「ちいせえな」
「いや、案外似合うショ」
「似合ってたまるか」
「違いねえ」
 クハ、とまた空気を吐き出すように笑い、巻島は首を傾けて窓へと視線を向ける。外はもう薄暗かった。街灯がぽつぽつと点り、家々の窓から布越しの明かりがほんのりと漏れている。
「メシどうする?」
「どうするも何も、なんかとるか食いに出るしかねえだろ」
 そりゃそうだ、と巻島は言い、長い手足を持て余したような気だるげな動作でゆったりと立ち上がる。
「牛丼」
「ラーメン」
 じゃんけんで負けたほうが譲る。田所がグーで、巻島がパーだった。
「ショオ!」
「ち」
「ちょっと先に行ってみたい店があったショ」
 ジャケットを羽織って玄関に向かう、相変わらずほっそりした背中が、なんとなく浮かれているように見える。
「東堂と行きゃあいいじゃねえか。あ、便所借りるぜ」
「早くしろヨ」
 トイレのドアを開ける手前で、洗面所に、明らかに巻島のものではないワックスを見つけた。田所は手を伸ばしてそれを取ると、目の前に掲げてしみじみと眺め、そっと元の位置に戻した。
あんまりいろいろ考えないで書いてます……(10.10.26)
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