サイン

 マック寄って帰ろうぜ、と田所が言ったのに、珍しく金城も頷いた。今日あたり楽しみにしていたお気に入りのグラビアアイドルの新しい写真集が届いているはずだった。部屋に籠もってゆっくり堪能したいのはやまやまだが仕方がない。巻島は頭をかいてそこに加わった。チームワークは大切だ。
 ビッグマックセットにクォーターパウンダーチーズを乗せたトレイを、田所がたんと小さなテーブルにおき、金城がコーヒーを手にその横に座った。巻島は金城のと自分のハンバーガーを乗せたトレイを自分の前に置く。
「今泉はやっぱり計算できるな」
 田所が言うのに、金城が頷いた。
 裏門坂を登る今泉の姿を思い出す。インターハイではきっと金城の良いアシストになるだろう。
「そろそろ部活にも出ると言ってきた」
「そりゃそうだ」
 田所の相槌を聞くともなく聞きながら、巻島はドリンクにさしたストローを摘んでくるりと回す。
「それと、関西から経験者がひとり入ってくる予定だそうだ」
「へえ」
 それは初耳だった。巻島は目を上げて金城の顔を見た。
「どんなの?」
「地元ではスプリント戦でなかなかの成績を残しているらしい」
 巻島の問いに、金城は顔を上げずに答え、カップに顔を近づけてコーヒーを啜った。
 最寄り駅近くの店内は学校帰りの学生で混みあっていた。他校の制服も多く、話し声や時折上がる歓声で話し声は聞き取りづらい。であるので、三人とも自然と前のめりになって、顔を近づけながら話すことになった。
「んじゃ手嶋と青八木と……今泉かそいつか、か」
「どうなるかな」
「さあな」
 どうなろうと、どっちにしろ。巻島はふうと息を吐き、背筋を伸ばして顎を上げた。照明の眩しさに目を眇める。
 どっちにしろクライマーは自分一人だということだ。
「そういえば巻島」
 田所の声に目線を下げる。
「おまえ、先週のレースはあいつ……」
 東堂、と言いかけた田所は口の形もそのままにぱきりとかたまった。
「そう睨むな巻島。田所も面白がって安易に地雷に触れてやるな」
 慣れている金城が冷静に口を挟む。
「ガハハ。何にもいわねえから負けたんだろうとは思ってたけどな」
「うるせえショ。レースはまた来月もあるんだヨ」
 強張った声で言い放ち、ストローを口に含む。
 先週のレースは僅差で負けた。わずかなタイミングで集団を捌くのに手間取った巻島が、少しだけ届かずという展開だった。
 来月も、再来月にもレースはある。その間になんとか一度くらいは二人でどこか登ろうと打ち合わせている。
 その先はもう、インターハイだ。
(クライマー……クライマーか)
 どんなに強く望んでもいないものはどうにもならない。東堂との決着をつけるための準備と、それが整わないという現実。突きつけられるたび、たとえようもない焦燥が胸の内側を冷たく焼く。
 走りたかった。なんの憂いもなく、夏空の下をあの男と勝負できるなら。その瞬間が手に入るのなら、どんなことだってしようと思うほどに。
 夢だ。考えると泣きたくなる。涙など出ないことはわかっているけれど。
「そういえば金城、今日今泉と走ってたのは?誰だか知ってるのか?」
 田所の問いに、金城は首を振った。
「いや……」
「経験者じゃあないよな……」
「部員じゃないなら関係ないショ」
 巻島が口を挟むと、いやまあそうだけどよ、と田所が口を尖らせた。やや刺々しい気分になっているのは否めない。はあ、と溜息をつき、巻島はもそもそと冷えたポテトを口に運んだ。そろそろ行くか、と金城が言った。
 西の空はまだ薄っすらと赤かった。
 店前のガードレールに烏が一羽とまっていた。羽がオレンジをはじいて不思議な色に光っている。田所が目の前で手を振っても微動だにせず、烏はじっと山の方を見ている。
「風向きでも読んでいるみたいだな」
 金城が言った。
「なにそれ」
「雲の流れとかな。こういう生き物は人間にはわからないそういう世界を判断して生きているような気がする」
 金城の声を聞いたかのように烏はばさりと飛び立った。上空で一度だけ、かあと鳴いた。頭上を振り仰ぐと、烏は確かに、紫の雲が流れる方角へ飛び去ったように思えた。
 アスファルトに伸びた影はもう随分薄い。
 田所とわかれてふたりになったところで、金城が言った。
「お前はあのママチャリの一年、気にならないか?」
「は?」
「誘ってみたらどうかと言ってみるつもりだ。まあ、言わずとも今泉自身が動くかもしれんが」
「……はあ、まあいいんじゃねえの?好きにするっショ」
 巻島には本当ににどうでもよかった。部員が増えるのは部のためになるのかもしれないが、いてもいなくても変わらない人間が増えたところでさほど意味はない。
 ほしいのは山を登れる人間だった。自分の代わりにチームを引けるクライマー。金城や田所には言えないが、他はどうでもよかった。自分以外にクライマーのいないチームで、新入部員達はインターハイでの勝負を左右する最後の可能性だった。それはすでに、失われたも同然だった。
 勝負をしようなんて話したことは一度もない。インターハイで決着をつけようなんて話も。
 それでいてこんなにもあの男との勝負を望む。チームの勝利よりも、箱根の頂点で勝敗を決する瞬間を夢に見るくらいに。後ろめたさはある。だが頭の中でなんとかしてくれと叫んでいる自分がどうしても哀れだった。思うだけなら自由だ。叶わないならそれくらい許してもらいたい。
「あきらめるなよ」
 金城が低い声でそっと言った。
「……なんのことショ」
 金城や田所と掴む総合優勝と、あの男との決着。その時々で角度を変えながら、天秤はきっとどちらにも傾かない。
 じゃあなと手を振りながら、巻島は小さくなっていく金城の背中を眺めて、改めてひっそりと、重い溜息をこぼした。
ツイッターの三題噺。鳥、地雷、最後の可能性で、偏愛モノ。がんばってこれ。(11/5/23)
[TOP]