せんせいがおもっていたこと(ぼくのせんせい番外編)

 最初が肝心だと思っていたし、内心はヒヤヒヤだった。子供から慕われるような気やすさは持ち合わせてはいない。今どきの十五歳の日常も感覚も、思考も、まったく想像がつかない。
そんなふうに構えていたこともあって、初日の挨拶を終えてひとことめに、時間潰しだなどと突き放すように言った巻島に、東堂尽八は、それでいい、と笑ってみせた。
なんだかわくわくしたのだ、と東堂がはにかみながら言うのを聞いたのは、家庭教師として通い始めてしばらくたってからのことだ。


 中学生の英語の家庭教師をせよという父親からの依頼を、巻島裕介は当然断った。
 相手は取引先の息子で、食事の席での雑談からそういうことになってしまった、とあっけらかんと言う父親に、中学生の相手なんて自分にできるわけがない。そもそも人に教えるのが苦手だ。効果が上がらなければかえって心象が良くないだろう等々、苛立ちながら少しばかり声をあらげたが、もう決まったことなのだからぶつくさ言うなと一蹴された。
 さらに、どうせ春までは遊んでいるのだろうと言われてしまえばぐうの音も出なかった。その頃の己の自堕落な暮らしぶりを振り返れば、嘆息しつつも受け入れる道を選ばざるを得なかった。
 それでも、三カ月という期間限定でなければどうあっても抵抗したかもしれない。この時期、巻島は極端に無気力だった。
 とある事情から、巻島はこの頃、未練や、小さな怒りや悲しみや後悔にさいなまれていた。ともすれば自己憐憫に浸りがちな自分をもてあまし、厭世観が水を吸った砂のように内側に堆積して心身ともに重っ苦しく、極端に怠惰になっていた。何かさせようという親心は理解できたし、かたくなな態態度で己の幼さを露呈させ、このうえ親を失望させることは避けたい気持ちが、面倒より勝った。ダメになりきれない自分に安堵と失望を同時に感じ、最後のところで躊躇したり踏みとどまったりしてしまうのは、強さなのか弱さなのかと自嘲気味に思ったりもした。
 そうした小さな葛藤と消極的な選択の果てに、巻島は、東堂尽八の家庭教師となったのだった。


 巻島は高校を三年の夏休みで終えて渡英し、丸六年、イギリスで暮らした。それゆえ英語はそれなりに堪能だった。人に教えた経験はなかったが、気負いはなかった。中学生だからだ。高校生の受験の面倒見ろと言われていたら、やはりどうあっても他を当たれと拒否しただろうと思う。
 東堂は中学三年で、受験生だった。成績はまあまあ上位で、志望校である箱根学園には問題なく入学できるはずだという。
「じゃあべつに家庭教師なんかいらなかったショ」
「しかたないだろ、全然知らないところで決まっていたんだ。けど英語はたしかに苦手だし、どんな先生が来るのか興味もあったぞ」
「ふーん」
 オレとおなじじゃん、と思ったが、そこは口に出さない分別が巻島にはあった。教師と生徒という関係を維持するにあたり、あまりくだけ過ぎるのはよくないだろうという判断もあった。あえてそう意識しなければならないほど、東堂尽八という子供は驚くほどすんなりと、教師である巻島を受け入れた。態度には衒いも力んだようすもなく、九才という年齢差をまったく意識していないように感じられた。ときに生意気とうつる言動も素直さの表れであり、率直で伸びやかな気質の持ち主であることが窺い知れた。十五の頃の自分とはえらい違いだと、巻島はいくばくかの羨望をまじえて感嘆した。
 それは思わぬ誤算だった。相手がどんな子供でも過不足ない態度で適当にやり過ごすつもりでいた巻島は、路線変更を余儀なくされた。反抗期で小生意気な態度の悪いくそがきだろうと高をくくっていた巻島にとって、そのような東堂の気質は、思いがけず好ましいものにうつったからだ。東堂の軽口につきあってつい笑顔を零すようになるのに、ほとんど時間はかからなかった。
 それは三回目の授業の日のことだ。一時間半の授業を終わったところで、東堂の母親がお茶とケーキを運んできてくれたのを、巻島はひとり掛けのソファにおさまったまま、もそもそと口に運んでいた。東堂は自分の机に向かい、椅子を半分だけこちらにむけて、やはりケーキをつついている。
 と思っていたら、唐突に言った。
「やっぱり巻ちゃんがいいかな」
「……なに」
「先生の呼び名だ。巻島先生ってちょっと言いにくいし、なんかこう、他人行儀だろう。なにかないかとずっと考えていたんだが、やっぱりこれしかないと思ってな」
「行儀じゃねえ。他人なんだよ。つかなんだそれ、友達かヨ。これしかないってなんショ」
「だって学校じゃないんだし、一時間半も先生っていう人と二人だと思うと息が詰まるだろ。ようは先生だと思わなければいいんだと思いついたんだ。さすがオレ」
「さすがって意味わかんねえショ。返事しねえし」
「いいじゃないかケチ。オレは呼ぶからな。巻ちゃん巻ちゃん巻ちゃん」
「うるせえッショ」
 それ以降東堂は、先生と巻ちゃんという勝手につけた呼び名を使い分けるようになった。使い方には拘りがあるような、気分や雰囲気だけのような、つまり、巻島にはその法則性はよくわからなかった。ただ、呼ばれたときにはいちいち「先生ショ」と訂正を入れることを怠らなかった。巻島にしてみればこの距離感は失ってはならないものだ。慣れ合いは危険だった。危険と感じる巻島の感性に問題があるのは承知していた。そういったことからも、東堂は油断のならない相手だったのだ。


 好みなの?と、ある日唐突に訊かれた。週末の、とあるバーでのことだ。教えている中学生の話をしていただけなのに、なんだってそんなふうに言われるのかと、巻島は思いがけない言葉に面食らいつつ、慌てて言った。
「そんなわけねえっショ」
「ふうん?でも巻島くん、その子の話するとき、顔がちょっとエロいのよね。あやしいわ」
「はあ?」
 ほんとほんと、とニコニコしながら、顎にひげを生やしたマスターが言う。
 そういう嗜好の人間の集う店だった。
「でも中学生じゃあねえ。さすがに犯罪よ。気をつけなさい」
「だから、そんなんじゃねえつってるショ」
 氷がとけて薄まったバーボンを舐めてかすかに顔を顰めると、とんとグラスをテーブルに置いた。
 先週はバレンタインデーだった。自分はもてるのだと豪語する子供のことはずっと適当にあしらっていた巻島だったが、持ち帰ったらしいチョコレートの数を見て目を剥いた。大判の紙袋いっぱいのそれを横目に、マンガみてえだな、と呟くのがやっとだった。
「全部食うの?」
「無理に決まっている。母さんと姉さんと、あと近くに住んでる従姉妹なんか、この時期に狙いを定めて遊びに来るぞ」
 にっこり笑って、さらりと言ってみせる。
 東堂は寄せられた好意を当然のこととして受け止めているようだった。衒いも気負いも相変わらず感じられない。
 袋の中身は、かるく五十はあった。
 これを送ったすべての女の子が、この子供を本心から好きなわけではないだろう。女の子同士の、巻島には理解しがたい集団ノリやイベント参加意識など、様々な要素が絡み合った結果の数なのだろうが、そんなことはきっと東堂だってわかっているのだ。そのうえで、他人の羨望や、軽い嫉妬までも、すべての一部として楽しんでいる。
「まあ、でも、よくわかんねえ大物感はあるショ。態度がでかいっつーか、自惚れが強いっつーか……けど言うだけのことはあるっつーか……」
 巻島には到底真似のできないことだ。こればかりは年齢の差で経験値を稼ぐ技が通用しないのだからしかたがない。
「そういう子に憧れちゃうのって、あるわよね。思春期にはさ。あたしにも覚えがあるわ。部活の先輩とか、学年で目立ってる子とか」
「そんなもん?」
「そんなもんよ」
 そうだろうか。
 東堂を見ていると、すっかり決別したと思っていた古いコンプレックスが、体の奥底にこびりついていたことに気づかされることがある。これもそのひとつなんだろう。これが憧れの追体験につながるとも思えないけれど、そういった類のことだと指摘されれば、そんなものなのかもしれないと思えてくる。
「そんな子に、もし好きって言われてごらん。あんたきっと落ちるわよ。気をつけなさい」
 それに巻島は薄い肩を引くひくと揺らし、クハハと乾いた声で笑って答えたのだ。
「それこそわけわかんねえっショ。あんな子供……しかもノーマルの典型みたいなやつ……、思いつきもしねえよ。冗談じゃねえ」


 今となっては、マスターの炯眼に感服せざるを得ない。
 ぷるんとした、弾力のあるあのくちびるが開いたり閉じたりして、巻ちゃんと呼ぶ。
 いつものように否定しながら、巻島はひっそりと思う。
 東堂の部屋を訪れるのは今日を含めて残り三回きり。
 それくらいなら、きっと、なんとかやり過ごせるだろう。
 すべてを否定したまま、跡形もなく消えてしまえるだろう。
 腹の底に溜め込んだ澱の重さにうんざりしながら、その日を待ちわびている。
2013.4.14発行「ぼくのせんせい」番外編、2013.5.3発行ペーパー(13/6/9)
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