ラがつくなんとか。

「オレがいてよかっただろう」
 息を弾ませて頬を赤くして、東堂が笑う。
 午後の太陽がその背後から強く差し込んで、巻島は額から流れる汗を拭いながら、眩しさに目を眇めた。


***


 背後からの風に押されて、前輪が不規則に揺れた。ブラケットをぐっと握ってラインを正そうとすると、力加減を誤って今度は反対側へと進路が乱れた。すぐに体勢を立て直したが、あやうく落車するところだ。
 巻島は疲れていた。とても疲れていた。こんなにクタクタになるまで回したのは夏合宿以来だ。腕も脚も重くて、気を抜くとふうっとラインを外してしまう。車の往来はさほど多くはないが、家まであと少し、車道を走らなくてはならない。
 西の端にオレンジを滲ませながら空は青く暮れはじめ、空にはひとつふたつ、星が瞬き始めていた。
 個人練習のために遠く離れた町まで出かけて山を登った、その帰り道だ。
(多分あっちも相当いってるっショ)
 クハハ、と自然に笑いが漏れた。そんなことはないぞ巻ちゃん!と、脳内で勝手に再生されて聞こえた声に、巻島はさらに笑いを深める。
 東堂と、レース以外で初めて山を登った。
 携帯の番号を教えあってから、東堂は時々電話をかけてくる。その日の部活でどういう練習をしただとか、巻島の知らないチームメイトたちの話。馴染みの山を登るタイムが縮んだことや、前のレースの感想や次のレースの展望。東堂は勝手によく喋り、巻島はときどきそれに同意したり異存を唱えたりするだけでよかった。初めて電話があった時は戸惑ったものの、会話が苦手な巻島にしては意外なことに、東堂は気詰まりなく話せるとても気楽な相手だった。
 山を登るときの話は楽しくて、自然と巻島も饒舌になった。クライマーにはクライマーの共通の感覚というものがあって、周囲にクライマーと呼べる友人がいない巻島には、言葉を尽くさずとも相手に伝わる感覚は新鮮だった。
 だから、一緒に登らないかと東堂が言ってきたのに、「なんで?」ではなく、「いつ?」と答えたのも、巻島にとってはとても自然なことだったのだ。田所や金城には意外なことだったようで、一緒に練習する事を告げると大袈裟な様子でとても驚いていたけれど。
 とはいえレース以外で東堂に会うのは思えば初めての事で、待ち合わせの場所に行く間それなりに緊張していた巻島に対し、東堂はいつもの屈託のない調子で、「巻ちゃん!」と呼んで、笑った。
 かつて巻島をそんな名で呼んだ友人は皆無であったので未だ違和感は拭えないのだが、東堂にその名で呼ばれることはどこかくすぐったい感じがする。先々週、いくつかクラス分けがあって2年のチームメイトも一緒に参加したレースで、巻島をそう呼ぶ東堂を初めて目にした金城や田所はやはり目を丸くしていた。自分が他人にとってとっつきにくいタイプの人間であると自覚しているので二人の驚きはもっともであったし、そういう意味で東堂という男はちょっと常識にかからないところがある。人付き合いで悩んだことなんか無さそうだ、というのが巻島の実感だったが、つきつめて考えているわけでもない。
「ショ」
 来たぜ、とは声に出さず、唇の端をくいと引き上げ、巻島も笑い返す。
(ま、なんでもいいショ。登れさえすれば、オレは)
 本当にそれだけの気持ちで、巻島は出かけて行ったのだった。


「オレがいてよかっただろう」
 山を登り終え、頂上を過ぎてそのまま流しているところに並びかけてきて、東堂は言った。ちょうど緑が切れた隙間から太陽が差し込んで、声に顔を上げた巻島の網膜を焼いた。東堂の笑った顔が膨張した白の中にぼやけて、荒い息遣いと、掠れかけた東堂の声だけがやけに鮮明に響いてきた。
 何を言っているのだろう、と思った。
「オレも、巻ちゃんがいて、よかったと思ってるぞ。これからも、たくさん登ろうな。お前となら何度だっていい」
 息を弾ませながら、東堂は切れ切れにそう言うと、ボトルを手にしてごくごくとドリンクを飲んだ。ホルダーにおさめるとにやりと笑って、併走する巻島を下から覗き込むように見上げる。
 巻島は言葉を探しながら、口をぱくぱくとさせ、結局何も言えないまま閉じた。頷くのは難しかった。お前がいてよかったと、そんなふうに頷くなどということは。東堂は気にした様子もなく前を向き、ハンドルから手を離してブラブラと振っている。
「巻ちゃん、今度は箱根に来るといいぞ。いい山がたくさんある」
「……千葉にもあるショ」
「そうか。じゃあ順番だな」
 いろいろ登ろう、と東堂は言った。ふたりで登ると、もっともっと速くなれる気がする、と。
 それにはなんとなく、巻島も素直に同意することができた。だから、クハハと笑って、控えめに頷いた。
 東堂のように思った事をまっすぐ口に出せる性分ではないから、いろいろ憚るのはしょうがない。だが、この先何度今日のような勝負が出来るのかと思えば胸が躍った。
 今日は東堂の勝ちだった。だが、次はそうはいかない。させない。強い気持ちでそう思う。
 負けず嫌いなのも性分だ。自転車に乗ったときにだけ顔を出す。これだけは曲げないという意思も、強くなるためならどんな事だってやるという欲、その衝動すら、自転車を介して初めて知った自分の姿だった。
 それを、こんなふうに望んでくれる人間がいるとは思わなかった。それを嬉しいと感じる自分が、やっぱりどこかくすぐったい。
(これも自転車あってのことっショ)
 東堂が自分にとってどういう存在なのかと考え始めるとよくわからなくなる。ひとつだけ知っている言葉は、どうにも照れくさいしなんだか暑苦しいしで、自分には不向きな気がして使えそうもない。これから先誰に対しても、もしかしたら使う機会はないかもしれない。自転車と、山と自分。基本的にはそれだけでいいはずだ。
(だけどまあ、そういうもんなのかナ)
 今までいたことがないからわからない。そんな言い方をしたらきっと東堂は怒るだろうが。
 前方に角が見えたので、きいっとブレーキをかけて体を傾けた。風景はいつの間にか、見知ったものに切り替わっていた。何も考えずとも体が動く。家まであと少しだ。
 天頂は濃い藍色に染まって、振り仰ぐと星が散っていた。きれいな空だった。それにむけて、きれいだなァ、といつもなら思わないようなことをあえて言葉にして考えてから、そんな自分の浮かれ具合を、巻島はひっそりと笑った。
ラブ……とかにはまだ程遠いのです。初めて個人練習をした帰り道。2年の夏の終わりあたりで。(10/9/5)
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