タイトル未定

 オメガに生まれついたと知ったその日からまっとうな未来は諦めていた。
 まっとうとは、巻島にとって、ベータみたいな暮らしのことをいう。男と女で夫婦になって子供をもうけて、三十年のローンで家を買って、年に一度は海外に旅行に行く。そういう、絵に描いたような、ごく普通の幸福そうな暮らしのことだ。巻島に限らず、オメガたちはだいたい、そのような未来のことをそう呼ぶ。ベータみたいな暮らし。これで、だいたい通じる。
 オメガには当人の才能や努力ではどうにもならない、人間活動上のハンデがあって、それがこの、本来手に入れること自体はさして難しくはないはずの未来の実現を困難なものにしている。人間の性別は、男女のほかに、アルファ、ベータ、オメガと三種類に分かれていて、オメガ性はアルファやベータと比べて、桁違いに生き難い性だ。
 最大の理由は、オメガにのみあらわれる発情期の状態にある。発情期の間、オメガは日常生活すらままならなくなって、抑制剤を飲んでひとりきりで部屋に閉じこもってやりすごす以外手だてがない。一般家庭において、二人いる大人のうちの一方がたとえ三か月に一度でもそんな状態に陥れば、どうしたって周囲の人間に不自由を強いることになる。その一点だけで、「まっとう」を得るためのハードルはぐんと上がってしまうのだ。
 巻島の住む地域では、中学三年の三学期にバースを確認するための判別検査が行われるきまりになっている。発情期を迎える前にオメガであるとの判定を受けた巻島は、その時点で結婚に夢を抱くのはやめた。
 自分はおそらく生涯結婚することはないだろう。たとえひとりでも幸福な未来を掴む方法はきっとある。そういう道を探せばいい。そうしよう。オメガについて学んで得たさまざまな情報や知識を踏まえたうえで、そう決心した。簡単ではなかったが、下手に期待を持って傷つくよりも諦めてしまった方が楽だと、十五歳男子の頭でそう思いこんでしまう程度には、オメガ性にまつわる、そう生まれついたゆえの不遇な話は、いたるところに転がっていた。
 だから、両親の口から「許嫁」という言葉を聞かされたときには、天地がひっくり返るほど驚いた。
 怒ったり泣いたりしたい気持ちもあったのだが、まずは降りかかった現実を受け止めるだけで精一杯だった。結婚そのものが、たとえるなら百億万光年も彼方のことだったのだ。いきなり許嫁などと言われて、はいそうですかと頷けるわけがない。
 呆然と見つめかえすだけの巻島に、常日頃冷静な母親はやや興奮した面持ちで言った。ゆうちゃんが乗り気じゃないのは承知しているけれど、前から決まっていたことなの。総合的に考えればこれ以上ないほどいいお話なのよ。隣で聞いていた父親は、嫌なら断ってもいいんだぞ。ただ、いずれはそうしたいという気持ちが少しでもあるのなら、この話は悪くないとお父さんも思う、とつけ加えた。断れる余地があるらしいことに少しだけ気持ちが緩んだが、すぐに母親が、父親をキッと睨みつけた。どうやらそう簡単なものではないらしい。
 相手は同年の、アルファの男だという。巻島の気持ちはますます消沈した。女なら良かったのかといえばそれもまた複雑ではあるのだが、かつて実らぬまでもほのかな恋心を抱いた相手はすべて女だった。オメガであるということを除けば、巻島はグラビアアイドルを愛でるのが趣味の、ごくふつうの十代の男だ。同じ男と結婚したいわけがない。
 渡された写真は、見ないままテーブルに置いた。白いレザーで作られたアルバムの滑らかな光沢は、指先からゆっくりと体を冷やしていくようで、とても触っていられなかった。
 オメガは、男女にかかわらず妊娠する性だ。とくにオメガとアルファの間にはアルファが生まれる確率が高いことから、結婚相手としてあえてオメガを望むアルファは少なくない。
 さらにこの組み合わせには、他の性にはない「つがい」という関係が存在する。アルファがオメガの項を噛むことによって成立するこの関係は、一度生じれば基本的にはどちらかが死ぬまで解除されることはない。
 相手によって人生が定まってしまうことを結婚とするなら、体ごと縛られるという意味でこれほど強い絆はないだろう。別れる方法はただひとつ、アルファからの一方的な解除行為のみとされる。つがいになることによって、心情的に何かしらの変容があるとされているが、巻島はそもそも結婚するつもりがなかったので、そのあたりについての知識は曖昧だ。
 巻島の両親はアルファ同士の組み合わせだった。
 両親がすすめてくる以上、おそらくだが、つがいとして文句のない相手ではあるのだろう。と思うしかない。そもそも許嫁というからには、すでに家同士で結婚の約束が交わされており、それを解消するとなれば、煩雑な手順のほか、相応の努力が必要になるはずだ。
相手の意向はどうなのだろう。同い年だというアルファの男は納得しているのだろうか。相手にだって好みというものがある。アルファの男が、わざわざ望まぬ結婚に従うものだろうか。
 結婚すれば、その男の子供を産むようなことが、ひょっとしてあるのだろうか。あるだろう。あるに決まっている。巻島は顔を顰め、下唇を噛む。自分が子供を産むなんてまったく想像がつかない。両親がそれを自分に勧めてくることや、自分がそういう状況に置かれていること。すべてが体を素通りして、遠く時間の彼方まで飛び去ってしまいそうな気持ちだ。
「ゆめかよ……」
「ある意味、夢のようなお話よ」
 あくまでも現実主義者の母親はそう言うと、顔合わせの日取りを厳かに告げたのだった。





「勝手だと思うっショ?」
「ガハハ、そうだな。で、いつ会うんだ?」
「会うわけねえ……って言いたいトコだけど、実を言えば昨日会ったショ……部活休んだのはそのせいだ」
 並べば巻島の倍ほどもある熊のように厚みのある丸い体つきをした男が、もう会ったのかよ! と鋭い目を見開いて、驚いてみせた。
 男は田所といって、巻島の家から徒歩五分のところにあるパン屋の息子だ。そこからさらに五分歩いたところにある幼稚園のすみれ組で、三歳の時に出会って以来の付き合いだった。
 巻島をオメガと知る友人は二人いて、田所はそのうちのひとりだ。彼には高校一年の夏休みに入る少し前に、巻島自身が打ち明けていた。
 わざわざ告げなくとも抑制剤を服用して注意深くふるまえば他の連中と変わりなく学校生活を送ることは可能だ。そうしているものの方が圧倒的に多いだろう。巻島は校内で自分以外にオメガだというものを知らないが、いないということはないと思う。ただ、隠れているだけで。
田所に話したのは、万が一の場合を考えたときに、最大限に頼れる人間が身近にいたほうがいいと思ったからだ。そういう意味で同じ高校に進学していた田所はうってつけの存在だったし、何かの拍子に知って驚かせるよりは早いタイミングで打ち明けておこうかという、どちらかといえば軽い気持ちだった。田所は驚きながらも、おめえそりゃ厄介なこったなあまあ任せとけ、と、何をかはともかく何かを請け負ってくれたので、話したのは正解だったと胸をなでおろしたものだった。
 田所はベータで、発情期の巻島にもほとんど無反応だ。いくら気心が知れていようと真っ只中の姿など見せられるはずもないが、万が一そういう姿を見せてしまっても、動揺を隠して笑い飛ばしてくれるだろうという信頼感があった。今日家を訪ねてきたのも、昨日午後の部活を休んだ巻島の体調を気にしてのことだ。なので巻島は、まあいいかと思って、事実を告げたのだった。
「どんな相手だった?」
「……よくわからねえ」
「なんだそりゃ」
「わからねえもんはしょうがねえショ」
 田所は胸前で腕を組んで首を捻り、テーブルのうえのグラスに手を伸ばしてごくごくとあおる。
 窓から差し込むうららかな陽光にぼんやりと目を細め、巻島は嘆息した。春だ。すみれ組で出会った巻島と田所は、つい先日高校二年に進級したばかりだった。
 高校二年で結婚するオメガはいるし、それを機に学校をやめるものも、稀にだがいるらしい。そういう話を聞くと、巻島は腹の底が重く冷たくなっていくのを感じる。
 この感覚から逃れるためには、一生結婚とは無関係で生きていくと宣言して、無かったことにしてしまえばいいのだ。だが強く突っぱねることが出来ない弱さが自分の内側に存在している。それを思うたび、巻島は暗く深い海の底の一点をじっと見つめて沈んでゆく難破船を想像した。自分を鈍重で無力な存在のように思うのは耐え難いことだったが、オメガというのは、元来そういう面を持っているものなのだ。
昨冬、初めて発情期を経験した。
 発情期における身体的な不調は、かつて経験したどの苦痛をも軽々と上回って、巻島の体と心を深く傷つけた。本能に支配されてなすすべもなく体の奥の疼きに耐えるだけの数日を過ごして、巻島はようやく、理解した、と思った。
 オメガとは受け入れる性であり、これに抗うことにはとてつもなく強い意志と力が必要であること。受け入れる相手がいなければどこまでも飢え続け、己を消耗させるだけのものであること。ひたすら耐え続ける苦痛と肉体的な快楽を天秤にかけてみればどちらが楽かは自明のことであり、パートナーのいるオメガは、この苦痛に耐える必要がないのだということ。そして、アルファのつがいを持つことが叶えば、このある意味死ぬよりもつらい発情期そのものが消滅するのだということ。発情期のつらさを知った巻島には、これは、とてつもなく魅力的なことのように思えた。
 保険をかけておくのはそう悪いことではないのかもしれない。そんなふうに、すこしばかり打算的な気持ちがはたらいたのは否めない。巻島の現実主義は母譲りだ。けれどもやはり、跳ね除けきれない自分を客観的に見れば反吐が出そうな気分になって落ち込むし、何もかも嫌になる。考えたくない。
「おまえにわからないんじゃオレにわかるわけねえよな。とりあえずどんな家の奴なんだ? 身上書は読んだんだろ」
「どんなって、……まァ、でけー家の金持ちショ」
 巻島の家は近隣では一番大きく、「巻島さんのお屋敷」などと呼ばれることもあったが、その家は、大きさだけでも巻島の家を軽く上回っていた。
 巻島の両親はそれぞれが会社を経営している。さらには年の離れた兄も海外で成功しているという経営者一家だ。そのような環境に育った巻島は、幼少の頃から周囲と比べても抜きんでて裕福な子供だった。相手はそれを軽く超える規模の、世界的な富豪だ。
「温泉旅館からホテルから、いくつも経営してるところだ。東堂グループって名前、聞いたことあるっショ?」
「おう、なんだ。玉の輿かよ」
「知らねえショ。あっても乗る気なんかねえっつーの」
「なんだ、断るのか? 嫌なやつだったのか?」
「嫌っていうか……」
 あーー、と唸ってがしがしと頭をかき回すと、顔を背けてくちびるを尖らせる。
「つまり、そこっショ。選択権なんざオレにはねえけど、決まってるだの約束だの言ったって、誰も彼も、それが当然だと思ってんの、おかしくねえか? だって、オレっショ。相手にもこの好みっつーもんがあるっショ。顔見て話せば十中八九むこうから断られるに決まってる」
 だから、気乗りはしなかったが、巻島は昨日、ある意味気楽に出掛けて行ったのだ。一度会えば両親の顔はたつ。断らせれば相手の顔もたつ。巻島自身には結婚の予定は変わらずないのだから痛くも痒くもない。そう思っていた。
 そう卑下したもんでもねえぞ、と田所が申し訳程度に励ましをくれたが、自分のことは自分が一番よくわかっている。だから、実際に相手に会いさえすればそれで終わることだと、そう高を括っていた。
 だが、相手の男は、巻島の都合の良い想像などあっさりと覆して見せた。



――――結婚はする。だがおまえを抱くことはない。つがいにもならない。


 バカみたいにきれいに整った顔から、そんな冷酷なセリフが吐きだされるのを、巻島は心を遠いところに置いてきたような気分で聞いた。
 別段ショックはなかった。はっきりアルファと明かされた男と対峙するのは初めてのことだったので、なるほどこれがアルファというものかと皮肉っぽく思っただけだ。
 この世のすべてを意のままに出来るとでも思っているかのような、まっすぐで強いまなざしは、どこか冷たく、他人からむけられる感情に揺らぐことのない心を思わせる。アルファは容姿に秀でたものが多いとされるが、この男も例に漏れずそのようだ。眉目秀麗を絵にかいたような顔は、輪郭にやや幼さを残すものの、全体的に怜悧な美しさがある。凛々しく整った眉の下、濃い青で縁取られた不思議な色合いの虹彩を持つ大きな瞳にじっと見つめられると、特別な感情を抱いているわけでもないのに心臓の動きが不規則になって落ち着かない。
 巻島は困惑を押し隠して男を睨み返すと、へえ、と平坦な声で応じた。
 許嫁とされた男と会うべく訪れたその屋敷は、首都圏から一時間半ほど離れたとある山中にあった。
 簡単な顔合わせを終えると、巻島は正面玄関を出て下駄に履き替え、緩やかな登り坂の小道を、男の背を追って歩いた。
 緑に覆われた片側の斜面から流れ落ちてくるほんのりとした冷気は、地表にわだかまって、爪先からしんしんと染みとおってくる。山深い地であれば、あたりにはいまだ冬の空気が色濃く残っている。春の訪れは、下界と比べてすこし遅いらしい。
「こっちだ」と促されて見ると、斜め前方にやや古びた木造平屋建ての離れが見えた。男は、途中通りがかった建物をのぞいて、なかにいた女性にお茶の用意を言いつけると、巻島を離れに招き入れた。そうして縁側に置かれたソファに座って向かいあうなり、先制パンチのように高らかに宣言したのだ。
「結婚はする。だがおまえを抱くことはない。つがいにもならない」
 いきなりのことに、黙って男の顔を見つめること数秒。言葉の意味を飲み込むのにさらに数秒。巻島はすぐさま立ち去ってしまいたい衝動を肘掛けに置いた手のひらに握りこんで、静かに聞いた。
「ただ結婚だけすんのかヨ」
「そうなるな」
「クハ……物好きすぎっショ。なんのためにだァ?」
 緊張していた自分がバカみたいに思えてきたので、巻島は態度を崩してざっくばらんに言った。すると男のほうも、やや背中を緩めて、窓の外へと視線を移した。
 部屋は畳敷きの、十畳ほどの和室だ。襖で閉じられたむこうには続きの間があり、そちらはおそらく寝室だろう。
 縁側からは、若葉の芽吹きはじめた早春の日本庭園がのぞめる。もとは温泉旅館だったというこの屋敷が東堂家のルーツなのだと聞いた。男の私室だというこの部屋も、おそらく元は客室だったのだろう。庭の左手には露天風呂らしきテラスが見えている。
 ガラス越しに見上げる空は、真っ白な雲に覆われて寒々しい。
 巻島は男の横顔を盗み見た。つるりとしたガラスのような瞳が、春の薄日をうけてなめらかに光っている。
 結婚したところで別段問題もないからだな。巻島に横顔を晒したまま、つまらなそうに冷めた口調で言った。
「その点はおそらくおまえも同じはずだ。オメガとはいえおまえは男なのだし、それでほとんど知らない、好きでもない男の子供を孕むなんて、それこそ嫌なことなんじゃないのか? ふつうなら嫌にきまっている。だからこれは、おまえにとって悪い話ではないはずだ」
 男の心情はまるでわからなかったが、巻島には思いがけない言葉だった。頭からサッと冷や水をかけられたような心持ちで東堂から顔をそむけ、息を止めて目を瞬かせた。頬も耳の縁も目の奥も、炎にあぶられているかのように熱かった。男は落ち着き払ったようすで湯呑みを持ち上げて、静かに茶を啜った。前髪を止めるカチューシャの三日月がやけに白く浮き上がって見えて、瞼の裏にいつまでも残った。
 それが昨日の午後巻島の身に起きた顛末の、おおよそのところだ。


「え、それだけか?」
 巻島の話を聞き終えた田所は、呆気にとられたようにポカンと口を開いている。
「それだけ。ほんと自己紹介程度で、あそこには一時間もいなかったなァ……」
「おまけに、つまり……ん? どういうことだ?」
 それから田所は、棍棒のような腕を窮屈そうに組んで、天井を見上げると、自問するようにそう言った。その気持ちはとてもよくわかったので、巻島はうんうんと頷き、まったくだよなァ、と応じる。
「オレの想定はめちゃくちゃ超えてたショ。話にならねえ」
 巻島はグラスにさしたストローを弄びながら、一番簡単な答えを差し出してやる。
 結果から言えば、一度会えば相手から断って来るだろうという巻島の楽観的な心算は見事にはずれた。許嫁のアルファは今のところまだ許嫁のままだし、挨拶を交わした時点で、巻島の人生に確実に食い込みはじめている。
「正直なとこ、ちょっとグラついたショ」
 巻島の結婚に対する考え方は、これまでと何一つ変わっていない。
 パートナーは必要ない。たとえ困難があろうとも、自分のコントロールできる範囲で、自分の人生を思うままに生きてみたい。本心からそう思う。
 だが昨日のやりとりで、その決意と、もとから抱いていた打算的心情の間に摩擦が生じていた。不意に綻んだ破れ目から、こんな本音をこぼしてしまう程度には。
「あー……そりゃあその、あれか。形だけってあたりか?」
 田所は少し言いにくそうにしながら、巻島の顔色を窺う。巻島は鼻の下を人差し指でごしっと擦り、田所の視線を避けるように顔をそむけて、クハ、と笑った。情けない気持ちでいっぱいだった。
「まァ、やっぱちょっと、な……子供とかムリって思うし。それ考えると女ってすげえよなァ。いざとなったら好きでもない男の子でも生めるんショ? 絶対ムリ。まずそれ以前のことに耐えられる気がしねえ。だから、なんつーか、あーあいつと結婚しとけばそういうのとは無縁でいられんのかもなって思ってヨ……」
 どうせ政略結婚ならば、利用するのもされるのもお互い様だ。そういうふうに割り切るのも有りかもしれない。何を考えているのかはさっぱりわからない男であったが、ひとつだけ、確実にわかったことがある。
 あの男は結婚に夢を見ていないし、パートナーの愛情を求めてもいない。
 同じだ、と思った。夢を見ていないのも、相手を欲していないことも。結婚は義務感となんらかの必要に迫られてのことであって、その相手がたまたま、巻島だったというわけだ。
「何をそんなに急ぐのかわからねえが、相手はオメガなら誰でもいいってことみてえだよな……」
 田所が放ったひとことに、巻島はふっと目を見開く。
「てコトだろうな。それならそれで気が楽っショ。理由なんかどうでもいい」
 巻島が頬杖をついて短く嘆息しながらそう言うと、田所はむうと口をとがらせて黙ってしまった。
 そこでおめえが落ち込むことはねえショと思ったが、口には出さなった。田所にはこのような話は無縁のことだ。田所はきっと、人並みに、自分の幸せのゴールとして巻島の思う「ベータみたいな暮らし」を思い描くことがあるのに違いないし、それが世間一般の感覚というものだ。それを田所が後ろめたく感じるようなことがあってはならない。それくらいのことは、巻島にだってわかっている。
 そしてそれと同じくらい、友達が自分の思い描く幸せな未来とは遠いところにいると知り、それを悲しむ権利が、田所にはある。たとえ見当違いの悲しみであっても、人の気も知らないでと切って捨てることは出来ない。それもよくわかっている巻島には、言葉はもうひとつしか残ってなかった。
「ありがとナ」
「……なんもしてねェよ」
 田所は不機嫌そうに巻島から目を逸らし、短く舌打ちする。巻島がへらりと笑って、お、泣く? 泣くのか? とからかうと、顔を赤らめて、本気のふりをして腕を振り上げて見せて、それでこの話は終わった。会話は自然に、昨日の部活のことへと移っていった。
 田所が帰って自室に一人になってから、巻島はスマートフォンを手に取った。メールが届いているのはわかっていたが、開かずにいったんデスクに置き、着替えてから、ポケットに突っこんで部屋を出た。
 ぴったりと肌に馴染むカラフルなジャージは、サイクルロードレース用のものだ。巻島はロードバイクに乗っている。小六で乗り始めたので、もう五年のキャリアだ。昨日は朝少し流した程度で部活も休んでしまったので、今日はしっかり走らなくてはならない。
 家を出て、繁華街方面に背を向けて田園地帯を二十キロほど走り、峰ヶ山を登る。長く走る予定の今日は、そのままダム方面へ下って、逆方面から戻ってくるコースにしようと決めて、ペダルを漕ぎだした。
 曖昧な色合いの空から降り注ぐ春の光は弱く、午後になっても風は冷たい。山はだいぶ冷えるかもしれない。
 峰ヶ山の入り口に入ると、目の前に数台のロードバイクが先行していた。シッティングのままで、それらを軽やかにパスしていく。抜き去っていく巻島の髪色と白いロードバイクで気づいたらしい何人かが、あ、と声が上げた。
 巻島は、この峰ヶ山で毎年秋に行われるヒルクライムレースのコースレコード保持者だ。昨年の秋に初めてレースに出場して以降、結果を出すにつれて、巻島の名は近辺の山をホームにしている連中の間にゆっくりと広まっていった。気づけば、髪色や山を登るときの深く自転車を傾ける独特のフォームから「ピークスパイダー」などと名前まで勝手につけられてしまっていた。とはいえ山での速さは自負するところだったから、そのふたつ名は勲章めいて巻島の胸に刻まれた。ピークスパイダー。どこの誰だか知らないが、良い名ををつけてくれたものだと思う。
 誰にでもこれしかないと言えるものがひとつだけあるとしたら、巻島にとってはロードバイクであり、登りでの走りだ。
 自転車は自由だ。オメガも、ベータもアルファも関係ない。速いかどうかがすべてだ。これに乗れば巻島は、まわりにいる誰よりも先に山頂というゴールへ到達出来る。先頭を切って、誰もいない景色を一番に見る。それによって得られる快感の存在を、巻島は自転車の上で知った。
 この気持ちは、たくさん持っている連中にはきっとわからない。そう思ったとき、なぜか昨日会ったアルファの男が脳裏をよぎった。巻島は驚いてぷるぷるとかぶりを振った。あいつがどうだろうと、自分とは関係ない。
 しかし、このままでは、巻島の方から何某かのアクションを起こさない限り、あの男と結婚することになってしまう。今もって実感は全くなく、実感がないせいで、「何某かのアクション」についての具体的な案がまるで思いつけない。
 厄介なのは、田所に話したとおり、心の底から嫌だと思えなくなっていることだった。
 男は、東堂の姓になるというだけで必要以上に制約を設ける気はないから、何でもしたいことをすればいい、と言った。
 許可を出されているように感じて素直に受け取ることは難しかったが、こと結婚の条件という一点に絞って考えてみれば、それも悪くはないように思えてくる。古今東西のオメガの結婚話においてはまず考えられない条件だからだ。想像だが、これを提示されれば二つ返事で頷くオメガは多いのではないだろうか。おそらくは不快な行為も、余計なプレッシャーもなく、好きなことをして暮らす。ある意味理想的だ。そのすべてがあの男がかりであるという一点を除けば。
 だがその一点についても、結婚に夢を抱いていない人間であれば目をつむることは容易い。この話に頷くことなど簡単なはずだ。
 巻島にとって一番の厄介は、自分の心の奥にあった正真正銘の本心に、薄っすらと気付いてしまったことだった。
 結局のところ自分は、けっして手に入らない「ベータみたいな暮らし」を、未練たっぷりで諦めているだけなのかもしれない。要らない必要ないと目を背けているのはただの強がりで、好きな相手と思い合って暮らす未来を、本当のところでは諦めていないのかもしれない。
 恥ずかしかった。巻島は結婚しないという決意を高らかに公言したことがあるわけではなかったし、具体的な未来設計について人に語ったこともない。それでも、ただただ恥ずかしくて、考えるだけで赤面してしまう。
 山頂を越えたところにある駐車場で自転車を止めた。巻島が抜き去った連中はまだはるか下だ。
 ケージからボトルを抜いて口をつけ、半分ほど残っていたのをすべて飲み干すと、駐車場の自販機にむかった。ドリンクを買ってボトルに移し終えると、再び自転車にまたがる。その姿勢で、巻島は背中に入れていたスマートフォンを取り出し、受信フォルダの一番上にあるメールを確認する。
 東堂尽八。
 現在のところ、許嫁である男の名だ。
 許嫁としてあらわれた初対面の相手を堂々と値踏みしていた、あの冷徹な目つきを思い出す。眉間にはずっと皺がかすかに刻まれたままで、巻島の一挙手一投足を不快そうに見つめていた、あの目。
 昨日、彼の私室を辞去する前に提案され、しぶしぶではあったが電話番号とメールアドレスを登録していた。あんな目をしておきながら、来年の夏には結婚することになるのだからお互いを知る努力をするべきだなどというセリフをしゃあしゃあと吐いてみせる東堂という男のことは全く理解不能だったが、断る文句を考えるのが面倒だったし、どうせ連絡など来ないと高を括っていた。巻島は自分の油断と見通しの甘さを嘆きたくなったが、今さら悔やんでも始まらない。
 何が書かれているのだろう。おそるおそる開いてみる。挨拶と、昨日の礼と、巻島のようすを気遣う当たり障りのない文面。だがそのあとに続く一文に、驚きのあまり一瞬呼吸が止まった。
―――夏休みに一週間ほど、こちらで過ごすのはどうだろうか。前向きに考えてみてほしい。
 冗談じゃない、と思った。けれども、一方ではなかなか魅力的な誘いであることは否定出来ない。そのことに、すぐに思い至った。
 東堂の屋敷は山の中にあるからだ。あそこを拠点に出来ればあたり一帯の山は登り放題だろう。根っからのクライマーである巻島としては、山と見ればどうしても登ってみたくなるし、手強い山ほど捻じ伏せがいがあって燃えるものだ。あの山はそういう山だった。車中から見たいくつかの道の様子を思いだし、そこを走る自分を想像する。
「うーーーー……」
 頭を掻きむしろうとしてヘルメットに指がぶつかった。あー、とさらに呻きながら跨った自転車のハンドルに突っ伏していると、ようやく山頂へたどり着いたらしい後ろにいた数台の連中が息を切らしながら駐車場へと入ってきた。
「お、ピークスパイダー」
「さすが速いねえ。噂には聞いてたけど、本当にすごい登りだな」
 彼らはどうやら社会人らしかった。よく見ればかなり年長だ。自転車仲間には垣根がないタイプのようで気さくに話しかけてくる。
 こういう雰囲気が、巻島は苦手だ、どうも、と呟いてぺこりと頭を下げてペダルに足をかけ、脇をすり抜けるべく踏み込む。
「あれ、行っちゃうの? なんだよ〜」
「おじさんたちに登りのコツを教えてくれよ」
 ワハハと笑う声が背中に貼り付くようで不快だった。馬鹿にされているわけじゃないのに、なぜかそんな気分になってしまう。堂々としている大人はそれだけで苦手だ。田所あたりにはいつも気にし過ぎだと笑われてしまう物慣れなさは、巻島の数あるコンプレックスのなかの大きなひとつだった。
 ペダルを回してスピードをあげて、あの人たちがUターンしてくれたらいいなと願いながら坂を下った。出来ればもう会いたくない。
 唸る風で両耳を塞がれながら、巻島は、たとえばあの男ならこのようなときはどういう反応するのだろうと考える。適当な受け答えで笑いながら去るのか、それとも、皮肉を込めてやり返すか。どちらかといえば後者のような気がすると考えたとき、口元が緩んでいることに気づいて、ぎゅっと引き締めた。
 そのとき、あの澄ました顔はいったいどんなふうに変化するのだろう。あれ以外の表情なんか想像がつかない。そもそもあるのだろうか。あったとして、それを巻島が見る日は、はたしてやってくるのだろうか。
 順調にコースを辿って家に戻り、シャワーを浴びて、部屋へ戻る前にキッチンに顔をだして、母親に夕飯何と聞いた。クリームシチューだという。シチューは好物なので、少し気分が高揚する。
 階段を上って、部屋の真ん中のクッションに腰を下ろして胡坐をかくと、スマートフォンを前に置いてドライヤーを使った。
 髪をしっかりと乾かし終えて、さらにきっかり三分悩んでから、巻島は返信のメールを打った。




 盛夏を迎えて、森の木々はいっそう力強く生い茂り、強い日差しを受けて、あたりに黒々とした濃い影を広げている。
 巻島は正面玄関に向かう階段の下に立って、屋敷の威容すべてを視界におさめる。
 東堂が差し向けた迎えの車は、裏の駐車場へと走り去ってしまった。ここまで来てしまえばもう腹を括るしかない。巻島はいやいやながらも輪行袋を肩に担ぎなおし、一段目に足をかける。
 お盆があけ、夏休みの残り日数が気になる八月下旬になって、巻島はようやく山の屋敷へとやってきた。
 東堂と会うのは春以来だ。
 ときどき思い出したように、巻島のようすを気遣うメールがぽつぽつ届くので、それに合わせて似た内容のメールを返しはするが、巻島からコンタクトを取ったことはない。
 電話は昨晩はじめてかかってきた。名前を見た瞬間、驚いてスマートフォンを放り出しかけた。三か月ぶりに耳にする東堂の声に聞き覚えはまるでなかった。巻島は戸惑いながらもなんとか挨拶を交わし、予定の確認と、駅まで迎えを差し向ける旨を伝えられ、了解とこたえた。そして、それだけではまずいかと思い、最後に、世話になるがよろしく頼むとつっかえながらもどうにか告げると、少し躊躇うような間があって、待っている、と聞こえた。
 ようするに、東堂と巻島の間柄は春からひとつも変化しておらず、今日が二度目の初対面のようなものだった。巻島は春と同じかそれ以上に緊張していたし、本音を言えばこのまま回れ右をして逃げ出したいくらいだ。幸いロードバイクは肩にある。組み立てて延々漕いで行けば、いつかは家に辿りつける。
 さく、と玉砂利の擦れる音が頭上で鳴った。顔を上げると、すっきりとした姿勢の良い男の姿が、太陽を背に受けて黒々とした影をまとって、階段の最上段に立っていた。
「よくきたな」
 白い半そでのシャツが光って眩しく、巻島は左手を目の上にかざす。降りてくる気配はない。なるほど、と思い、一つ頷いて輪行袋を担ぎなおすと、階段に足をかけた。
 隣に並ぶと、おじゃまします、と言って小さく頭を下げた。東堂は軽く顎を引いて応じると、ついて来いと言ってすぐに背中を向けた。既視感しかない。巻島は半笑いでそのあとに続いた。
 この場にいる限り、巻島にはほかにやりようがない。東堂がやれといったこと、こうしたらいいと言うことに、わかった、と言って頷くだけだ。そういうふうに振る舞う以外、情けないことにどうしたらいいかわからない。
「それは」
 東堂が前を向いたまま言う。
「自転車だな」
「……あ」
「問題ない。部屋は眺めの良い四階の間を用意したから、それは一階に置き場所を作るよう指示しておこう。まずはそこに置いておけ」
 そう言って人差し指で鉤を作り、左手の空いたスペースを差した。巻島は礼を言ってバッグを肩からはずすと、そこへおろす。東堂はすぐに、こっちだ、と言って玄関に上がった。
 案内された部屋は、四部屋あるなかで一番広い奥の間だった。入り口にぼうっと立ちすくむ巻島の耳に、スイートだったのだ、という声が届く。
 正面の開け放った窓から、太陽の匂いの濃い風が緩やかに吹きこんでくる。眼前に広がる空の広さと青さ。重なり合う山々の深い緑。巻島は吸い寄せられるようにふらふらと進んでテラスに立った。
「すげえ」
 二間に続く広めのテラスからの眺望は見事のひとことに尽きた。春夏秋冬いずれの季節にも極上の景色を楽しむことが出来そうだ。
「そうだろう。気に入ったか?」
「ああ、いい部屋ショ。ひとりで使うのがもったいないくれえだ」
 十畳の和室に、八畳のベッドルーム、それに、広めの内風呂がついている。
「なにしろ有り余っているのでな。おまえ以外に宿泊客のいない宿というわけだ」
 いまは東堂の屋敷になっているが、もとは百年以上続いた歴史ある温泉宿だった建物だ。すべての部屋を使うことはめったにないだろうが、屋敷を維持するために最低限必要な人数はそろっているようだった。
 巻島がもっとも驚いたのは、大浴場がそのまま使用可能ということだった。内風呂のついていない客室もあるからだ、と東堂はこともなげに言った。そんなに多くの人間がこの屋敷に集うことがあるのだろうかと考えていたら、正月あたりは大変なことになるな、と、巻島の頭の中を読んだように東堂が言った。
 到着した当初から気になっていたことがあったのだが、案内されて館内を見てまわるうちに、はっきりと疑問に思い始めたことがあった。なので巻島は、はじめて先を歩く背中に。自分から声をかけてみた。
「な、なあ」
「む?」
 東堂が振り向く。カチューシャで止めた長い前髪の先端が、頬の先で揺れた。
「あー、あの、その、えっと、お、お母さんは? 今日は留守なのか? あ、挨拶しないでいいのかって……」
 母親から預けられた手土産も、まだ荷物の中にしまったままだ。
「ああ、留守といえば留守だが……そもそも、ここには家族は誰もおらんよ」
「へ?」
 大浴場から玄関へと戻り、すぐ横にある応接間室のソファに、向かいあわせで座った。春に来た時にも最初に通された場所だ。もとはラウンジだったのだと聞いた。温泉から部屋へ戻る途中にあり、喉を潤しながら談笑するのにうってつけのスペースだ。
 東堂は少し迷うように何度か唇を動かして、ここに住んでいるのはオレ一人だ、と言った。
「通っている高校が近いのでな。家族というか、一族はみな都内に住んでいる。知らなかったのか?」
「知らなかったショ……」
 なんと言えばいいのかわからなかったので、そのまま答えた。巻島の表情から何を読み取ったのか、東堂は顎を上げてニヤリと笑った。
(笑った)
 嘲笑に近い笑みではあったが、東堂の表情が崩れるのを目にした驚きの方が勝って、巻島はいっそ笑い出したいような気持ちで、その顔を眺めた。
(なんだ……違う顔もできるんじゃねえか)
 東堂は巻島の内心になど少しも気づいていないようすで、ゆっくりと瞬く。
「一人ではあるが、友人たちもいるし、幼いころから面倒を見てくれているものも何人かいるのでな、不自由はない」
 ひとり。たしかに不自由はないだろうが、それで済む話なのだろうか。学校が近いというのはたしかに理由の一つではあるだろうが。
「高校に入ってからずっとってことか?」
「いや……というか、オレはここで育ったのだ。一昨年までは祖父がいたのだが、他界した。以来ひとりというわけだな」
 そこまで聞いて、ようやくあっと思った。知っていたのに迂闊だった。そもそも先だっての顔合わせ自体、喪が明けたからという理由で行われていたのだった。
 東堂グループの総帥だった東堂の祖父にあたる人物は、早逝した息子に良く似た孫息子を溺愛していたという話だった。東堂の婚約もすべて彼が手配したことだ。巻島など、その祖父の指先の動きの余波で転がされて巻き込まれているに過ぎない。
 東堂の許嫁候補は巻島のほかに二人いたのだと、顔合わせのあとで両親から聞かされた。
 東堂の家とそれなりにつりあいの取れた家柄で、両親ともアルファであることが条件で、そこに生まれたオメガのうち、東堂が十八になったときにちょうど良い年頃のものを許嫁と出来るようしっかりとした根回しと取り決めが行われていた。東堂が十三歳になった頃の話だ。
 さらに、巻島が許嫁になった理由は一番年が近かったからなのだとも教えられた。拍子抜けもいいところだったが、かえって納得できた。ついでに、両親の考える息子にとっての良縁とはこれなのだと知れたことは収穫だった。
 東堂はそのあたりのことをどう考えているのだろう。祖父が亡くなっている以上、この取り決めの効力は多少なりと薄まっているのではないか。東堂が望めば、破談にすることも可能なのではないか。破談としない以上、東堂はこの婚約を望んでいることになる。だとしたら、理由はなんなのか。
 そういったことをこの滞在の間に訊ねる機会はあるだろうか。考えてみて途方に暮れた。相手の話を聞きだすだとか、懐に入り込むだとか、その手のテクニックとは数百万光年離れたところに生きているのが巻島だ。下手なことを言えば墓穴を掘りかねない。
 アイスティと茶請けが運ばれてきたので、礼を言って受け取り、ストローを口に含んで、ホッと息を吐く。柑橘系のフレーバーには山と空を縦横に駆ける夏の風のような清涼感があって、後ろ暗い思考でよどんだ周囲の空気が払われていくようで、すっきりする。
「まあ、母も姉も好きな時にやって来てはなんだかんだと煩くしていくし、オレはこれで案外楽しくやっているのだ。だからおまえも、ここにいる間は好きなことをして、せいぜい気楽に過ごすといい」
「気楽ねえ……」
 目玉をくるんと天井にむけて考えてみたところで、巻島に出来ることなど、自転車を除けばせいぜい夏休みの課題とグラビア鑑賞くらいのものだ。
「言っておくが、逃げ帰るのはなしだぞ」
 思いついた途端に見透かされ、釘を刺された。抜かりがない。では家に帰る以外ではと考えて、ひとつだけひらめいたので、ためしに聞いてみることにする。
「一日風呂入って寝て起きてって、温泉宿にいるみたいにしててもいいってことか?」
「無論かまわん。うちは宿としても極上だからな。存分に味わうといい」
「クハ。マジかよ」
一泊二日じゃない。七日間の逗留だ。そんなことを試す機会などそうそうあるものではない。
 喜ぶ巻島の顔を見てふうん、と鼻を鳴らす東堂の視線には、すこしばかり呆れの色合いが混ざっているように感じる。
 表情の変化が少しずつ分かるようになってきた気がする。東堂の内面の変化によるものか、巻島が慣れて読み取れるようになってきたのかはわからなかったが、そうなれば思うこともまた違ってくるものだ。
 あーこいつ、サボるやつとか嫌いそうショ。どうでもいいやつなら存在を抹消して終わりってとこショ。つまりそうやって嫌われて結婚がなくなるというパターンへ進む可能性もゼロではないわけだ。ならばめいっぱいぐうたらするに限る。巻島がそのような不埒な考えに耽っていると、東堂が急に、よし、と大きな声で言った。
「何をしてもかまわんが、ひとつだけ、滞在中守るべき約束事を作ることにしよう」
 どんな無理難題を言われるのかと顎を引いて身構える巻島に、東堂はゆったりと笑いかける。巻島は息をのんだ。さっきの嘲笑とはまた違う、一見穏やかな微笑は、まるで周囲に鉄柵をはりめぐらせた強固な檻そのものだった。巻島はその奥に獰猛な生き物の気配がたちのぼるのを感じ取り、背中がピンと固くなった。
 巻島の懸念をよそに、東堂は前髪をつまんでサッとかきあげ、なに簡単なことだ、と低い声で呟いた。
 




 ぼさぼさの頭でのそりと席に着くと、正面にはこぎれいに身支度を整えた涼やかな顔つきの男がすでに座っている。
 今朝は洋食だった。卵はいかがいたしましょう、と訊ねられたのでスクランブルにしてもらう。
「おはよう。今日もよく眠れたようだな」
「あー……、うん。ハヨ」
 ちょうどよくカリッと焼けたトーストをかじり、紅茶を口にふくむ。冷たいドリンクにミルクを選び、オレンジとグリーンサラダ、ベーコンと、目についたものから順番に口へ運ぶ。手と口を動かしているうちに、段々頭がはっきりしてくる。
「少し朝が弱すぎるんじゃないか?」
「食ってるうちに覚めてくるから問題ないショ」
 東堂の屋敷にやってきて三度目の朝であり、東堂と朝食をとるのも三度目だ。挨拶をするときだけ、東堂はすこし柔らかい笑みを見せるようになった。
「問題ないとは思わんが……まあいい。それで、今日は何をする予定だ?」
「まだ決めてねえけど」
 左側の窓から朝の光が差し込み、二人用のダイニングテーブルを白く染め上げる。森の静けさが壁もガラスもすり抜け、部屋の隅々までを覆っていく。
 鳥のさえずりが聞こえる。
 人の気配はほとんどない。
 光はふんだんに溢れているのに、部屋の中を見渡せばところどころに暗がりが落ちていて、それは古びた木の匂いの中に閉じ込められ、流れる先を失った時間のようだった。それがそこにあって、この空間を、ひっそりとした静かなものにしていた。
 東堂がマグカップを口許へ運ぶ。半袖から伸びたしっかりと引き締まった腕に、金色の産毛が光っている。
「このあと少し休んだら走りに行く、かな。昼飯には戻るショ」
 温泉に入ったり出たりしてぐうたらと昼寝をするという過ごし方には、初日の午後で飽きてしまった。翌日の午前には課題をやって、午後は少し走りに行った。昨日も同じ過ごし方をしたので、今日は少しは変えてみるのもいいかもしれない。
 東堂はカップに口をつけたままちらりと目を上げて、了解したと言うようにちいさく頷く。
 周辺をざっと走ってみたところ、予想通り、近隣の山はそうとう登りがいのある良い勾配を備えていた。
 実際に坂を目の前にすれば自然とクライマーの血が騒ぎだす。抑えられず、飲み干すように貪欲に登った。途中行きあったローディ達が巻島の風体やフォームに目を剥くのをしばしば感じたが、そういった視線には慣れている。巻島は適当に受け流し、絡んでくるものは容赦なく払い落として、いずれの坂も自らの持つ最速でねじ伏せたつもりだ。
 登っていない場所も、攻めきれていない場所もまだまだ豊富にある。滞在している間に何度登れるかと思うと胸が躍った。
「では、昼食は戻ったら一緒に摂ろう。厨房にそう言っておく」
「……ショ」
 巻島は、二つ目のトーストに齧りつく。
 東堂の提案した約束事は「朝食は必ず自分とともにテーブルに着くこと」だった。昼や夜は、動いていれば間に合わないこともあるだろうから無理にとは言わないが、家にいれば同席する。昨日の昼を外で済ませた以外は、今のところそれに従っている。特に反論もないし、どうせ食事はとるのだ。食事中、会話の内容は取るに足らないことばかりだが、とくに不愉快ということはない。親しみはさほど感じないが、客としてもてなされている感はあった。
 東堂については、相変わらずよくわからないままだ。
 午前中はどこかへ出掛けているようだったが、午後になると自室である離れに籠っている。特に訪ねてくるなとは言われていなかったが、訊ねる理由もないので、何をしているのかは知らない。
 初対面の時の東堂には、巻島を立ち入らせまいとするような頑なな雰囲気があったが、今回はそのような感じはない。しかし距離感は平行線だ。ただ、巻島の行動に一切興味を覚えていないようすなのは、見ていてよくわかった。この滞在の気楽さの源は、おそらくはここにある。
 万が一この男と結婚する事態になれば、こんなふうに暮らすようになるのだろうか。大きな浮き沈みもないまま、淡々とした日常を繰り返すことに、なるのだろうか。未だ現実感はないものの、巻島としてはそういった未来に思いを馳せずにはいられない。東堂は巻島をつがいにはしないと言っていたし、何より、抱かないと明言している。そうなれば、こうしている今のこの関係が、この先変化していくことはないのだ。
 まだたった二日だが、巻島にはそのような想像はすでに容易だった。
 そんなはずはない。これから何かが変わる可能性はきっとある。この男の、もっと別な面を見つける機会だってあるに違いない。いずれその面を見つける時がきたら―――
 というところまで考えて、巻島はプツリと思考を停止した。紅茶をソーサーに戻し、背凭れに体を預けて、テーブルの真ん中に配置された夏の花のアレンジメントをぼうっと見つめる。
(あぶねー……ショ)
 巻島は結婚など絶対にしないし、東堂はいずれ婚約を破棄した時点で縁の切れる相手だ。なのに、気がつけば結婚を前提にして観察していることがしばしばある。そのたびに困惑し、いったいどうしたいのか、どうするつもりなのか、自分のことなのに全然わからなくなる。
 ほとんど会話もないままでむかいあって黙々と食事をするのは多少気づまりではあったが、手と口を動かしていれば皿の中身はきちんと減ってゆく。食事は文句なしに美味く、東堂は健啖家だった。丁寧な美しい仕草で、無駄なく食事を平らげてゆくのを見るのは新鮮で面白くもあったが、東堂が巻島を前にして抱いているであろう心情については、まったく不明のままだ。
 会話のない二人の食事の時間は、必然的に短い。ごちそうさまと言って席を立てば、東堂は追いかけることも引き止めることもなく、「お粗末様」と淡々と返すのだった。

サンプルなのです。参考までに、この先を読みたいとか全然読みたくないとか、なんでもよいので、コメントなど頂けると有難いです。 → 
あと書きっぱなしで上げているので、誤字脱字に関してはご容赦ください。もしあったらこっそり教えていただけるとありがたいです……(16/3/28)
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