きれいじゃないこと

 小田原で電車を降りて駅前で自転車を組み終えると、箱根方面へむけてゆっくりと走らせた。
 巻島の地元から小田原までの二時間半、電車に揺られているあいだずっと、頭の中はからっぽだった。
 考えるべきことが何もなかった。巻島とはもう今後ずっと、頻繁に行き来するなどということはかなわないのだという漠然とした予感だけがあった。
 昨日の昼間、東堂は巻島から、渡英について初めて聞かされた。珍しく電話がかかってきて、何事かと喜んで出てみればそんな話で、頭のなかが光で焼けたみたいに真っ白になった。
 それからずっと、脳裏にはさまざまな言葉が渦巻いて、昨夜はほとんど眠れなかった。だから電車で少しでも眠ろうと思ったのに、行きも帰りもいっこうに眠気のおとずれる気配はなく、東堂は、ぼんやりと車窓を眺めていることしかできなかった。言葉にするなら、これは寂しさなのだった。けれどこれまでとなにかが大きく変わるわけじゃない。だからこそ、この寂しさはひとつじゃない。こころの中のあらゆる場所からつめたく染みだしてきて、東堂の内側を水浸しにしている。
 ペダルの回転数が上がり始めたとたん、汗が噴き出してくる。
 東堂はボトルをとってドリンクを口に含んだ。朝用意したものは千葉ですべて飲んでしまったから、ボトルを満たしているのは駅であたらしく買ったスポーツドリンクだ。
 前方に広がるもくもくとした雲はやや灰色にくすんでいた。雨になるのだろうか。西の空に広がる薄い赤味がそこへ滲んで浮き上がり、薄暗い影をきわだたせる。
 千葉へむかおうという明確な決意はついに持たないまま、窓に差し込む朝の光に引きずられるように寮を出、自転車にまたがった。どこへむかっているんだろうと自問し、おそらく千葉へむかうんだろうと感じながら、手足を動かした。体と心が遠く離れてしまったような、ふわふわとした乏しい現実感のなか、東京行きの電車に乗った後もまだ、行き先は半信半疑のままだった。
目の前にあの姿を、じかに置くまでは。
 汗が、路面に滴り落ちる。
 白いフレームが夕日を受けて時折まばゆい光をはなつ。タイヤは的確にアスファルトを掴んで前に進む。進んでいるうちに、目的地はむこうからやってくる。近づいていく。そうして、幻のように遠かったものをいつしか引き寄せる。
 海のむこうのものも、そんなふうに引き寄せられたらいいのに。
 この山のむこうに、そういう景色が広がっていたら、いいのに。
 東堂の内側にたまったものが流れでて、滴り、アスファルトに黒いしみを作る。


 寮に戻る前に、温泉街の中にある実家に寄った。薄赤く空を染める日の名残りは山間に入ってからいくぶん頼りなく、夜をむかえても交通量の減る気配のない旧街道を登るのがわずらわしく感じたからだ。
 あとすこししたら空くだろうにと家族は呆れぎみに言ったが、それは東堂にもわかっている。
 帰りたくなかったのだ。
 帰って、この顔を、寮の連中に見られるのが、嫌だったのだ。
 家族にだってもちろん気まずいが、真っ先に笑い飛ばすだろう姉は不在で、母親は、軽く眉を浮かせただけで何も言わなかった。
 忙しい時間帯であれば、緊急の用もなく手伝うでもない長男にかかずらっている暇などないのだ。そういった放置が、この際はありがたかった。
 目の周りはすっかり熱を持ってしまっていた。このままでは瞼が腫れ上がってしまう。冷却シートはあっただろうか。なければ氷だな。つらつらと思考しながら、東堂は実家にある、家族用の風呂にどぼんと入った。旅館にあるものほどではないが、石づくりの大きめの浴槽がしつらえてある。天井から床までの大きなガラス窓の外には日の差し込む坪庭があり、木造りのデッキになっているそこにはもちろん出入り可能で、一般家庭の風呂としてはなかなか贅沢な空間だ。湯は常に滔々と注がれ、いつでも好きな時に入ることができる。家の者の特権だった。
 頭の上まで湯に入ると、目尻からべつな水分がゆらりゆらりと溶け出していく。あんまり止まらないので、どこか壊れてしまったのじゃないだろうかと心配になる。
 涙が。
 とまらないぞ巻ちゃん。おまえのせいで。
 でも、そんなことは言えなかった。それを別れに際して口走るような精神をみっともないと捉える矜持に、屈した。
 本当は言いたかったんだろうか。
 言いたくないと思って、前歯を噛みしめて相手に叩きつけるのを堪えたあの感情について、本当は。
 ゆらゆらと揺れる細い体を睨みながら登った。
 不自然に軋む金属音を耳で掴みながら、前を走った。
 体をぶつけ合って前に出ようともがいて、憎んで憎んで、最後には喜びと相手への感謝で胸がいっぱいになるような、そういう……
 ―――そういう、相手を、オレ以外に見つけないでほしい。
 オレと走った時に見せたあの顔を、他の誰にも見せないでほしい。いつだって走るときはオレを思っていてほしい。そんな醜い独占欲が、さまざまな感情の一番真ん中で、不穏にざわめいている。
 お前は俺のライバルだ、と告げることは、巻島に役割を与えることだった。懇願ではなく要請だった。命令でも、あったかもしれない。巻島がどう受け止めていたにしろ、東堂にとってはそうだった。巻島は逆らわなかったし、いつだって従順に、ときに意表をつきながら、東堂の希望の通り常にそばにいて、走った。
 今はもう、そんなふうに思えない。
 巻島は行ってしまう。東堂がいくら命じようと、気持ちだけもらっとくショ、などという軽い言葉ひとつで、簡単に離れて行ってしまう。
 置いていかれるのだ、という絶望にも似た気持ちが、どんなに否定しても、胸の内側にべったりと貼りついて剥がれていかない。
 頭を出して、ぷはっと息を吸った。大きく吐き出し、仰向いて硬い石の縁に頭を預ける。
 外はまだ薄明るい。いつまでもいつまでも未練たらしく空に縋る夏の日の長さが、なんだか疎ましく思えてくる。
 巻ちゃん。
 胸の中で呟くだけで、ぎゅうっと心臓を掴まれるように痛む。
「……まきちゃん」
 声はうわん、とかすかに反響し、湯気の中に吸い込まれた。
 わからなくなってしまった。自分が一体、巻島に何を求めていたのか。
 敵であり、友であり、差し出した分だけ返してくれる鏡であり、圧倒的な幸福感をつれてくる媒介だった。それは今も変わらないし、これからも変わらない。
 でも、これだけでは説明のつかない独占欲に、ふとした瞬間支配されそうになる。意味の分からない衝動が喉を突き上げ、それが噴き出して、両の目から溢れてくる。今朝方、考えの定まらない東堂をふらふらと動かしたものの正体が、これだ。
 だがそればかりじゃないな、と東堂はさらに奥にある焦燥の存在にも気づいている。
 オレ以外にそういう相手を見つけて、そうして、巻ちゃんがオレを忘れてしまったらどうしよう。もっと大事な存在が現れてしまったら。そういう、巻島の中の自分の存在が薄れてしまうことを恐れる、子供じみた独占欲から派生した不安が、不意に胸を締めつける。
 だからなんだというのだと、理性はあっさり告げてくる。全部わかっている。今だけだということも。時がたてば、この焦慮も憂鬱も、一時の感傷と笑い飛ばしてしまえる日が来るということも。
 同じだけ、巻島も忘れてしまうのだということも。
 堂々巡りだなあ、と溜め息をつくと、ようやく少し笑えた。
 巻島はこの、自分の胸の内に巣食う醜さには気づいていないだろう。それでよかった。見せたくはなかった。巻島には、きれいなところだけ見せていたかった。異国の地で自分を思うときには、山を目指してまっすぐに進むラインを、この背中を、真っ先に思い出してほしかった。
 それでも、と。
 溜め息まじりに夢想することをやめられない。
 この気持ちを正直に訴えたときに見せただろう巻島の表情を。
 閉じられた瞼の薄さに一瞬胸を騒がせた衝動と、うすくひらいた唇のやわらかさについて、ほんのすこし、考えたことを。
 違和感が、まったくなかったことを。
 耳の内側がカッと熱くなり、東堂はふたたび湯にもぐった。
 湯の中には、照明の柑子色が入り込んでゆらめいていた。その淡い光にまねかれるように、東堂はたしかにそのとき、何かを解放していた。そうしてあらわれたその存在を凝視し、確認し、のみこんでいた。
 涙を絞りきったあとにあらわれたものの正体を恐れることは、もうなかった。東堂はああそうかとそれだけを思い、そっと、湯の中に吐き出した。
2014HARUコミ・無料配布ペーパー(14/3/23)
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