君の部屋まで

 小さなスイッチの音が遠くに聞こえ、瞼の裏側がほんのりと明るむ。
 巻島の住む部屋には間接照明がいくつか配置されている。今ついたあかりはソファの脇の、床上から壁の半分の高さまでを程よく照らす、オレンジ色のライトだろう。地球儀くらいの大きさで、球面を覆う無数のアクリルビーズが光を通してそれはきらびやかで、巻島の趣味がよく反映されたしろものだ。
 半ば覚醒し、あとの半分は水底に溜まった泥のように重ったるい。そしてクリアになった半分のおかげで、睡魔とともに薄れかけていた厄介な胸苦しさが喉を突き上げてくる。頭部の鈍痛。至近距離でフラッシュをたかれたみたいに、瞼の裏がチカチカする。
「うう、」
「起きたか」
「ううー……」
 眉間にぎゅっと皺を寄せて目を強く閉じ、胸の上を拳で強く抑えながら、東堂はふいの嘔吐感をやり過ごした。
「飲み、すぎ、た」
「見りゃァわかる」
「……あ、」
 ひたりとあてられた冷たい感触に、東堂は眉間を和らげた。きもちいい、と小さく呟く。
「飲めっショ」
 ふわりと、水の透明な匂いがした。風呂上りだもんな巻ちゃん、と思い、東堂は目を閉じたまま左手を伸ばした。ペットボトルの表面についた水滴がてのひらを濡らす。静かな部屋にプラスチックのパキリと鳴る音が響いた。
「すまんな」
「まったく。たいして強くねえのに、調子にのりすぎショ」
 すたすたとソファに向かい、腰かけると、巻島はバスタオルで髪を拭いはじめる。
 東堂は薄目を開けた。スリッパを履いた足が視界に入る。筋張った甲と踝、まるい踵と、順繰りに眺める。
 巻島は丈が短めの薄手のローブにハーフパンツという格好で、撓んだ合わせ目にのぞく薄い胸が、ぼんやりした明かりの中でなめらかに光っている。ローブはシルクだ。初めて借りたときにその着心地の良さに驚いて以来、風呂上りには勝手に巻島のクローゼットから取り出して着ている。
 今はとても、風呂に入る気にはなれないけれど。
 自転車部の先輩に呼び出され、女を紹介すると約束するまで返さないなどと絡まれて、しぶしぶ深酒をする羽目になった。大学生になって覚えた酒は、弱くもないが強いと言えるほどでもない。
「すまなかったな巻ちゃん、いてくれて助かった」
 自分の部屋へ四十分以上電車揺られて帰る気にはとてもなれず、酒を飲んでいた繁華街から電車に乗らずにゆける場所に居住する巻島にメールを打った。朦朧としながら。何とかたどり着けば部屋の鍵は開いていたが、あるじの姿はなかった。
 巻島は東堂を斜めに見下ろす。無言で。
 雨が降ってきたから。終電が行ってしまったから。疲れたから。よっぱらったから。
 だから巻ちゃん泊めてと、いったい何度ここを訪れたことだろう。
 東堂は寝転がったまま、ペットボトルのキャップを外し、器用に口をつける。一時の清涼で酔いが醒めるわけではないが、ムカつきは幾分おさまった。
「いなかったらどうする気だったんだヨ」
「いるさ、巻ちゃんは」
「わからねえショ」
 立ち上がり、巻島はベッドルームへ向かう。何をしに行ったかは、見なくても聞かなくてもわかる。
 東堂はのろのろと起き上がった。目の奥と、頭の真ん中がずきずきと痛んだが、額や頬は大分冷たくなってきていた。呼吸も楽だ。
 四つんばいでずるずるとソファに近づき、片手を支えにして、体を持ち上げた勢いのまま転がった。仰向けになってふうと息をつくと、巻島がベッドルームから出てきた。
 ぱさり、とあたたかくてやわらかな布が上から降ってくる。
「巻ちゃんちの毛布はいつもいい匂いがするな」
「ほとんどおめえの匂いだよバァカ……よっぱらいは早くねるショ」
「おやすみ巻ちゃん……鍵、開けといてくれてありがとうな」
 頭上から小さなためいきが聞こえた。それから少しして、ドアが静かに閉じる音がした。
二人とも多分、大学で自転車競技部にいるんだろうなーとぼんやり思っている程度。半分パラレルかもしれません。合宿所とか強制だったりするんですかね?大学の部活の事とかよくわかんないんですけども。(10.10.24)
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