かたむく

 風向きが変わったような気がして東堂は顔を上げた。
 きょろきょろと周囲を見回したが、とりたてて変わった様子も窺えない。新規に来店した客でもあったのだろうとカルピスサワーの入ったジョッキを持ちあげて口をつける。
 狭い半個室で両脇と肩をすりあわせながら、男三人女三人という組み合わせで、かれこれ二時間ほど飲んでいる。ハタから見れば合コン以外のなにものでもない。だが東堂はいい加減退屈し始めていた。
 もともと友人が目当ての女と飲みたいといって画策したのに借り出されたような席な上、女のうちのひとりが知り合いだった。はじめから期待もなければ、適当に過ごしてさっさと引き上げるのが上策だ。
「ひどいのよ、私のなにが悪いって言うの。あっちの方がよっぽど……」
 そう考える耳もとで同じ話をループし続ける甘ったるい声。東堂は気付かれない程度に、うんざりと片方の眉を引き攣らせる。
 彼氏と別れたばかりだという知り合いの女は、酔いがまわってしまうと、東堂の隣から動かなくなった。あとの二人では物足りないと判断したのか、友人は東堂相手に愚痴をこぼすことでこの飲み会をやり過ごすことに決めたらしかった。
 内容は聞いているようで聞いていないためあやふやだったが、ちょっとした嫉妬から亀裂が入って相手を信じきれなくなって、というありがちな展開のようだった。気持ちがないのに未練だけはあるらしいのが、東堂にしてみると潔くない。どっちが先か、というのが重要なようだった。付き合い始めにしろ終わりにしろ、こんな風にかけひきめいた事を必要とするような間柄など、自分ならはじめからゴメンだな、と思う。
「よう」
 それでもはいはいと聞いてやっていると、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。今この場で聞こえるはずのない声だった。ぬるま湯のように沈滞した空気に飽いたあげくの空耳かもしれなかったが、それにしてはやけに鮮明な声だと思い、東堂はのろのろ目線をあげた。
 まさかの人物がそこにいた。
「巻ちゃん!?なんで?」
「部の連中と飲み会。で、帰るとこ。おめーは今日は朝までか?」
 巻島がちらりと隣の彼女に視線を落とす。彼女の髪が顎に触れて驚き、体を斜めにして避けると、同じだけ彼女が体重を預けてきた。
「こら、寝るな!」
 肩を跳ねさせて起こそうとしたが、耳もとに深く吸い込む息の音を聞いて目の前が暗くなった。
 鼻筋に皺を寄せて唇を歪める東堂を見て、巻島はクハハと笑った。
「楽しそうじゃねえか」
「そんなんじゃない」
「聞いてねえショ」
 援軍を求めて向かいや斜めにある顔を順番に見たが、いつの間にやらそれぞれがそれなりの雰囲気を作っていて、東堂は自分ひとりがすっかり貧乏くじを引いたことをその時初めて思い知った。
「ちょ、待て。ないぞ巻ちゃん……」
 肩にのせられた頭がぐっと重くなった。東堂は俯いて、片手で両目を覆った。
「ほんとにねえから」
「東堂ファンクラブだろ?」
「そんなんじゃない」
 狭い通路に立っている巻島の後ろを、見た事のある顔が一つ二つ通り過ぎていく。会計すんだぞ、という先輩の声に、軽く振り返り、お疲れす、と巻島が答える。
「帰るのか?」
「当然ショ」
「オレも一緒に帰るぞ!」
「どこへだヨ」
 クハ、と息だけで笑って前を追おうとした巻島が羽織った麻のニットの裾を掴んで、ぐいっと引いた。
「待てと言っているぞ」
 巻島は足を止め、ゆらりと首を傾けて東堂を振り返った。肩にかかった髪が、さらりと前に落ちかかる。
 東堂は顔を上げた。巻島に行かないでほしかった。その気持ちのまま行かないでくれと言おうとして、その台詞はなんだかおかしい、と咄嗟に飲み込んだ。次に思いついたオレも連れて行ってくれ、はもっとおかしい。
 振り返ってほしいわけでも、引き止めたいわけでもなかった。ではいったい、自分は何を求めているのだろう。心臓がドキドキとうるさく鳴った。酒のせいかもしれなかったが、頭がくらくらして視界が斜めに傾いだ。
 巻島は瞼を少し落として、掴まれたニットの裾と、口を開いたまま声を出せずにいる東堂の顔を静かに見比べ、静かに息を吐き出した。イライラとした様子で俯いて、がりがりと頭をかく。
「たく……。いいからとっととその女送ってこいショ」
 そう言うと、かすかに顎を上げて東堂を見下ろし、唇の端を歪めた。
 笑った、と思った瞬間、肩に手がかかった。引き剥がされまいと、裾をぎゅっと握りなおす。巻島の匂いがふわりと強まり、首筋に熱い息がかかった。
「ベッドで待っててやるからヨ」
 甘ったるい声を吹き込まれ続けたのと反対の耳もとに、その低い囁きはじわりと沁みた。ぞくりと肌が粟立ち、背筋をつたわる衝動にぎゅっと目を瞑って耐えた。声をあげてしまうかと思った。
 靄がかかったようだった頭の中がパキンと切り替わって、視界に入るものすべてがくっきりと鮮明に映る。
「巻ちゃん!」
 四つん這いで半個室から首だけを外に出し、出入り口へ向かう巻島の背中へ叫んだ。居酒屋の薄暗い照明の下でゆれる緑の髪に幻惑され、東堂は動けなくなった。巻島はもう振り返らなかった。薄い背中に浮き上がった骨の形に、とくとくと小さく強く鳴りつづける胸の音を聞きながら、東堂はごくりと唾を飲み込んだ。  
巻ちゃんの囁き声を想像してぎゃーってなったので書きました。(11/6/4)
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